南文京駅から数駅。三路線が交わるターミナル駅は、多くの人であふれかえっている。
人の波に流されるように、俺たちは駅ビルへ入った。フロアマップを見上げ、キッチンフロアを目指す。
「僕も買おうかな、これ」
秦野は一通り持っているくせに、俺が選んだものと色違いを買おうとした。必要あるのかと訊けば、秦野は少し考え込んでから、もっともらしく口を開いた。
「割れたときに困るじゃん。箸だって噛んで折っちゃうかもでしょ?」
なんて言われる始末で、秦野の好きにさせた結果、袋を三つも抱えることになってしまった。
布団を買う前に、併設されているカフェで昼食を食べることにした。目の前に座る秦野は大きな口を開けてホットサンドを頬張っている。
「なんでそんなに嬉しそうなわけ?」
秦野はごくんと飲み込んだあと、水を少し口に含んで、それも喉を鳴らして飲む。それからぴっと右の人差し指を俺に向けて、どこか偉そうな様子で言った。
「そんなの、これから美味しいご飯が食べられるからに決まってるじゃん?」
「アーハイハイ」結局どこまで言っても飯なわけね。「食欲は人間の三大欲求のひとつだもんな」
自分が頼んだミートソースパスタを、フォークに巻き付けながら言ってやった。
「それにね」
いたずらっぽく俺を捉えていた秦野の視線が、ゆっくりとパスタへ落ちる。
「黒川のことをもっと知りたくなったんだ」
昼どきの食べ物の香りをまとった活気が、俺のまわりだけ、さっと消えた。
思わず飲み込んだパスタは、ひとつの大きな塊となって、喉の粘膜を押しのけながら、下へと落ちていく。
「知りたくなった、って。どういう……」
「まわりはどんどん進路を決めていくなかで、僕だけが決まってないと思ってた。でも」
「だ、大学進学しない理由って!」
その先に自分の名前が続きそうな気がして、とっさに声を上げる。
「やっぱり親戚に負担かけたくないから?」
自分に話題が振られる前に、秦野へ押し戻した。心臓がばくばくと鳴っている。秦野はやんわりと頷いた。
「地元で就職しようかなって思ってる。叔父さんが働いてる自動車メーカー、毎年高卒も採ってくれてるし」
「親戚はそうしろって?」
秦野は首を振る。
「叔父さん達は、進学を勧めるんだ。紬生くんは我慢しなくていいんだよ、って」
秦野はグラスについた水滴を指で拭った。
「でも、早く働けば、これ以上迷惑かけなくて済む」
「もう決めたのか?」
秦野はすぐには答えなかった。
「勉強は好きだよ。大学で勉強してみたい気持ちも、ないわけじゃない」
「じゃあ」
「でもその程度なんだよ」秦野は困ったように笑った。「その程度の気持ちで、お金を出してもらうわけにはいかないでしょ」
俺はなにも返せないまま、ホットサンドに目を落とす。
「こんなこと言われても困るよね」
ただ黙って首を振った。頭に浮かぶ言葉のどれもが、しっくりこなかった。こういうとき、なんて言えばいいのかわからない。
「でも、話を聞いてくれてありがと。初めて誰かに話したよ」
秦野の顔は、悲しそうで、でも、どこかスッキリした表情だった。
結局、俺に話が振られることはなかった。それにほっとしているはずなのに、食べたミートパスタと一緒に、胃の中でなにかがうごめいていた。
布団を買い終えた俺は、実家から教科書や洋服を回収し、ふたたび秦野の部屋に戻ってきた。
俺の服をしまえるようにと、秦野はクローゼットの半分を空けてくれた。けれど、もともと秦野の服は多くないようで、わざわざ場所を作ったという感じでもなかった。
あらためて部屋を見渡す。あるのはベッドとローテーブル、それからテレビと、テレビ台代わりのカラーボックスくらいだった。カラーボックスの中に、教科書やノートが収まっている。拍子抜けするほど物が少ないワンルームだった。
スクールバッグはクローゼットの床にでも置いておいて、教科書はカラーボックスの開いているところに入れて。と、秦野の指示通りに片付けていく。南東向きの窓には、隣のマンションの照り返しが差し込み、部屋の空気をうっすら黄色く染めていた。
晩飯は、駅前の牛丼屋でテイクアウトすることにした。帰り道のコンビニで、アイスも買った。「引っ越しそばならぬ引っ越し牛丼だね」と、正面に座る秦野は笑った。
今日からここで寝泊まりする。そのことに実感が湧かなくて、かきこんだ牛丼もアイスも、味はよくわからなかった。
風呂を済ませるころには、二二時を回っていた。部屋の真ん中に置いてあったローテーブルを壁際へ寄せ、買ったばかりの布団を床にひろげる。
「下に黒川いるの変な感じ」
秦野は布団に潜り込みながら言う。
「なんだよ。お前が、しばらくうちに泊まれば、って言ってきたくせに」
俺も布団の間にずるずると足を入れた。
「まあ確かに俺も変な感じするわ」天井を目でなぞる。「煙草の匂いがしねぇ」
「煙草?」
ごそりと布がこすれる音が聞こえた。秦野がこっちを向いたのかもしれない。俺は天井を見つめたまま話を続けた。
「母親が超ヘビースモーカーでさ。連れてくる彼氏も、ほぼ全員吸うの。だから家中すんごいのよ、匂いが」
右手の二本の指で煙草を挟むような形を作り、煙草を吸う真似をしてみる。
そういえば、たった一度だけ。吸わない奴がうちに来たことがあった。唇に指を当てたまま、小学六年の俺と繋がっていく。俺が知っている母親の彼氏のなかで、煙草を吸わない奴は多分そいつのみ。スーツ姿がやけに板についていて、子どもの俺にも、ほかの男たちとは違って見えた。
顔は思い出せないけれど、その日のことだけは強烈に覚えている。だって……。
「――かわ。黒川?」
「え、あ、呼んだ? ごめん、ぼーっとしてた」
「黒川は吸ってないよね?」
「吸ってねえよ。そもそも、未成年は吸っちゃだめだろ」
「そうだけど」
「俺、吸ってそうな顔してる?」
上半身を起こし、ベッドへにじり寄って、自分の顔に向かって指をさす。秦野は顔の半分を布団で隠したまま、無言で頷いた。
「おいっ!」
「派手なやつは吸うって決まってる」
「なにそれ。昔の漫画の読みすぎだろ」
「でも。やっぱり黒川は吸ってないかもね」
「どっちなんだよいったい」
ベッドから離れ、勢いよく布団に倒れ込んだ。その衝撃が背骨に響く。
「まあ、気になったことがないとは言わねぇけど」
しばらく忘れていたその記憶に、胸がぎゅっと締め付けられた。肌に触れる掛け布団は少しひんやりして、綿の重みは妙に心地いい。全身の力がほどよく抜け、普段なら飲み込むような話まで、少しくらい口にしてもいい気がした。
それは、聞いてくれる相手が秦野だから、なのかもしれない。
「昔、止められたんだよ。スーツのおっさんに」
「スーツのおっさん?」
「ああ。たぶん、母親の元彼氏」
「黒川って、大人の話をちゃんと聞くんだ」
「お前、俺のことをなんだと思ってんだよ」
秦野は笑ってごまかし、「いいよ続けて」と俺を促す。
「なんか、こう。うまく言えないけど、そいつに止められたっていうインパクト?が妙に残っちゃってさぁ。だから吸ったことはないし、これからも吸う気はない」
それからは、母親と同じことをしたくない、という意地だった。
話しながら布団を強く握りしめていたようで、前腕の筋がかすかにこわばっていた。
「そ」と、秦野が短く返してくる。「電気消して?」
「え、なんて?」
聞き返しながらもう一度起き上がる。ベッドを覗くと、秦野は頭まですっぽり隠れていて、布団がまあるく膨れていた。
「僕もう眠い……」
「は、え?」
目の前の布団は、ぴくりとも動かない。ため息をつきながら立ち上がり、壁にあるスイッチを押す。暗転と共に、目の奥がじんわり熱を帯びる。昨日今日の疲れがいっきに全身へひろがって、瞼はどろりと重くなる。このまま意識が沈みそうだ。
カーテンの隙間からわずかに洩れる光を頼りに、俺も布団へ突っ伏した。
人の波に流されるように、俺たちは駅ビルへ入った。フロアマップを見上げ、キッチンフロアを目指す。
「僕も買おうかな、これ」
秦野は一通り持っているくせに、俺が選んだものと色違いを買おうとした。必要あるのかと訊けば、秦野は少し考え込んでから、もっともらしく口を開いた。
「割れたときに困るじゃん。箸だって噛んで折っちゃうかもでしょ?」
なんて言われる始末で、秦野の好きにさせた結果、袋を三つも抱えることになってしまった。
布団を買う前に、併設されているカフェで昼食を食べることにした。目の前に座る秦野は大きな口を開けてホットサンドを頬張っている。
「なんでそんなに嬉しそうなわけ?」
秦野はごくんと飲み込んだあと、水を少し口に含んで、それも喉を鳴らして飲む。それからぴっと右の人差し指を俺に向けて、どこか偉そうな様子で言った。
「そんなの、これから美味しいご飯が食べられるからに決まってるじゃん?」
「アーハイハイ」結局どこまで言っても飯なわけね。「食欲は人間の三大欲求のひとつだもんな」
自分が頼んだミートソースパスタを、フォークに巻き付けながら言ってやった。
「それにね」
いたずらっぽく俺を捉えていた秦野の視線が、ゆっくりとパスタへ落ちる。
「黒川のことをもっと知りたくなったんだ」
昼どきの食べ物の香りをまとった活気が、俺のまわりだけ、さっと消えた。
思わず飲み込んだパスタは、ひとつの大きな塊となって、喉の粘膜を押しのけながら、下へと落ちていく。
「知りたくなった、って。どういう……」
「まわりはどんどん進路を決めていくなかで、僕だけが決まってないと思ってた。でも」
「だ、大学進学しない理由って!」
その先に自分の名前が続きそうな気がして、とっさに声を上げる。
「やっぱり親戚に負担かけたくないから?」
自分に話題が振られる前に、秦野へ押し戻した。心臓がばくばくと鳴っている。秦野はやんわりと頷いた。
「地元で就職しようかなって思ってる。叔父さんが働いてる自動車メーカー、毎年高卒も採ってくれてるし」
「親戚はそうしろって?」
秦野は首を振る。
「叔父さん達は、進学を勧めるんだ。紬生くんは我慢しなくていいんだよ、って」
秦野はグラスについた水滴を指で拭った。
「でも、早く働けば、これ以上迷惑かけなくて済む」
「もう決めたのか?」
秦野はすぐには答えなかった。
「勉強は好きだよ。大学で勉強してみたい気持ちも、ないわけじゃない」
「じゃあ」
「でもその程度なんだよ」秦野は困ったように笑った。「その程度の気持ちで、お金を出してもらうわけにはいかないでしょ」
俺はなにも返せないまま、ホットサンドに目を落とす。
「こんなこと言われても困るよね」
ただ黙って首を振った。頭に浮かぶ言葉のどれもが、しっくりこなかった。こういうとき、なんて言えばいいのかわからない。
「でも、話を聞いてくれてありがと。初めて誰かに話したよ」
秦野の顔は、悲しそうで、でも、どこかスッキリした表情だった。
結局、俺に話が振られることはなかった。それにほっとしているはずなのに、食べたミートパスタと一緒に、胃の中でなにかがうごめいていた。
布団を買い終えた俺は、実家から教科書や洋服を回収し、ふたたび秦野の部屋に戻ってきた。
俺の服をしまえるようにと、秦野はクローゼットの半分を空けてくれた。けれど、もともと秦野の服は多くないようで、わざわざ場所を作ったという感じでもなかった。
あらためて部屋を見渡す。あるのはベッドとローテーブル、それからテレビと、テレビ台代わりのカラーボックスくらいだった。カラーボックスの中に、教科書やノートが収まっている。拍子抜けするほど物が少ないワンルームだった。
スクールバッグはクローゼットの床にでも置いておいて、教科書はカラーボックスの開いているところに入れて。と、秦野の指示通りに片付けていく。南東向きの窓には、隣のマンションの照り返しが差し込み、部屋の空気をうっすら黄色く染めていた。
晩飯は、駅前の牛丼屋でテイクアウトすることにした。帰り道のコンビニで、アイスも買った。「引っ越しそばならぬ引っ越し牛丼だね」と、正面に座る秦野は笑った。
今日からここで寝泊まりする。そのことに実感が湧かなくて、かきこんだ牛丼もアイスも、味はよくわからなかった。
風呂を済ませるころには、二二時を回っていた。部屋の真ん中に置いてあったローテーブルを壁際へ寄せ、買ったばかりの布団を床にひろげる。
「下に黒川いるの変な感じ」
秦野は布団に潜り込みながら言う。
「なんだよ。お前が、しばらくうちに泊まれば、って言ってきたくせに」
俺も布団の間にずるずると足を入れた。
「まあ確かに俺も変な感じするわ」天井を目でなぞる。「煙草の匂いがしねぇ」
「煙草?」
ごそりと布がこすれる音が聞こえた。秦野がこっちを向いたのかもしれない。俺は天井を見つめたまま話を続けた。
「母親が超ヘビースモーカーでさ。連れてくる彼氏も、ほぼ全員吸うの。だから家中すんごいのよ、匂いが」
右手の二本の指で煙草を挟むような形を作り、煙草を吸う真似をしてみる。
そういえば、たった一度だけ。吸わない奴がうちに来たことがあった。唇に指を当てたまま、小学六年の俺と繋がっていく。俺が知っている母親の彼氏のなかで、煙草を吸わない奴は多分そいつのみ。スーツ姿がやけに板についていて、子どもの俺にも、ほかの男たちとは違って見えた。
顔は思い出せないけれど、その日のことだけは強烈に覚えている。だって……。
「――かわ。黒川?」
「え、あ、呼んだ? ごめん、ぼーっとしてた」
「黒川は吸ってないよね?」
「吸ってねえよ。そもそも、未成年は吸っちゃだめだろ」
「そうだけど」
「俺、吸ってそうな顔してる?」
上半身を起こし、ベッドへにじり寄って、自分の顔に向かって指をさす。秦野は顔の半分を布団で隠したまま、無言で頷いた。
「おいっ!」
「派手なやつは吸うって決まってる」
「なにそれ。昔の漫画の読みすぎだろ」
「でも。やっぱり黒川は吸ってないかもね」
「どっちなんだよいったい」
ベッドから離れ、勢いよく布団に倒れ込んだ。その衝撃が背骨に響く。
「まあ、気になったことがないとは言わねぇけど」
しばらく忘れていたその記憶に、胸がぎゅっと締め付けられた。肌に触れる掛け布団は少しひんやりして、綿の重みは妙に心地いい。全身の力がほどよく抜け、普段なら飲み込むような話まで、少しくらい口にしてもいい気がした。
それは、聞いてくれる相手が秦野だから、なのかもしれない。
「昔、止められたんだよ。スーツのおっさんに」
「スーツのおっさん?」
「ああ。たぶん、母親の元彼氏」
「黒川って、大人の話をちゃんと聞くんだ」
「お前、俺のことをなんだと思ってんだよ」
秦野は笑ってごまかし、「いいよ続けて」と俺を促す。
「なんか、こう。うまく言えないけど、そいつに止められたっていうインパクト?が妙に残っちゃってさぁ。だから吸ったことはないし、これからも吸う気はない」
それからは、母親と同じことをしたくない、という意地だった。
話しながら布団を強く握りしめていたようで、前腕の筋がかすかにこわばっていた。
「そ」と、秦野が短く返してくる。「電気消して?」
「え、なんて?」
聞き返しながらもう一度起き上がる。ベッドを覗くと、秦野は頭まですっぽり隠れていて、布団がまあるく膨れていた。
「僕もう眠い……」
「は、え?」
目の前の布団は、ぴくりとも動かない。ため息をつきながら立ち上がり、壁にあるスイッチを押す。暗転と共に、目の奥がじんわり熱を帯びる。昨日今日の疲れがいっきに全身へひろがって、瞼はどろりと重くなる。このまま意識が沈みそうだ。
カーテンの隙間からわずかに洩れる光を頼りに、俺も布団へ突っ伏した。
