アラームが鳴るより先に目が覚めた。というか、寒さでまんぞくには眠れなかった。丸めていた体をゆっくり伸ばす。動かすたび、こわばった関節がぎしぎし鳴った。
ベンチから身を起こすと、体の奥に重だるい熱がくすぶっている感じがあった。喉の奥でもわんもわんと響く心音を、気のせいだと言い聞かせて、公園の水道で歯を磨き、顔を洗った。冷たい水が脳を叩き起こして、補導されずに夜を明かせたことを改めて実感し、少しほっとする。
きんとした空気のなかでは、遠くの音すらクリアに聞こえてくる。建物に反響する車のエンジン音に、こころなしか爽快さを感じた。俺にだけそう聞こえたのかもしれないけれど。
街がまだ微睡んでいる早朝は好きだ。犬を連れた老人が、園路をゆっくり歩いていく。俺の姿は、老人の目にも入っているのかもしれない。けれど、たぶんそれだけ。公園のベンチに人がいる、それ以上の意味を持たない。
誰にも見咎められず、誰とも比べられず、ただここにいられる。早朝には、そういう温かい孤独があった。
使い捨ての歯ブラシをゴミ箱へ捨て、公園を後にした。スマホで時間を確認する。五時三八分。母親はまだ起きていないだろう。財布を回収して誰もいないポポールへ向かう流れを頭に思い浮かべながら、朝の街を急いだ。
「げ」
店に着いてからが問題だった。
鍵を持っていない俺は、ドアを開けられなかった。
うちの店に鍵は二本ある(店長のマスターキーを入れれば三本)。オープン担当と、クローズ担当がそれぞれ持っている。俺が鍵を持つのは、店長が休みの水曜日のみ。金曜日の出勤時、店に返却する。昨日持っていた鍵は、いまバックルームの金庫のなかだ。
ガラス張りの自動ドアの前に立ち尽くす情けない姿が、暗い店内に、幽霊みたいに浮かび上がっていた。
少し考えれば分かったことなのに。朝イチで手紙を回収する、そればかりに気を取られていたせいか。それとも、さっきよりも重だるい頭では、そこまで考えが回らなかったか。どちらにせよ、すっぽり抜け落ちていた。
俺がここにいる理由を、今日の早番になんて説明しよう。言い訳を探しながら、天を仰いだそのとき、
「黒川?」
と、背中に聞き慣れた声が飛んできた。
「は、秦野? どうしてここに?」
「それ、こっちのセリフなんだけど」
デニムジャケットを羽織った秦野が、俺を上目で睨んできた。その姿に、ふっと違和感が走る。ベージュのパンツに、トップスのインナーは白いTシャツ。シンプルで整っている姿は、秦野のようでいて、俺の知っている秦野じゃないのは。
「ああ〜、私服だからだ!」
指をさして言った。納得して頷く俺に、秦野の目は更に細くなる。
「なんなの? 会話になってないし」
「あ、いや、ごめん。私服の秦野を初めて見たなって思って」
秦野は呆れるように首を傾げ、俺の隣にしゃがみこんだ。黒い髪にデニムの淡い青がよく映えている。
「今日は僕が早番」
「え?」
「早番の井口さんも工藤さんも休みだから」
秦野はそう言いながら鍵を回した。ガチャンと気持ちの良い音が朝の空気を割った。
「で、黒川はなんでいるの? しかも制服で」
秦野は電源が落ちた自動ドアを、人ひとりが通れる分だけこじ開けて店内に入った。俺も続いて入り、ドアを押し戻す。俺らが入ったことで、防犯システムの警報音がけたたましく鳴り響いた。
「着替えるタイミングがなくてさぁ!」
警報音に負けないように声を張って言うと、槍で刺されたような強い痛みが頭のなかに走った。
秦野がシステムを解除した。ぱったりと音が消え、いきなり戻ってきた静けさに耳の奥はなかなか慣れない。ほわんほわんと残る残響に、耳のそばを走る血管が脈を打つ。
「着替えるタイミングって……家に帰ってないの?」
「いや帰った! 帰ったんだけど、着替えるタイミングなくて……。あと、お前の想像してるのとは多分違うぞ?」
「女の子」
「だから違うって」
「まあいいけど」秦野は指に引っ掛けた鍵を弄ぶ。「ところで、なんで休みなのに店に来たの? しかもこんな朝っぱらに」
「それは……」
お前の手紙を捨ててしまったから、と正直に言っていいのか考えながら、秦野の肩越しにバックルームのドアを見据えた。
その瞬間。
ぐわんと視界が大きく波を打ち、今度は脳が絞られるような痛みが走った。反射的に右手で額を抑える。目の奥の血管がどくどく波を打って熱い。
「え、黒川? ちょ、ちょっと大丈夫?」
駆け寄ってくる秦野の足音すら、頭のなかにつんざくように響く。
「あたまが……」
視界が滲んでいく。心臓が胸を強く叩いている。拍動に合わせて体の奥底から寒気が立ち上がる。
ぞくぞくする感触を、呼吸に集中することでやりすごす。血の気が引いたように指先だけがきんと冷たい。
「黒川っ! 熱あるよ?」
「……ああ、熱」
冷たい手が俺の額を覆った。その冷たさは、熱を吸い取ってくれるみたいで気持ちが良かった。
かろうじて動く思考回路が、答え合わせをする。四月の夜空の下で風邪を引いたと認めてしまえば、転がり落ちるように体がガチガチと悲鳴を上げた。
「スマホ貸して? 親御さんに連絡する。迎えに来てもらおう」
秦野が引いてくれた椅子に俺は腰を下ろした。
「いや、いい!」ありったけの力で、かぶりを振った。「連絡しても、迎えになんて来ないから。……むしろ連絡したくない」
なんだか余計なことまで言ってしまった気もする。脳が溶けたように、思考回路はだんだん鈍くなる。
「じゃあ、いったん僕の家に行こ?」
僕の、家?
「いや。このまま一人で帰る」
親の顔が浮かんだせいか、頭の痛みは少し引いた。椅子からずるりと立ち上がる。
「僕の家、すぐそこだから」
「それは前も聞いた」
「だから僕の家で休みなよ」
そこで初めて秦野と目があった。眉を大きくハの字に曲げたその顔からは、いつもの淡々とした様子が消えていた。気圧されそうになるのを、残りわずかな力を腹に込めて、ぐっと堪えた。
「でも、お前の家だって家族いるだろ? それに、お前に風邪が移るかも」
「僕はひとり暮らしだからその心配はいらない。あと風邪もひかないから大丈夫」
さあ帰ろう、と秦野は俺の腕を掴んだ。
ひとりで暮らしているのか?
風邪をひかないって、どこから来るんだよその自信は。熱でぼんやりする頭に、秦野の言葉がひとつずつ引っかかる。けれど、口をついたのは、目下のことだった。
「お前これから仕事だろ? だって時間……」
「いまから黒川を家に連れてったとしても、出勤時間には間に合うから大丈夫」
「大丈夫と言われても……」
「うだうだ言ってないで早く行くよ」
秦野が俺の腕をくいくいと引っ張る。
耳心地の良いその言葉に寄りかかりたくなる衝動が、悪寒となって頭をもたげる。それ以上抵抗する力はすでになかった。
「一四時半までには帰ってこれると思う。ゆっくり寝てて」と言い残して秦野は出ていった。
ベッドに寝かされたころには、抵抗する気力も残っていなかった。
風呂に入っていない、と言った記憶はある。
けれど秦野は聞かなかった。冷却ジェルと未使用のスウェットを渡され、「さっさと着替えて、早く寝て」と短く言われた。反論するより先に、シートの冷たさが火照った体に染みていった。
テーブルの上の水とコップを最後に、視界が暗転した。閉じた瞼も、全身も、ドッドッという拍動にあわせて小さく揺れている。目の上にある神経が、大きな円を描いている。
寝返りをうつと、埃とともに秦野の匂いがほんのりと舞った。不思議と嫌な気はしなく、大きく息を吸う。香りとともに眠気が襲ってきた。
どれくらい眠ったのだろう。
意識が、暗闇から浮かび上がる。吸う息がカサカサの喉を通り、吐く息はべたつく口の中でもたついた。それでも体は少し軽くなっているような気がした。
瞼を閉じたまま両腕を頭の上へ伸ばし、肺の奥から息を吐きだした。ふっ、と息が切れると、憑き物が取れたみたいにすっきりした。
瞼を開くと、部屋は暗かった。
枕元に置いたはずのスマホを手で探り見つけ、液晶の眩しさに目を細めて時間を確認した。午後十一時。半日以上、眠っていた。
秦野はどこにいる?
ぼうっとする頭をもたげて、あたりを見回す。テーブルを挟んだ向こうに、横たわる人影が見えた。片足を下ろし、覗き込む。カーテンの隙間から差し込む街灯の細くて青白い光に照らされ、ダウンジャケットを布団がわりに被った秦野が身を丸めて寝ていた。無事帰ってきていることを確認し、ベッドに体重をあずける。
だが、ラグの上とはいえ、ほぼ床みたいな硬いところで寝かせるのは気が引ける。秦野を起こして、ベッドに寝かせようか。いやでも、俺が使ったあとの場所になんて寝たくないよな……。すうすうと寝息を立てる秦野の横顔を見つめながら、あれこれ考えを巡らせる。
結局しっくりくる案が見つからず、トイレに行こうとしたとき、テーブルの上が寝る前と違うことに気づいた。
さっきはペットボトルの水とコップしか置いてなかったのに、ゼリー、スポーツドリンク、歯ブラシまである。その横には、破ったノートの切れ端みたいなものがあった。スマホをライトがわりにして、その紙を照らす。
ゼリーと、スポーツドリンクはテーブルにおいてます。
歯ブラシと下着を買ったので、よかったら使って
冷蔵庫におにぎりと、冷凍庫にはアイスがあるから、食べれそうなら食べて。
シャワーは自由に使っていいよ。タオルはどれ使ってもかまわないから
テーブルの下でビニールに触れた。音を立てないようにゆっくり開けると、なかにはコンビニで売っているような下着が入っていた。
ひとつずつ状況が理解できて、はじめて自分の体に不快感を覚えた。金曜日から洗っていない髪の毛は、頭皮がべたついている。
秦野が起きないようにそっとリビングのドアを開けると、キッチンと脱衣所が兼用の廊下に出る。浴室と書かれたスイッチを押すと、オレンジ色の光が目の奥まで刺さった。
服を脱ぐ。昨晩から続く緊張が服とともにはらりと床に落ちて、身体が軽くなった。頭からシャワーを浴びると、毛穴から疲労が溶け出し、そのまま排水口へ流れていった。
浴室から出て新しい下着に体を通す。キッチンで歯を磨き、ペットボトルの水を飲む。からからの喉は無限に水分を欲するようで、ペットボトルはすぐ空になった。口許の水分を手の甲でぬぐいながら、秦野の寝顔をそっと覗く。さっきと同じように、寝息を立てていた。
もう一度ベッドへ戻り、布団を頭までかぶる。やっぱり秦野の匂いは嫌にならないな、と思った。そのまま、眠りに落ちる瞬間の、意識を失う心地よさに飛び込んだ。
ゆっくり瞼を開けると、覗き込む秦野とばっちり目があった。
「は、たの……ッ?」
「あ、起きた」
秦野はそう言うと視界からぱっと消えた。俺は肘をついてゆっくり体を起こす。カーテンは開いていて、黄色い光に目を細める。床に転がっているダウンジャケットをハンガーにかけている秦野の背中が、視界の端にあった。
「体調どう?」
「あ、うん。おかげさまで」続けて礼を言おうとしたのに、喉の奥がぐっと詰まる。「えと……」
なんだか唇が痒くなってきて、もごもご動かすことしかできない。
秦野はそんな俺の様子に気づくことはなく、ジャケットをクローゼットにしまい終えると、そのまま廊下にある冷蔵庫を開けた。
「何か食べる? っても僕、料理ができないから、コンビニのおにぎりしかないけど」
「それなら」
ベッドから足を下ろし秦野の元へ向かう。かがむようにして、秦野の肩越しに冷蔵庫を覗いた。なかには、秦野が言っていたおにぎり、それから卵とウインナーがあった。
「俺が作ろっか?」
「え?」
秦野が髪を揺らし、黒い目をさらに大きくして、俺の顔を見た。
「色々世話になったし、お礼させてよ」
「でも、体調」
「もう大丈夫だから」
ね、お礼させて、ともう一度言うと、秦野はなにか言おうとして小さく開いた口をぎゅっと閉じた。
「ご飯はある?」
「パックライスならここに」と言いながら、秦野はキッチン上の棚に手を伸ばす。
「おけおけ」
「なに作るの?」
卵のパックとウインナーの袋を取り出してキッチンへ置く俺に、パックライスを手に持ったままの秦野が訊ねる。
「オムライスにしようかと思ったんだけど、食える?」
ケチャップはあるし、簡単な味付けなら出来そうだ。
「食べれる。むしろ好き」
「そう? じゃあ秦野は向こうで待ってて」
秦野からパックライスを受け取ると、軽く背中を押して部屋のほうへ追いやった。
「え、手伝うよ?」
秦野は首を倒して俺を見る。
「いい、いい。これはお礼だって言ってるだろ? テレビでも見て待ってて。すぐ出来るから」
秦野をすとん、とテーブルの前へ座らせて、俺は腕をまくった。
誰かに食べて欲しい、と思って作るのはいつぶりだろう。うっすらと思い出す仄暗い記憶に気づかないふりをして、二つ並んだパックライスを見つめた。
ベンチから身を起こすと、体の奥に重だるい熱がくすぶっている感じがあった。喉の奥でもわんもわんと響く心音を、気のせいだと言い聞かせて、公園の水道で歯を磨き、顔を洗った。冷たい水が脳を叩き起こして、補導されずに夜を明かせたことを改めて実感し、少しほっとする。
きんとした空気のなかでは、遠くの音すらクリアに聞こえてくる。建物に反響する車のエンジン音に、こころなしか爽快さを感じた。俺にだけそう聞こえたのかもしれないけれど。
街がまだ微睡んでいる早朝は好きだ。犬を連れた老人が、園路をゆっくり歩いていく。俺の姿は、老人の目にも入っているのかもしれない。けれど、たぶんそれだけ。公園のベンチに人がいる、それ以上の意味を持たない。
誰にも見咎められず、誰とも比べられず、ただここにいられる。早朝には、そういう温かい孤独があった。
使い捨ての歯ブラシをゴミ箱へ捨て、公園を後にした。スマホで時間を確認する。五時三八分。母親はまだ起きていないだろう。財布を回収して誰もいないポポールへ向かう流れを頭に思い浮かべながら、朝の街を急いだ。
「げ」
店に着いてからが問題だった。
鍵を持っていない俺は、ドアを開けられなかった。
うちの店に鍵は二本ある(店長のマスターキーを入れれば三本)。オープン担当と、クローズ担当がそれぞれ持っている。俺が鍵を持つのは、店長が休みの水曜日のみ。金曜日の出勤時、店に返却する。昨日持っていた鍵は、いまバックルームの金庫のなかだ。
ガラス張りの自動ドアの前に立ち尽くす情けない姿が、暗い店内に、幽霊みたいに浮かび上がっていた。
少し考えれば分かったことなのに。朝イチで手紙を回収する、そればかりに気を取られていたせいか。それとも、さっきよりも重だるい頭では、そこまで考えが回らなかったか。どちらにせよ、すっぽり抜け落ちていた。
俺がここにいる理由を、今日の早番になんて説明しよう。言い訳を探しながら、天を仰いだそのとき、
「黒川?」
と、背中に聞き慣れた声が飛んできた。
「は、秦野? どうしてここに?」
「それ、こっちのセリフなんだけど」
デニムジャケットを羽織った秦野が、俺を上目で睨んできた。その姿に、ふっと違和感が走る。ベージュのパンツに、トップスのインナーは白いTシャツ。シンプルで整っている姿は、秦野のようでいて、俺の知っている秦野じゃないのは。
「ああ〜、私服だからだ!」
指をさして言った。納得して頷く俺に、秦野の目は更に細くなる。
「なんなの? 会話になってないし」
「あ、いや、ごめん。私服の秦野を初めて見たなって思って」
秦野は呆れるように首を傾げ、俺の隣にしゃがみこんだ。黒い髪にデニムの淡い青がよく映えている。
「今日は僕が早番」
「え?」
「早番の井口さんも工藤さんも休みだから」
秦野はそう言いながら鍵を回した。ガチャンと気持ちの良い音が朝の空気を割った。
「で、黒川はなんでいるの? しかも制服で」
秦野は電源が落ちた自動ドアを、人ひとりが通れる分だけこじ開けて店内に入った。俺も続いて入り、ドアを押し戻す。俺らが入ったことで、防犯システムの警報音がけたたましく鳴り響いた。
「着替えるタイミングがなくてさぁ!」
警報音に負けないように声を張って言うと、槍で刺されたような強い痛みが頭のなかに走った。
秦野がシステムを解除した。ぱったりと音が消え、いきなり戻ってきた静けさに耳の奥はなかなか慣れない。ほわんほわんと残る残響に、耳のそばを走る血管が脈を打つ。
「着替えるタイミングって……家に帰ってないの?」
「いや帰った! 帰ったんだけど、着替えるタイミングなくて……。あと、お前の想像してるのとは多分違うぞ?」
「女の子」
「だから違うって」
「まあいいけど」秦野は指に引っ掛けた鍵を弄ぶ。「ところで、なんで休みなのに店に来たの? しかもこんな朝っぱらに」
「それは……」
お前の手紙を捨ててしまったから、と正直に言っていいのか考えながら、秦野の肩越しにバックルームのドアを見据えた。
その瞬間。
ぐわんと視界が大きく波を打ち、今度は脳が絞られるような痛みが走った。反射的に右手で額を抑える。目の奥の血管がどくどく波を打って熱い。
「え、黒川? ちょ、ちょっと大丈夫?」
駆け寄ってくる秦野の足音すら、頭のなかにつんざくように響く。
「あたまが……」
視界が滲んでいく。心臓が胸を強く叩いている。拍動に合わせて体の奥底から寒気が立ち上がる。
ぞくぞくする感触を、呼吸に集中することでやりすごす。血の気が引いたように指先だけがきんと冷たい。
「黒川っ! 熱あるよ?」
「……ああ、熱」
冷たい手が俺の額を覆った。その冷たさは、熱を吸い取ってくれるみたいで気持ちが良かった。
かろうじて動く思考回路が、答え合わせをする。四月の夜空の下で風邪を引いたと認めてしまえば、転がり落ちるように体がガチガチと悲鳴を上げた。
「スマホ貸して? 親御さんに連絡する。迎えに来てもらおう」
秦野が引いてくれた椅子に俺は腰を下ろした。
「いや、いい!」ありったけの力で、かぶりを振った。「連絡しても、迎えになんて来ないから。……むしろ連絡したくない」
なんだか余計なことまで言ってしまった気もする。脳が溶けたように、思考回路はだんだん鈍くなる。
「じゃあ、いったん僕の家に行こ?」
僕の、家?
「いや。このまま一人で帰る」
親の顔が浮かんだせいか、頭の痛みは少し引いた。椅子からずるりと立ち上がる。
「僕の家、すぐそこだから」
「それは前も聞いた」
「だから僕の家で休みなよ」
そこで初めて秦野と目があった。眉を大きくハの字に曲げたその顔からは、いつもの淡々とした様子が消えていた。気圧されそうになるのを、残りわずかな力を腹に込めて、ぐっと堪えた。
「でも、お前の家だって家族いるだろ? それに、お前に風邪が移るかも」
「僕はひとり暮らしだからその心配はいらない。あと風邪もひかないから大丈夫」
さあ帰ろう、と秦野は俺の腕を掴んだ。
ひとりで暮らしているのか?
風邪をひかないって、どこから来るんだよその自信は。熱でぼんやりする頭に、秦野の言葉がひとつずつ引っかかる。けれど、口をついたのは、目下のことだった。
「お前これから仕事だろ? だって時間……」
「いまから黒川を家に連れてったとしても、出勤時間には間に合うから大丈夫」
「大丈夫と言われても……」
「うだうだ言ってないで早く行くよ」
秦野が俺の腕をくいくいと引っ張る。
耳心地の良いその言葉に寄りかかりたくなる衝動が、悪寒となって頭をもたげる。それ以上抵抗する力はすでになかった。
「一四時半までには帰ってこれると思う。ゆっくり寝てて」と言い残して秦野は出ていった。
ベッドに寝かされたころには、抵抗する気力も残っていなかった。
風呂に入っていない、と言った記憶はある。
けれど秦野は聞かなかった。冷却ジェルと未使用のスウェットを渡され、「さっさと着替えて、早く寝て」と短く言われた。反論するより先に、シートの冷たさが火照った体に染みていった。
テーブルの上の水とコップを最後に、視界が暗転した。閉じた瞼も、全身も、ドッドッという拍動にあわせて小さく揺れている。目の上にある神経が、大きな円を描いている。
寝返りをうつと、埃とともに秦野の匂いがほんのりと舞った。不思議と嫌な気はしなく、大きく息を吸う。香りとともに眠気が襲ってきた。
どれくらい眠ったのだろう。
意識が、暗闇から浮かび上がる。吸う息がカサカサの喉を通り、吐く息はべたつく口の中でもたついた。それでも体は少し軽くなっているような気がした。
瞼を閉じたまま両腕を頭の上へ伸ばし、肺の奥から息を吐きだした。ふっ、と息が切れると、憑き物が取れたみたいにすっきりした。
瞼を開くと、部屋は暗かった。
枕元に置いたはずのスマホを手で探り見つけ、液晶の眩しさに目を細めて時間を確認した。午後十一時。半日以上、眠っていた。
秦野はどこにいる?
ぼうっとする頭をもたげて、あたりを見回す。テーブルを挟んだ向こうに、横たわる人影が見えた。片足を下ろし、覗き込む。カーテンの隙間から差し込む街灯の細くて青白い光に照らされ、ダウンジャケットを布団がわりに被った秦野が身を丸めて寝ていた。無事帰ってきていることを確認し、ベッドに体重をあずける。
だが、ラグの上とはいえ、ほぼ床みたいな硬いところで寝かせるのは気が引ける。秦野を起こして、ベッドに寝かせようか。いやでも、俺が使ったあとの場所になんて寝たくないよな……。すうすうと寝息を立てる秦野の横顔を見つめながら、あれこれ考えを巡らせる。
結局しっくりくる案が見つからず、トイレに行こうとしたとき、テーブルの上が寝る前と違うことに気づいた。
さっきはペットボトルの水とコップしか置いてなかったのに、ゼリー、スポーツドリンク、歯ブラシまである。その横には、破ったノートの切れ端みたいなものがあった。スマホをライトがわりにして、その紙を照らす。
ゼリーと、スポーツドリンクはテーブルにおいてます。
歯ブラシと下着を買ったので、よかったら使って
冷蔵庫におにぎりと、冷凍庫にはアイスがあるから、食べれそうなら食べて。
シャワーは自由に使っていいよ。タオルはどれ使ってもかまわないから
テーブルの下でビニールに触れた。音を立てないようにゆっくり開けると、なかにはコンビニで売っているような下着が入っていた。
ひとつずつ状況が理解できて、はじめて自分の体に不快感を覚えた。金曜日から洗っていない髪の毛は、頭皮がべたついている。
秦野が起きないようにそっとリビングのドアを開けると、キッチンと脱衣所が兼用の廊下に出る。浴室と書かれたスイッチを押すと、オレンジ色の光が目の奥まで刺さった。
服を脱ぐ。昨晩から続く緊張が服とともにはらりと床に落ちて、身体が軽くなった。頭からシャワーを浴びると、毛穴から疲労が溶け出し、そのまま排水口へ流れていった。
浴室から出て新しい下着に体を通す。キッチンで歯を磨き、ペットボトルの水を飲む。からからの喉は無限に水分を欲するようで、ペットボトルはすぐ空になった。口許の水分を手の甲でぬぐいながら、秦野の寝顔をそっと覗く。さっきと同じように、寝息を立てていた。
もう一度ベッドへ戻り、布団を頭までかぶる。やっぱり秦野の匂いは嫌にならないな、と思った。そのまま、眠りに落ちる瞬間の、意識を失う心地よさに飛び込んだ。
ゆっくり瞼を開けると、覗き込む秦野とばっちり目があった。
「は、たの……ッ?」
「あ、起きた」
秦野はそう言うと視界からぱっと消えた。俺は肘をついてゆっくり体を起こす。カーテンは開いていて、黄色い光に目を細める。床に転がっているダウンジャケットをハンガーにかけている秦野の背中が、視界の端にあった。
「体調どう?」
「あ、うん。おかげさまで」続けて礼を言おうとしたのに、喉の奥がぐっと詰まる。「えと……」
なんだか唇が痒くなってきて、もごもご動かすことしかできない。
秦野はそんな俺の様子に気づくことはなく、ジャケットをクローゼットにしまい終えると、そのまま廊下にある冷蔵庫を開けた。
「何か食べる? っても僕、料理ができないから、コンビニのおにぎりしかないけど」
「それなら」
ベッドから足を下ろし秦野の元へ向かう。かがむようにして、秦野の肩越しに冷蔵庫を覗いた。なかには、秦野が言っていたおにぎり、それから卵とウインナーがあった。
「俺が作ろっか?」
「え?」
秦野が髪を揺らし、黒い目をさらに大きくして、俺の顔を見た。
「色々世話になったし、お礼させてよ」
「でも、体調」
「もう大丈夫だから」
ね、お礼させて、ともう一度言うと、秦野はなにか言おうとして小さく開いた口をぎゅっと閉じた。
「ご飯はある?」
「パックライスならここに」と言いながら、秦野はキッチン上の棚に手を伸ばす。
「おけおけ」
「なに作るの?」
卵のパックとウインナーの袋を取り出してキッチンへ置く俺に、パックライスを手に持ったままの秦野が訊ねる。
「オムライスにしようかと思ったんだけど、食える?」
ケチャップはあるし、簡単な味付けなら出来そうだ。
「食べれる。むしろ好き」
「そう? じゃあ秦野は向こうで待ってて」
秦野からパックライスを受け取ると、軽く背中を押して部屋のほうへ追いやった。
「え、手伝うよ?」
秦野は首を倒して俺を見る。
「いい、いい。これはお礼だって言ってるだろ? テレビでも見て待ってて。すぐ出来るから」
秦野をすとん、とテーブルの前へ座らせて、俺は腕をまくった。
誰かに食べて欲しい、と思って作るのはいつぶりだろう。うっすらと思い出す仄暗い記憶に気づかないふりをして、二つ並んだパックライスを見つめた。
