◇
秦野と手紙のやり取りを始めて二週間が経った。昼休みは秦野と屋上で過ごすようになっていた。かなからのメッセージに、返信しない日も増えた。
放課後、「なんで最近会ってくれないの」とふくれっ面のかなに見つかり、そのままバイトまでの時間を彼女と潰した。離れたくないだの、お昼一緒に食べてくれないだのと言って、なかなか俺を解放してくれない彼女を、なんとか振り切ってポポールについたのは出勤三分前だった。
「彼女と遊んでいたのか〜い」
「彼女はいないです」
「またまたぁ」
日中の売上をパソコンへ入力している白鳥さんは「旭くんの顔に女の子は黙っちゃいないよ」と、からかってくる。でも、白鳥さんにそう言われても、不思議と嫌じゃなかった。
かなは彼女ではない。
この関係を説明したところで、おそらく納得してもらえないだろう。頭に浮かんだかなの姿を振り払うように、急いで着替えた。
「あれぇ、なにこれ?」
着替えを終えて勢いよくカーテンを開けた瞬間、ウォールポケットの下にかがみ込む白鳥さんが目に入った。手には、切れ端のような紙がある。
「『黒川へ?』 あれ、これって紬生くんの字じゃあ」
「ワーーーッ!」
とっさに声を上げた。白鳥さんがびくりと肩を揺らす。
「ど、どうしたの?」
見覚えのある生成り色のメモ用紙と、白鳥さんが口にした俺と秦野の名前。だってそれは。
「そ、それゴミなんで! 捨てます、捨てます!」
白鳥さんの手から紙を奪い取り、片手で小さく握り潰す。そのままバックルームの隅に置いてある小さなゴミ箱へ押し込んだ。
「あ、ありがとう?」
白鳥さんは眉をひそめたまま、曖昧に返事をした。彼女の訝しげな視線が、俺の横を抜けてゴミ箱へ向かう。
「秦野からの伝言っつうか……。でも、もう解決したんで!」
自分でもよくわからない嘘が口から出た。
鼓動が耳の奥で鳴って、胸の内側を強く叩く。激しく暴れ、飛び出しそうな心臓を、唾と一緒に無理やり呑み込む。
白鳥さんは納得してくれたのか、「そっか」とだけ言って、またパソコンの前に腰を下ろした。
椅子の背にぶつからないよう、白鳥さんの後ろを抜ける。軽く会釈をして、バックルームを出た。サロンを片手にパントリーへ向かう。けれど、手のひらには、さっきゴミ箱に押し込んだ感触がまだ残っていた。あれはきっと、秦野が俺に宛てた手紙だ。あんなもの白鳥さんに見られたら、喜んじゃって、しばらくネタにされる。
退勤時にゴミ箱から取り出すしかない。そう言い聞かせて、腰紐を結んだ。
だが、思い通りにはいかなかった。
閉店後の男しかいないバックルームでは、カーテンを閉めるなんてことはせず、プライバシーなどおかまいなく皆で着替える。それはまあいい。問題はここからで、店長と内田くんが一緒に駅まで行こうなんて言うから、ゴミ箱に手を突っ込むことが出来なかった。
「忘れ物をした」とか、適当な嘘をついて踵を返そうとしたとき、母親から着信があった。
通話口から母親の金切り声が洩れていたのか、俺の「急いで帰るよ」という言葉を聞いたからか、店長が「早く帰ってあげたほうがいいね」なんて言うものだから、ポポールへ戻れるわけがなかった。手紙はもう、明日のオープン前に回収するしかない。
南文京駅のホームで店長と別れ、新宿駅で内田くんと別れた。多摩川を越える下りの私鉄快速は、日付が変わる時間でも席は埋まっていて、俺はドアの横を自分の陣地とした。
疲労がどこかしこに漂っている車内は、心なしか酸素が薄い。窓の外を見ると、景色は少しずつ灯りを失い、薄暗い地元へと近づいた。仕切り版に体重を預け、そっと目を閉じた。
母親から電話が来るときは、たいていろくなことがない。男の話か、金が絡む頼みごとか。どちらにせよ、俺にとって都合のいい用件ではないことだけは確かだ。
見慣れた景色がいまは恨めしい。胸苦しさが、泥のように広がっていく。この電車、このままあの世にでも行ってくれないだろうか。地獄でいいから。幽霊族の少年が主役のアニメに出てくる、幽霊列車みたいに。
そんな子どもじみたことを考えていたら、あっというまに電車は地元の駅に到着してしまった。
そういえば、手紙にはなにが書いてあったのだろう。秦野からの言葉がここにあれば、これから始まる憂鬱な時間にも、少しは耐えられる気がしたのに。
靴を二足並べることすら窮屈な三和土には、見知らぬ靴があった。履き潰した黒のスニーカー。元は白だったとうっすら主張の残る、よれよれの黄ばんだ紐を視線でなぞる。男性用、か。それを踏まないように気をつけながら靴を脱いだところで、居間に繋がるドアの向こうから笑い声が聞こえてきた。続けて、椅子を引く耳触りの悪い音がする。木造アパート
六畳二間の二DKは、どんな音でも筒抜けだ。
「あさひぃ〜。おかえり〜」
ギイ、と建付けの悪さを感じさせる音と共にドアが開いた。
「……ただいま」
「ねえ、紹介したい人がいるの」
バニラの匂いに、鼻腔の奥がぐっと詰まる。
今日は、香水がやけに濃い。
「……それだけ?」
「それだけって、なによ。大事な話じゃない」
母親は不満そうに唇を尖らせるも、すぐに表情を明るくしてリビングへ戻っていった。
金の話では、なさそうだった。だからといって、ちっとも胸は軽くなるわけでもなかった。
紹介したい人。また、変わったのか。
いままで何人、何十人と紹介されただろう。物心ついたころから、俺には母親しかいなかった。いや正確には、母親の隣には、入れ替わり立ち替わり男がいた。そのどれもが本当の父親ではなく、名前や顔を覚えるまえに、そいつらは去っていった。
居間に入ると、空気が白く濁っていた。煙草の煙で目が沁みる。
台所の前にある二人掛けのダイニングテーブルに、どかりと腰を下ろした男の胴体が見えた。
「これ私の息子。旭っつうの」
甘ったるい声で紹介され、初めて男の顔を見た。マンバンヘアーに無精髭。くっきりした二重が印象的だった。清潔感よりも、だらしなさのほうが先に目につく。それでも、その目元にだけは妙な色気が残っていた。昔はそれなりに見栄えしたのかもしれない。母親の好きそうな顔だった。
絡みつくように香るエスニックな匂いは、この男がつけている香水か。そこに母親の甘い香水と、銘柄の違う煙草の匂いが折り重なり、鼻の奥がぎゅっと縮む。俺は酸素だけを掬い取るつもりで、小さく息を吸った。
「綺麗な顔してんじゃん」
「でしょ! 私に似たの」
母親は笑って、俺の肩に手を置く。
「顔だけはいいのよ、この子」
「へぇ、モテそうじゃん」
「実際モテるんだから。ねえ、旭」
母親の言葉に俺はなにも返さなかった。そんな俺を、男は一瞥する。ただ、それ以上俺に興味を示すことはなく、灰皿に煙草を押しつけ、火を消した。くゆる煙に、昔の記憶が重なる。
母親の彼氏が家に来ると、当時小学生だった俺は押入れに隠れた。正確に言うと、押し込まれて、そこに閉じ込められた。引き戸一枚を隔てた向こう側で何が行われているか、最初は分からなかった。塞いだ耳に届く、聞いたことのない母親の声。俺に向けられたことのない、甘くて、媚びるような声だった。
母親が、母親ではないものに変わっていくみたいで怖かった。聞いてはいけないと思うのに、逃げ場のない押入れの中で、その声は皮膚にべったりと張り付いた。
高学年になると、その意味がぼんやりと分かるようになった。クラスでは、誰が好きだの、誰と付き合っただのという話で盛り上がるようになった。そこに、ときどき下品な冗談が混じる。女子の名前が出るたびに、彼らは声を潜めたり、意味ありげに笑ったりした。
俺はその輪に入らなかった。好きだとか、付き合うとか。そういう言葉は、どうしても後ろ暗く、どこか卑しいもののように思えていたから。
目の前の男が缶ビールを傾け、喉を鳴らしてあおる。酒が絡む記憶に、ろくなものはひとつもなかった。
中学生になり、俺の身長は母親を抜かした。言い返しても、腕を掴まれても、もう押し負けることはなかった。すると母親は、連れてきた男に俺を殴らせるようになった。なかには憂さ晴らしだ、と吐き捨てた男もいた。
中学の先輩に声をかけられ、はじめて女の子と寝た。いま思うと、母親を知りたかったのかもしれない。あの行為には、自分の知らない価値があるのだと、どこかで信じたかったのかもしれない。
抱くたびに好きと言われた。けれどその瞳は、俺を見ているようで、俺を見てはいなかった。彼女らが見ていたのは、俺ではなく、肩書きだった。付き合っていると言えば、誰かに羨ましがられる。その程度の価値を、俺に見ていたのだと思う。
意味などない刹那の行為だ、そう認めてしまえば、転がるように落ちていった。
好きだとか、特別だとか、そんなものは信じない。ただその場で求められて、応えればいい。意味なんてない。いまが埋まるなら、それで十分だった。
そうやって戻れないところまで来て、ようやく気づいた。母親に似たこの顔で、母親と同じようなことをしている自分が、うっすら嫌いになっていることに。
「高校に行くなら地元にして」と言われた。でも俺は従わなかった。ブンナンに強い希望があったわけじゃない。地元から離れれば、なにかが変わる気がしていた。実際、環境はがらっと変わった。教室の空気も、廊下を行き交う声も、なにもかもが地元とは違っていた。そのなかにいると、自分の人生もまだ捨てたもんじゃない気がした。スカラシップ制度があるのを知ったのも、このときだ。
けれど、いまはこのザマだ。
息を吸うのを忘れていたのか、肺がぐっと縮こまっていた。はっと吸い込むと、鼻腔いっぱいに厭な匂いがひろがった。
「じゃ、俺は失礼します。ごゆっくり」
もわんと煙る視界の奥で、酒を呑み語らう二人を一瞥して部屋を出た。
「まじ……? うん、わかった。また今度ね」
連絡先を眺めながら、泊めてくれそうな相手に片っ端から電話をかけた。だが、返ってきたのは、どれも似たような断り文句だった。
かなには声をかけなかった。そもそも、今晩から週末にかけて、家族と旅行に行くとか言っていた。
夜空に向かってため息を吐いた。白い息の向こうに星が見える。小さな光を、ひとつひとつ目で追ってみる。星座なんてほとんど知らないけれど、北斗七星だけはすぐにわかった。空を見上げて星を探すなんて、小学生以来かもしれない。母親の彼氏が来る前に、一度だけ家を抜け出したことがあった。そのときの空にも、北斗七星があった。
見上げているうち、藍色の深みに意識ごと吸い込まれそうになった。だが、首の後ろがすぐに重だるくなって、流れるように視線を落とす。すると今度は公園のベンチの冷たさが、スラックスの布越しに伝わってきた。昼間に溜め込んだ春の熱なんて、とっくに抜けていた。
手元にあるのはスマホと通学定期券のみ。財布はスクールバッグごと、家に置いてきてしまった。いま、あの家へ取りに戻るのは……嫌だ。だがスマホにある電子マネーの残高は数百円で、ネカフェにすら泊まれない。
野宿。
その二文字がよぎる。
スマホを光らせ時間を確認すると、まもなく午前一時。日付が変わる前に家を出たのに、気づけば一時間以上経っていた。夜が明けたら、母親が寝ている隙に財布だけ回収して、そのままポポールへ向かえばいい。ならば、もうこのまま、野宿でいいかもしれない。
コンビニで温かい飲み物を買おうとして立ち上がった、その瞬間。地面にぽっかり穴が空いたみたいに、足裏の感触が抜け落ちた。
どこにも頼れない場所に放り出されたみたいで、足指の神経がきゅっと縮こまる。
俺は一人だ。
ずっとそうだった。これからもそうだ。それでいいと決めたはずなのに。
秦野紬生。
あいつが現れた。現れてすぐ俺に「嫌」と言った。初対面のくせに、と思った。腹が立った。けれど時間が経つほど、胸の奥が絞られるように疼いた。それは俺がずっと、自分に向けていた言葉だったから。腹が立つのと同じくらい、安心していた。
それだけじゃない。
「見直したっていうか……思ってたより嫌じゃない、かも」
ぐわんぐわんと波を打つ耳の奥で、その言葉がリフレインする。
褒められることなど、いくらでもあった。だが、秦野のそれには、俺をどうこうしようという気配がまるでなかった。俺に嫌と言ったあいつの言葉だから、信じてしまいそうになる。受け取ってしまいそうになる。その先になにがあるのか、俺は知らない。
これ以上、胸に、秦野の言葉が積もるまえに、離れたほうがいいのかもしれない。
気づけば、足裏の感覚は戻っていた。
秦野とのやり取りは、明日、あの手紙を受け取って最後にする。自分に言い聞かせるように強く頷いてから、コンビニへ向かった。
秦野と手紙のやり取りを始めて二週間が経った。昼休みは秦野と屋上で過ごすようになっていた。かなからのメッセージに、返信しない日も増えた。
放課後、「なんで最近会ってくれないの」とふくれっ面のかなに見つかり、そのままバイトまでの時間を彼女と潰した。離れたくないだの、お昼一緒に食べてくれないだのと言って、なかなか俺を解放してくれない彼女を、なんとか振り切ってポポールについたのは出勤三分前だった。
「彼女と遊んでいたのか〜い」
「彼女はいないです」
「またまたぁ」
日中の売上をパソコンへ入力している白鳥さんは「旭くんの顔に女の子は黙っちゃいないよ」と、からかってくる。でも、白鳥さんにそう言われても、不思議と嫌じゃなかった。
かなは彼女ではない。
この関係を説明したところで、おそらく納得してもらえないだろう。頭に浮かんだかなの姿を振り払うように、急いで着替えた。
「あれぇ、なにこれ?」
着替えを終えて勢いよくカーテンを開けた瞬間、ウォールポケットの下にかがみ込む白鳥さんが目に入った。手には、切れ端のような紙がある。
「『黒川へ?』 あれ、これって紬生くんの字じゃあ」
「ワーーーッ!」
とっさに声を上げた。白鳥さんがびくりと肩を揺らす。
「ど、どうしたの?」
見覚えのある生成り色のメモ用紙と、白鳥さんが口にした俺と秦野の名前。だってそれは。
「そ、それゴミなんで! 捨てます、捨てます!」
白鳥さんの手から紙を奪い取り、片手で小さく握り潰す。そのままバックルームの隅に置いてある小さなゴミ箱へ押し込んだ。
「あ、ありがとう?」
白鳥さんは眉をひそめたまま、曖昧に返事をした。彼女の訝しげな視線が、俺の横を抜けてゴミ箱へ向かう。
「秦野からの伝言っつうか……。でも、もう解決したんで!」
自分でもよくわからない嘘が口から出た。
鼓動が耳の奥で鳴って、胸の内側を強く叩く。激しく暴れ、飛び出しそうな心臓を、唾と一緒に無理やり呑み込む。
白鳥さんは納得してくれたのか、「そっか」とだけ言って、またパソコンの前に腰を下ろした。
椅子の背にぶつからないよう、白鳥さんの後ろを抜ける。軽く会釈をして、バックルームを出た。サロンを片手にパントリーへ向かう。けれど、手のひらには、さっきゴミ箱に押し込んだ感触がまだ残っていた。あれはきっと、秦野が俺に宛てた手紙だ。あんなもの白鳥さんに見られたら、喜んじゃって、しばらくネタにされる。
退勤時にゴミ箱から取り出すしかない。そう言い聞かせて、腰紐を結んだ。
だが、思い通りにはいかなかった。
閉店後の男しかいないバックルームでは、カーテンを閉めるなんてことはせず、プライバシーなどおかまいなく皆で着替える。それはまあいい。問題はここからで、店長と内田くんが一緒に駅まで行こうなんて言うから、ゴミ箱に手を突っ込むことが出来なかった。
「忘れ物をした」とか、適当な嘘をついて踵を返そうとしたとき、母親から着信があった。
通話口から母親の金切り声が洩れていたのか、俺の「急いで帰るよ」という言葉を聞いたからか、店長が「早く帰ってあげたほうがいいね」なんて言うものだから、ポポールへ戻れるわけがなかった。手紙はもう、明日のオープン前に回収するしかない。
南文京駅のホームで店長と別れ、新宿駅で内田くんと別れた。多摩川を越える下りの私鉄快速は、日付が変わる時間でも席は埋まっていて、俺はドアの横を自分の陣地とした。
疲労がどこかしこに漂っている車内は、心なしか酸素が薄い。窓の外を見ると、景色は少しずつ灯りを失い、薄暗い地元へと近づいた。仕切り版に体重を預け、そっと目を閉じた。
母親から電話が来るときは、たいていろくなことがない。男の話か、金が絡む頼みごとか。どちらにせよ、俺にとって都合のいい用件ではないことだけは確かだ。
見慣れた景色がいまは恨めしい。胸苦しさが、泥のように広がっていく。この電車、このままあの世にでも行ってくれないだろうか。地獄でいいから。幽霊族の少年が主役のアニメに出てくる、幽霊列車みたいに。
そんな子どもじみたことを考えていたら、あっというまに電車は地元の駅に到着してしまった。
そういえば、手紙にはなにが書いてあったのだろう。秦野からの言葉がここにあれば、これから始まる憂鬱な時間にも、少しは耐えられる気がしたのに。
靴を二足並べることすら窮屈な三和土には、見知らぬ靴があった。履き潰した黒のスニーカー。元は白だったとうっすら主張の残る、よれよれの黄ばんだ紐を視線でなぞる。男性用、か。それを踏まないように気をつけながら靴を脱いだところで、居間に繋がるドアの向こうから笑い声が聞こえてきた。続けて、椅子を引く耳触りの悪い音がする。木造アパート
六畳二間の二DKは、どんな音でも筒抜けだ。
「あさひぃ〜。おかえり〜」
ギイ、と建付けの悪さを感じさせる音と共にドアが開いた。
「……ただいま」
「ねえ、紹介したい人がいるの」
バニラの匂いに、鼻腔の奥がぐっと詰まる。
今日は、香水がやけに濃い。
「……それだけ?」
「それだけって、なによ。大事な話じゃない」
母親は不満そうに唇を尖らせるも、すぐに表情を明るくしてリビングへ戻っていった。
金の話では、なさそうだった。だからといって、ちっとも胸は軽くなるわけでもなかった。
紹介したい人。また、変わったのか。
いままで何人、何十人と紹介されただろう。物心ついたころから、俺には母親しかいなかった。いや正確には、母親の隣には、入れ替わり立ち替わり男がいた。そのどれもが本当の父親ではなく、名前や顔を覚えるまえに、そいつらは去っていった。
居間に入ると、空気が白く濁っていた。煙草の煙で目が沁みる。
台所の前にある二人掛けのダイニングテーブルに、どかりと腰を下ろした男の胴体が見えた。
「これ私の息子。旭っつうの」
甘ったるい声で紹介され、初めて男の顔を見た。マンバンヘアーに無精髭。くっきりした二重が印象的だった。清潔感よりも、だらしなさのほうが先に目につく。それでも、その目元にだけは妙な色気が残っていた。昔はそれなりに見栄えしたのかもしれない。母親の好きそうな顔だった。
絡みつくように香るエスニックな匂いは、この男がつけている香水か。そこに母親の甘い香水と、銘柄の違う煙草の匂いが折り重なり、鼻の奥がぎゅっと縮む。俺は酸素だけを掬い取るつもりで、小さく息を吸った。
「綺麗な顔してんじゃん」
「でしょ! 私に似たの」
母親は笑って、俺の肩に手を置く。
「顔だけはいいのよ、この子」
「へぇ、モテそうじゃん」
「実際モテるんだから。ねえ、旭」
母親の言葉に俺はなにも返さなかった。そんな俺を、男は一瞥する。ただ、それ以上俺に興味を示すことはなく、灰皿に煙草を押しつけ、火を消した。くゆる煙に、昔の記憶が重なる。
母親の彼氏が家に来ると、当時小学生だった俺は押入れに隠れた。正確に言うと、押し込まれて、そこに閉じ込められた。引き戸一枚を隔てた向こう側で何が行われているか、最初は分からなかった。塞いだ耳に届く、聞いたことのない母親の声。俺に向けられたことのない、甘くて、媚びるような声だった。
母親が、母親ではないものに変わっていくみたいで怖かった。聞いてはいけないと思うのに、逃げ場のない押入れの中で、その声は皮膚にべったりと張り付いた。
高学年になると、その意味がぼんやりと分かるようになった。クラスでは、誰が好きだの、誰と付き合っただのという話で盛り上がるようになった。そこに、ときどき下品な冗談が混じる。女子の名前が出るたびに、彼らは声を潜めたり、意味ありげに笑ったりした。
俺はその輪に入らなかった。好きだとか、付き合うとか。そういう言葉は、どうしても後ろ暗く、どこか卑しいもののように思えていたから。
目の前の男が缶ビールを傾け、喉を鳴らしてあおる。酒が絡む記憶に、ろくなものはひとつもなかった。
中学生になり、俺の身長は母親を抜かした。言い返しても、腕を掴まれても、もう押し負けることはなかった。すると母親は、連れてきた男に俺を殴らせるようになった。なかには憂さ晴らしだ、と吐き捨てた男もいた。
中学の先輩に声をかけられ、はじめて女の子と寝た。いま思うと、母親を知りたかったのかもしれない。あの行為には、自分の知らない価値があるのだと、どこかで信じたかったのかもしれない。
抱くたびに好きと言われた。けれどその瞳は、俺を見ているようで、俺を見てはいなかった。彼女らが見ていたのは、俺ではなく、肩書きだった。付き合っていると言えば、誰かに羨ましがられる。その程度の価値を、俺に見ていたのだと思う。
意味などない刹那の行為だ、そう認めてしまえば、転がるように落ちていった。
好きだとか、特別だとか、そんなものは信じない。ただその場で求められて、応えればいい。意味なんてない。いまが埋まるなら、それで十分だった。
そうやって戻れないところまで来て、ようやく気づいた。母親に似たこの顔で、母親と同じようなことをしている自分が、うっすら嫌いになっていることに。
「高校に行くなら地元にして」と言われた。でも俺は従わなかった。ブンナンに強い希望があったわけじゃない。地元から離れれば、なにかが変わる気がしていた。実際、環境はがらっと変わった。教室の空気も、廊下を行き交う声も、なにもかもが地元とは違っていた。そのなかにいると、自分の人生もまだ捨てたもんじゃない気がした。スカラシップ制度があるのを知ったのも、このときだ。
けれど、いまはこのザマだ。
息を吸うのを忘れていたのか、肺がぐっと縮こまっていた。はっと吸い込むと、鼻腔いっぱいに厭な匂いがひろがった。
「じゃ、俺は失礼します。ごゆっくり」
もわんと煙る視界の奥で、酒を呑み語らう二人を一瞥して部屋を出た。
「まじ……? うん、わかった。また今度ね」
連絡先を眺めながら、泊めてくれそうな相手に片っ端から電話をかけた。だが、返ってきたのは、どれも似たような断り文句だった。
かなには声をかけなかった。そもそも、今晩から週末にかけて、家族と旅行に行くとか言っていた。
夜空に向かってため息を吐いた。白い息の向こうに星が見える。小さな光を、ひとつひとつ目で追ってみる。星座なんてほとんど知らないけれど、北斗七星だけはすぐにわかった。空を見上げて星を探すなんて、小学生以来かもしれない。母親の彼氏が来る前に、一度だけ家を抜け出したことがあった。そのときの空にも、北斗七星があった。
見上げているうち、藍色の深みに意識ごと吸い込まれそうになった。だが、首の後ろがすぐに重だるくなって、流れるように視線を落とす。すると今度は公園のベンチの冷たさが、スラックスの布越しに伝わってきた。昼間に溜め込んだ春の熱なんて、とっくに抜けていた。
手元にあるのはスマホと通学定期券のみ。財布はスクールバッグごと、家に置いてきてしまった。いま、あの家へ取りに戻るのは……嫌だ。だがスマホにある電子マネーの残高は数百円で、ネカフェにすら泊まれない。
野宿。
その二文字がよぎる。
スマホを光らせ時間を確認すると、まもなく午前一時。日付が変わる前に家を出たのに、気づけば一時間以上経っていた。夜が明けたら、母親が寝ている隙に財布だけ回収して、そのままポポールへ向かえばいい。ならば、もうこのまま、野宿でいいかもしれない。
コンビニで温かい飲み物を買おうとして立ち上がった、その瞬間。地面にぽっかり穴が空いたみたいに、足裏の感触が抜け落ちた。
どこにも頼れない場所に放り出されたみたいで、足指の神経がきゅっと縮こまる。
俺は一人だ。
ずっとそうだった。これからもそうだ。それでいいと決めたはずなのに。
秦野紬生。
あいつが現れた。現れてすぐ俺に「嫌」と言った。初対面のくせに、と思った。腹が立った。けれど時間が経つほど、胸の奥が絞られるように疼いた。それは俺がずっと、自分に向けていた言葉だったから。腹が立つのと同じくらい、安心していた。
それだけじゃない。
「見直したっていうか……思ってたより嫌じゃない、かも」
ぐわんぐわんと波を打つ耳の奥で、その言葉がリフレインする。
褒められることなど、いくらでもあった。だが、秦野のそれには、俺をどうこうしようという気配がまるでなかった。俺に嫌と言ったあいつの言葉だから、信じてしまいそうになる。受け取ってしまいそうになる。その先になにがあるのか、俺は知らない。
これ以上、胸に、秦野の言葉が積もるまえに、離れたほうがいいのかもしれない。
気づけば、足裏の感覚は戻っていた。
秦野とのやり取りは、明日、あの手紙を受け取って最後にする。自分に言い聞かせるように強く頷いてから、コンビニへ向かった。
