王子様たちの憂鬱

笑顔は角度だ。

口角を上げすぎれば媚びて見える。上げなさすぎれば、整った顔は冷たさを増す。鏡の中の僕にちょうどいいのは、唇の両端を同じ高さまで持ち上げ、目元をほんの少し緩めた形だった。

「おはようございます。本日はお越しいただき、ありがとうございます」

声は普段より半音高く。語尾を急がず、最後まで息を残す。顎を引き、肩の高さをそろえる。制服の襟に指を滑らせ、紺のネクタイが中心から二ミリもずれていないことを確かめた。

もう一度、笑う。

鏡の中の白鳥衛は、親切で、穏やかで、朝から機嫌がいい。ずいぶん健康的な別人だ。

人付き合いは才能ではない。反復練習である。
相手の名前を覚える。先に挨拶する。質問には一拍置いて答える。困っていそうなら、本人が助けを求める前に選択肢を二つ出す。そうすれば大抵の人間は、こちらを「優しい」と判断してくれる。

人間は丁寧に扱われたと感じれば満足する。実に管理しやすい。

僕は鏡から視線を外し、鞄を持った。

六月上旬のオープンキャンパス当日。
学校は廊下を磨き、花壇を整え、生徒には愛想を配布する。普段は挨拶を返さない教師まで昇降口で笑っている。私立校は、志願者が来る日だけ全員の人格が改善するらしい。

僕は二年生の案内係だった。断る理由を考えるより、引き受けて好感度を維持する方が手間が少ない。善意ではなく省エネルギーだ。

「白鳥君、おはよう。今日も完璧だね」

昇降口で受付用の腕章を配っていた女子生徒が、僕を見て笑った。

「おはようございます。腕章の仕分け、ありがとうございます。足りない色はありませんか?」

「大丈夫。さすが白王子、朝から気が利く」

白王子。

誰が最初に呼んだのかは知らない。整った顔と、乱れていない制服と、一定品質の愛想。その三点を並べれば、人間は簡単に王族になれるらしい。

「それならよかったです。何かあったら呼んでください」

僕は最適な角度で笑い、校舎へ入った。



午前十時、学校公式アカウントの生配信が始まった。

正面玄関脇の簡易ブースに、放送部一年の小野寺ひよりが立っていた。小柄な体に不釣り合いなほど大きな進行表を抱え、開始前から紙の端を何度もそろえている。

「白鳥先輩、このあと、正面玄関から図書館までご案内いただいて、その途中で施設の説明を三十秒ずつお願いします。カメラがこちらを向いたら、すぐ話し始めてください。あ、でも、前の進行が押した場合は――」

「小野寺さん」

「はいっ」

「息をしてください」

彼女は一度、口を閉じた。

「……すみません」

「謝らなくて大丈夫です。順番が変わったら、僕が合わせます」

そう言うと、小野寺は目に見えて安心した。
安心させるのは簡単だ。「大丈夫」と先に言い、そのあと僕が帳尻を合わせればいい。

配信開始のランプが赤く点灯した。

小野寺は最初の挨拶を無事に終え、校内見学の流れを説明した。声は少し上ずっていたが、言葉は明瞭だった。練習したのだろう。

問題は三分後に起きた。

「続いては、在校生による施設紹介です。本校の図書館には約五万冊の蔵書があり――」

そこはまだ、受験生へのインタビューを挟む箇所だった。

小野寺自身も、口にした直後に気づいたらしい。
進行表へ落ちた視線が止まり、唇が半端に開く。インタビュー役の生徒はまだ所定の位置に来ていない。カメラは回っている。赤いランプは、失敗した人間を見つめる時だけ妙に楽しそうだ。

五秒。
生配信では、十分に長い。

僕は胸元のマイクへ指を触れ、わずかに眉を寄せた。それからカメラへ一歩近づく。

「申し訳ありません。少し音声の確認にお時間をいただいております」

実際の音声は正常だ。後方の放送部員が不思議そうにこちらを見たが、僕は笑顔を崩さなかった。

「復旧までの間に、僕から本日の見学方法をご案内します。校内は自由見学ですが、一部の教室では体験授業を行っています。受付でお渡しした青い案内図をご確認ください」

話しながら、視界の端で小野寺へ進行表の次の項目を示す。
彼女は一度大きく息を吸い、インタビュー役が到着したのを確かめてから、小さくうなずいた。

「なお、混雑している場所では係の生徒が別の順路をご案内する場合があります。ご協力をお願いいたします」

僕は耳元へ手を当て、音が戻ったふりをした。

「音声も安定したようです。それでは小野寺さん、お願いします」

「は、はい。続いて、在校生へのインタビューです」

声はまだ硬かったが、今度は止まらなかった。

配信ブースを離れたあと、小野寺が僕を追いかけてきた。

「白鳥先輩、さっきは本当にありがとうございました。私、三番を飛ばして、それで頭が真っ白になって……」

「誰にでもありますよ」

「でも、音声は途切れていませんでした」

さすが放送部だ。自分の失敗より、記録上の事実が気になるらしい。

「内部の記録には、進行調整と残しておいてください。機材に異常があったことにする必要はありません」

「配信では機材トラブルって……」

「視聴している人に、あなたが原稿を飛ばして固まったと説明するよりましでしょう」

小野寺は進行表を胸元へ抱え直した。

「……はい。次は、項目ごとに色を変えます。原本もそのまま残しておきます」

「そうしてください」

大勢の前で他人が潰れていくのは見苦しい。
ただそれだけだ。助けた、などという湿度の高い言葉に置き換える必要はない。

僕は次の案内場所へ向かった。



午後、受付前のホールは午前より混雑していた。

説明会を終えた保護者と、部活動見学へ向かう受験生が一度に流れ込み、通路に人が溜まっていた。壁際の展示パネルが傾いた。

原因はすぐ分かった。
折り畳み式の脚が最後まで開かれていない。誰かが移動させたあと、固定を確かめなかったのだろう。手抜きはたいてい、忘れた頃に物理法則として戻ってくる。

大判のパネルは、近くにいた小学生くらいの女の子の方へ倒れ始めた。

僕が声を上げるより早く、一人の男子生徒が人の間から腕を伸ばした。

黒馬柾だった。

二年D組、男子バスケットボール部の主力。百八十八センチほどの体格と日焼けした肌、黙って立っているだけで頼もしそうに見える男だ。周囲に持ち上げられた脳筋、と僕は分類している。

黒馬は倒れかけたパネルの上端を片手で受け、もう一方の手で支柱を押さえた。力任せに戻すのではなく、倒れる方向へ一歩踏み込み、重心を止めている。

「下がってください。こちらは通れません」

僕は女の子と母親の前へ入り、近くの来場者へ手のひらを見せた。

「恐れ入りますが、右側の通路をご利用ください。係の者がすぐ固定します。お怪我はありませんか?」

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

母親が女の子の肩を抱き、何度も頭を下げる。

「黒馬、そのまま支えられる?」

「ああ。脚のロックが外れてる」

「先生を呼びます。周りを空けて」

黒馬は短くうなずいた。

近くの教員へ固定具を持ってくるよう頼み、僕は人の流れを右へ逃がした。混雑は、正面から止めると余計に詰まる。行くなではなく、こちらへ行けと言えば人は動く。

数分後、パネルは壁際へ下ろされた。
黒馬が手を離し、指を開いたり閉じたりする。怪我はなさそうだった。

「助かりました。ありがとうございます」

僕が外向きの声で言うと、黒馬はパネルの脚を見たまま答えた。

「俺は押さえただけ。白鳥が人を動かしてくれたから、戻せた」

「そうですか」

ずいぶん素直な評価だ。
運動部の人気者なら、ここで気の利いた冗談の一つでも挟みそうなものだが、黒馬は本当に事実だけを口にしたらしい。

「白鳥、案内うまいな」

「慣れているだけです」

「さっきの配信も見た。止まらなかった」

褒め言葉まで筋肉のように直線的だ。ひねりがない。
僕は笑顔で「ありがとうございます」と返した。

その時、少し離れた場所でカメラを構えていた小野寺と目が合った。
赤いランプが点いている。

「今の、撮っていたんですか?」

「はい。ホールの様子を撮影していたら、たまたま……。お二人とも顔まで入っています。公開前に先生へ確認します」

「事故の原因が分かるようにしてください。誰かの美談にして、事実をうやむやにしないように」

「はい。元の映像は残します」

小野寺は、今度は迷わず答えた。

黒馬は僕と小野寺を交互に見てから、まだ床に残っていた固定具を拾い、教員へ渡した。
それだけだった。

僕たちは同学年で、名前も評判も知っている。まともに言葉を交わしたのは、今が初めてに近い。

僕の中で黒馬は、相変わらず体が先に動く脳筋のままだった。



最後の来場者が帰った頃、クラスの連絡グループに学校公式動画のリンクが流れてきた。

〈今日のオープンキャンパスを支えた在校生たち〉

嫌な予感は、たいてい通知音より早く届く。

動画は三十秒ほどだった。
倒れかけたパネルを黒馬が支え、その手前で僕が来場者を誘導している。黒馬の長い腕と大きな体、その隣で笑顔を崩さず話す僕。撮影位置のせいで、二人が最初から役割を分担していたように見えた。

実際には、偶然同じ場所にいただけだ。
だが映像は、偶然を運命に加工するのが得意らしい。

コメント欄には、すでに反応が並んでいた。

〈白王子、対応がきれいすぎる〉
〈パネル支えてる人、バスケ部の黒馬先輩? 黒王子じゃん〉
〈白王子と黒王子が並ぶと絵になる〉

白王子と黒王子。

画面の中で、僕らは正反対の一組にされていた。
片方が白なら、もう片方は黒。片方が言葉なら、もう片方は力。人間は二人の男子生徒が同じ画角に入っただけで、勝手に対比を作り、物語を生やす。

僕は動画を閉じた。

自分一人への評価なら管理できる。
笑う角度も、話す速さも、差し出す言葉も、全部こちらで決められる。

けれど誰かと並べられた瞬間、意味は僕の手を離れる。

机の上で、もう一度通知音が鳴った。
今度は校内連絡アプリだった。

差出人は、広報担当の久世副校長。

〈二年A組・白鳥衛君、二年D組・黒馬柾君。明日放課後、広報室へ来てください。本日の映像について、お二人に相談があります〉

宛名に並んだ二つの名前を見て、背中に薄い不快感が走った。

画面の中では、僕と黒馬が完璧な対を成している。
現実では、ろくに話したこともない。

それなのに、知らない誰かの指が、もう僕たちの間に一本の線を引いていた。

笑顔の角度なら、僕が決められる。
けれど、その笑顔を何と呼び、誰と並べるかは、僕には決められないらしい。