未完成なクレバーたち

「すご……卵がとろとろしてる……」目の前に差し出したオムライスを、秦野は食い入るように見つめた。「お店で食べるやつじゃん!」
 味付けはケチャップだけで、大したものではない。それなのに、まじまじと見つめられると、なんだか気恥ずかしい。
 秦野はやっとスプーンで掬ったかと思えば、あいかわらず四方八方から眺めていて、まったく食べる様子がなかった。
「冷める前に食べろよ」
「だって……」
「もったいない?」
 と聞くと、秦野は少しだけ身を引き、唇を噛み締めながら頷いた。
「じゃあ俺のも食べていいよ」
「え、でも! 黒川のご飯が」
 言葉では俺の飯の心配をしてくれているが、その目は俺のオムライスにがっちりと繋がっている。
「俺は秦野が買ってくれたおにぎり食うし」
「そ、そう?」
「つーか、全部食えるの?」
「うん。実は僕、けっこう食べるんだよね」
「だとしたら、いつもの昼飯少なくね?」
「ああ、あれは。節約?」
 節約という言葉が、地を這うように響いた。スプーンの先が皿に触れて、カチャンと乾いた音を立てる。口へ運ぼうとした卵が、わずかにスプーンからこぼれ落ちる。
 その黄色い軌道を眺めながら、昨日の言葉を思い出した。
「なあ。なんで一人で暮らしてるの? 地元こっちじゃないの?」
 ごくん、と喉を鳴らしてから秦野は口を開いた。
「地元は仙台なんだけど」唇についた卵を舐める。「僕、親がいないんだ。小さいときに、二人とも死んじゃって」
「え」思わず口許を手で隠す。「ごめん、その……」
「大丈夫だよ。説明するのは慣れてるし」
 秦野はスプーンを皿の端に置いて、座り直した。
「両親が死んで最初はおばあちゃん家にいたんだけど、おばあちゃんが施設に入ることになってからは母親の妹の家に預けられたんだ。たしか小学五年のころだったかな。その家には、僕より十歳年下の女の子がいて、僕が中学生になると弟も生まれた。迷惑かけたくなくて、授業料が免除されるブンナンに入ったんだ」
「そう、だったのか」
 秦野の視線から逃げるように、テーブルのへりを目でなぞった。
「本当は部屋だって、もっと安いところにしたかったんだ。でも、お金は心配しなくていいから、ちゃんとしたところに住みなさい、って言われて」
 だから文京地区に住んでいるのか。治安のいい地域。オートロックのついた、静かなマンション。両親を亡くした秦野を、親戚は大事にしてきたのだろう。
「なぁ。まさか、これって」
 俺は自分が着ているスウェットをつまんで秦野へ見せる。
「うん。叔母さんが送ってくれたんだ。昨日も言ったけど、僕には大きすぎたから。黒川に着てもらってよかったよ」
 親がいるけどいないも同然の俺と、本当に親がいない秦野を比べていいわけがない。そんなことはわかっている。それでも、指先に感じるスウェットのざらつきが、胸の奥を逆なでる。
 着てもらってよかったと安堵を見せる秦野と、俺は、住む世界が違う。手紙を回収しそこねたのは、ちょうどよかったのかもしれない。自分のなかの薄汚れたものが洩れるまえに、このまま終わらせたほうがいい。
「じゃ、俺はこれで」
「あのさ!」膝に手をついて立ち上がろうとした俺に、秦野が声を飛ばした。「僕の手紙、捨てたでしょ」
「え」
「昨日いたのって、これのためだった?」
 秦野は後ろを振り返り、バッグのなかを探る。テーブルの上に俺が丸めて捨てたはずの手紙が置かれた。引き戻されるようにもう一度腰を下ろし、目を細めて文字を追った。
「電話……番号?」
「うん。僕たち知らなかったじゃん。だから交換しない?」
 その問いかけに、すぐには言葉を返せなかった。
「黒川?」
 俺と秦野がこれ以上親しくなることはない。
 ないのに、立ち上がることもできない。
「捨てたのは、嫌だったとかじゃなくて」弁明なんて必要ないのに、口が勝手に動く。「白鳥さんにバレそうになって、とっさに」
「でも、ちゃんと回収しに来てくれた」
「結果的に、お前に迷惑かけたし」
「それでも、こんなにおいしいオムライスを作ってくれた」
「こんなの簡単だから」
「やっぱり黒川って、優しいよね」
 秦野はいつのまにか、二人前のオムライスを平らげていた。終わらせるはずだったのに、この場を去るタイミングさえ見失って、ずるずると秦野のペースにのまれている。
「毎日お弁当も手作りだし、もしかして黒川って料理好きなの?」
 だからその問いにも、考えるより先に反応してしまった。
「うちの親、料理しねぇんだよ」
「――え?」
「あ、」
 しまった。秦野が意味がわからないというように俺を見据えている。ぶつかった視線は、簡単にはほどけない。半端に開いた口の中で、言葉を探すように舌で歯の裏をなぞる。冗談にするにも、嘘をつくにも、もう遅い。
「もしかして、家に電話しなかったのは」
「ははっ。秦野は察しが良いねぇ」
 胸の奥にわいた不快感を、鼻で笑ってごまかす。俺の軽口にも、秦野は目を逸らさなかった。沈黙が、惨めさをあらわにしていく。
 肘をテーブルに投げ出すようにして、頬杖をついた。秦野から視線を外し、わざと深いため息をはいた。いまから話すことは大したことじゃないけど、と前置きをする。
 初めて料理を作ったのは、小学五年の頃だったと思う。
 母親は仕事だったり、男と遊んでいたりで、その頃は俺の食事を用意することはほぼなかった。そのかわり、金だけ渡された。金額はまちまちで、多いときはスーパーの惣菜を買ったが、少ないときのほうがほとんどで、カップ麺やパンばかり食べていた。さすがに飽きたと思ったころ、家庭科の調理実習でポテトサラダを作った。茹でたじゃがいもの土っぽい香り。それを押しつぶすときの、手のひらに返ってくるもったりとした感触。マヨネーズの量は、味見をしながら少しずつ調整する。
 班のメンバーと手分けしたとはいえ、自分で作ったポテトサラダがいま目の前にある。それを胃に落とし込むたび、生きる力を、得たような気がした。
 家に帰ると、すぐにキッチンを漁った。シンク下から、ほこりをかぶった鍋やおたまが出てきた。棚の奥には、ずっと使っていなかった炊飯ジャーもあった。
 近所の図書館でレシピ本を借りた。そうして少しずつ、作れるものが増えていった。ポテトサラダのほかに、豆腐の味噌汁、卵焼き。
 もちろん白いご飯だって炊けるようになった。
「料理なんて、一番は生きるため。だけど、好きか嫌いかって言われたら、たぶん好きだと思う」
 自分から言い出したとはいえ、重い空気に耐えられず、バッグと制服を抱えて立ち上がった。
「昨日、泊めてくれて……ほんとに助かった」
 ノブに手をかけドアを開ける。キッチンに残る卵と油の匂いが、鼻腔をかすめた。日の光の届かない廊下には、ついさっきまでの俺たちが、残像みたいに浮かんでいる。
 「おいしい」と言ってくれた秦野の顔を、いつまでも見ていたかった。でも、これ以上ここにいたら、惨めな気持ちに押しつぶされそうだ。
「ねえっ! 帰りたくないなら……しばらくうちに泊まれば?」
 廊下へ踏み出した足が止まる。
「黒川の気が済むまで」
 秦野の声が、ゆっくり胸に落ちてきた。帰るつもりで廊下に出たはずなのに、足はそれ以上動かなかった。
 おそるおそる振り返る。困ったように揺れる秦野の視線は、しかし、まっすぐに俺を捉えていた。
「黒川の家のことはよくわからないから、無責任なことは言えないけど。気が済むまでここにいてもいいよ?」
「ここに、いても……?」
 あの家に帰りたくない。そう思った瞬間、喉の奥に熱いものがせり上がってきた。唇を噛んで、必死に抑え込む。
「それに、黒川の作ってくれたご飯美味しいから、僕はもっと食べたいし!」
「お前の目的はそれかよ」
 どうにかそう返すと、秦野は笑顔でうなずいた。その顔に、唇を噛む力がふっと抜けた。
「じゃあ、決まりだね」
「決まりって、まだなにも」
 秦野は腰を上げると、まっすぐ俺の前まで来て、手を差し出した。
「しばらくよろしくね。黒川」
「あ、ああ」
 白い手のひらに誘われるように、自分の手を重ねた。