一七時から来る予定だったヘルプが風邪を引いてしまったらしい。そういえば、土曜日は秦野も出勤だったはず。
それなら、一緒に働けるってことか!
終話したスマホを持ったまま飛び上がるように体を起こすと、煎餅みたいな硬い布団の下で床がギシギシと鳴った。
「朝っぱらからなにぃ〜? うるさいんだけどぉ……」
襖の向こうで、耳にまとわりつくような甘ったるい声がした。
「ああ、ごめん」
襖の向こうでは、まだ、ぶつぶつとなにか言っていたが、聞こえないように頭まですっぽりと布団を被った。すると、しだいに二度目の眠気が遠くからやってくる。一五時ごろにアラームをセットしないと、と思いながら、意識は布団に吸い込まれていった。
次に目を覚ますと、スマホの時計は一六時を示していた。襖の向こうには、もう人の気配はなかった。つんとくる煙草の匂いだけが、襖一枚隔てたこちらの部屋にまで残っている。
この匂いは苦手だ。スウェットの袖で口許を覆い、キッチンの奥にある洗面所へ向かった。
家から店までは一時間近くかかる。急いで支度を済ませると、家を飛び出し、そのまま最寄り駅まで駆けた。
到着するなり着替えを済ませ、ネイビーのサロンを引っかけて店頭に出た。
「おはようございます」と、つぶやくように挨拶をしながら、パントリーとフロアをつなぐ細いドアを押し開ける。バックルームの鍵をオーダープリンターの横へ置いた、その瞬間。ドリンクカウンターのほうから声をかけられた。
「休みなのにごめんね!」
ドリンクカウンターにいた店長が、俺のほうへ駆け寄ってくる。
「暇だったので全然」
「そう? 本当にありがとう。……あっでも今日は土曜日だから、秦野くんがいるんだけど」
店長はレジに立つ秦野をちらりと見る。ポポールのカウンター内は、裏のパントリーからドリンク、レジへと横一列で、ざっと一五メートルほど伸びている。俺も店長の肩越しに、レジにいる秦野の姿を捉えた。
「大丈夫そう?」
「秦野がどうかしました?」
「あれ? 秦野くんが前に」店長は顎に手を当てながら考え込んでいる。「――ああいや。君たちが大丈夫ならいいんだ」
「どうしたんですか?」
勝手にひとりで納得した店長の顔を覗き込もうとしたら、
「いらっしゃいませー」
という声が、レジから聞こえてきた。はっとして、俺と店長はそろって自動ドアを見る。仕事帰りのような男女二人組が入ってきて、カウンターの奥にあるメニューボードを見上げていた。
「じゃあ黒川君はドリンクカウンターをお願い。僕はこっちで明日の仕込みをするから」
行って行ってと、店長が俺の背中を押す。店長の言葉に釈然としないまま、ドリンクカウンターへ向かった。レジで注文をしている客二人に向かって「いらっしゃいませ」と声をかけ、ドリンクカウンター内のポジションを確認した。
店長が使っていた、ピッチャー、ココアパウダー、各種シロップの位置を、俺が使いやすいように並べ替える。
「ツー・ショートアイスラテ、お願いします」
秦野がちらりとこちらを見て、オーダーを通した。
「ツー・ショートアイスラテ、かしこまりました」
復唱しながら、ポルタフィルターをエスプレッソグラインダーにセットして豆を挽く。挽いた粉をタンピングし、エスプレッソマシンにセットした。
細かく挽いた粉の層を、圧のかかった湯が押し通る。エスプレッソが抽出されるまで、およそ二〇から三〇秒。それまでにグラスに氷を入れ、ミルクを注いでおく。ナッツ色のきめ細かなクレマが浮いたエスプレッソを、グラスへ注ぐ。白いミルクに琥珀色が溶けて、やわらかなグラデーションができた。
「お待たせいたしました」
大理石調のカウンターへグラスを置くと、二人から軽くお礼を言われた。
ダスターでコールドテーブルを拭いて、レジを見る。秦野と目が合うなり、じとりとした視線が刺さった。後ろめたいことなんてないはずなのに、責められたような気分が肌にまとわりついた。
「お、おはようございます?」
右手を小さくあげ、小首を傾げてみたら、
「おはうございます」
と、唇をとがらせるようにしながら返された。
「なに? なんか不満?」
「いや」
「ヘルプのヘルプだよ俺。今日入るはずだった人、風邪で休みなんでしょ?」
「そうみたい」
秦野はそう言うと、しゃがんでレジロールのストックに手を伸ばした。
なにを考えているのか、さっぱりわからない。屋上で話したときは笑っていたし、手紙だって続いている。教室で無愛想なのはまだいいとして。ここでも、そっけなくされる理由が俺にはわからなかった。
「……初めて見た。黒川のサロン姿」
レジロールを交換しながら、ぽつりと秦野が言った。
「へ? ああ、一緒に働くの初めてだし」
「うん」
「俺は前に見たけどな、秦野の」
ただ、あらためてよく見ると、秦野は思っていたよりずっと線が細かった。学校の制服では気づかなかったが、骨格はちゃんと男なのに、横から見れば頼りないほど薄い。腰に巻いたネイビーのサロンが、その細さを余計に目立たせる。
「なに?」
声をかけられて、ぼんやりした焦点が秦野の瞳と繋がった。
「あ、いや」視線をフロアへ逃がす。客の頭を撫でるようにざっと見ながら言葉を探した。「そういえば、さっき店長が変なこと言ってたんだけど、秦野なんか知ってる?」
「変、って?」
「秦野がいるけど大丈夫? って言われた」
ペーパーナプキンを補充する秦野の手がぴたりと止まる。
「いや……知らない」
ナプキンをきつく掴んだまま、視線は手元へと落ちていく。
「ふうん?」
俺はコールドテーブルに手をついて身を乗り出し、俯いた秦野の顔を覗き込む。けれど、その動きに気づいた秦野は、ふいと顔を背けた。表情までは見えなかった。
「し、仕事に集中して!」
追い払うように左手を振られ、俺はあおられるまま一歩引いた。
有線から流れる静かなジャズが耳の奥をくすぐる。道路に面した大きなガラス窓の向こうでは、街全体が青みがかった薄闇に包まれていく。店内でも、暖色の照明がじわりと存在感を増し、夜の気配が近づいてきた。
「ごちそうさまでした」
下げ台に届いた声で、はっと我に返る。
「あ、ありがとうございました!」
「ありがとうございました」
俺のあとに秦野も続いた。
すぐに三人組の男性客が入ってきた。賑やかな声に、有線のジャズはたちまちかき消される。
「いらっしゃいませ。店内でお過ごしですか?」
秦野のその一言を皮切りに、土曜夜のピークタイムが始まった。
「ツー・ショートカプチーノ、お願いします」
「ツー・ショートカプチーノ、かしこまりました」
「ショートホットラテ、ショートアイスココア、トールアイスラテ、お願いします」
「かしこまりました〜」
「ホットサンド、あたためお願いします」
「あたため、かしこまりましたァ」
「スリーアイスラテ、お願いします」
「サイズは?」
「あ、えと……ショート。三つとも」
「オッケー」
「お……お願いします」
「ショット追加、ショートアイスラテ、お願いします」
「へいへーい」
「おい黒川!」
「ごめんごめん。はい、かしこまりました!」
「俺、グラス洗浄入るから、しばらくレジとドリンク両方やっといてー」
「うん、わかった」
「並んだら呼んで」
食洗機を回し終え、ドリンクカウンターへ目をやる。秦野はエスプレッソマシンのスチームノズルにミルク用のダスターを当て、短く空吹かしをしていた。オーダー票には「S・ラテ」。ショートサイズのホットラテだ。
一杯分のミルクを注いだステンレスピッチャーに、スチームノズルが差し込まれる。コォー、と蒸気の音が鳴った次の瞬間、チチチ、という小気味いい音が弾ける。ミルクの表面にノズルの先を当て、空気を含ませている音だ。
しばらくして、秦野はノズルをもう少し深く沈めた。今度はミルクの中で渦を作るように、フォームを撹拌していく。右手でピッチャーを包み込むように持ち、そのまま手のひらで温度を測っている。ミルクフォームは、五五度から六〇度くらいがちょうどいい。音と、手のひらに伝わる熱。それだけを頼りに、秦野は淡々とミルクフォームを仕上げていく。
適温になったところでスチームを止め、ピッチャーを外す。ノズルについたミルクをダスターで拭い、もう一度、空吹かし。ピッチャーの底を軽くカウンターに打ちつけ、くるりと回す。そうして大きな泡を潰し、きめの細かいフォームに整えていく。
ここまでの動きに、無駄はひとつもなかった。
左手でエスプレッソショットの入ったマグカップを支え、右手にピッチャーを持つ。俺は息をひそめ、気づかれないよう背後からそっと覗き込んだ。どんなラテアートを描くのだろう。胸の奥が、わずかに浮き立つ。
傾けたマグカップへ、高い位置から細くミルクを落とす。琥珀色のエスプレッソに白が溶け、表面にマーブル模様が広がった。そこで秦野は、すっとピッチャーを近づける。白い丸が、ふわりと浮かぶ。最後に細く線を切るように奥へ流す。
「おお……」と、思わず声が洩れた。
秦野の肩がぴくりと跳ねる。マグカップのなかには、小ぶりのハートの模様ができあがった。
「お待たせいたしました」
ドリンクが出るのを待っていた女性は、スマホから顔を上げてマグカップを手にした。なかを覗き込むとわあっと小さく声をあげ、口許をほころばせたまま客席へ向かっていった。
「なんで見てるの」
「だめ?」
振り返りながら上目を向けた秦野は、わざとらしくため息を吐いた。
「うまいじゃん、ハート描くの」
「ハートなんて誰でも出来るでしょ」
「まぁ確かに」
ハートはラテアートの基本だ。そうだけど。せっかく褒めたのに、かすりもしなかった言葉は、行き場をなくして宙に浮く。
「ところで終わったの?」
秦野は、ドリンクカウンターとパントリーの間にある食洗機に向かって顎をしゃくる。
「おかげさまで終わりました!」
「そ。じゃ、僕はレジに戻るから」
秦野は首を鳴らしながら、レジカウンターへ戻っていった。ふと、無造作に置かれたピッチャーが目に入った。底にわずかに残ったミルクの白が、なんだか愛らしく見えた。
「今日激混みじゃなかった? めっちゃ疲れたんですけどぉ」
街灯が照らす長い影を追うように、タイル張りの商店街を秦野と二人並んで歩く。少し湿った香りが鼻腔にぺたりと張り付く。肌寒さはあるけれど、その奥にはわずかな温もりもあった。四月にも関わらず、いたるところで夏が見え隠れしている。
居酒屋の窓からにじむ橙色の明かりが頬をかすめ、洩れ聞こえる笑い声を背に、ふくらはぎに残る鈍い疲労をやりすごした。
「いつもの土曜日よりお客さんが多かったかも」
「そうなの?」
「うん」
あれから、とにかく動きっぱなしだった。ドリンクを作って、フードを運んで。洗浄が追いつかないまま、次の注文を捌く。その繰り返しだった。
「疲れたね」
信号機が赤に変わり、どちらからともなく歩みを止める。秦野は指を組んだ手のひらを夜空に向け、「ん〜」と喉の奥で声を転がしながら大きく伸びをした。そんな無防備な姿は初めて見た。よほど疲れているのだろう。
「店長に『また土曜日出て欲しい』って、言われたんだよね」
また出ちゃおっかな〜、と秦野に向かって言うと、ゆるみきった顔に緊張が走り、ぱっと手をほどいて俯いた。
「……さっきの話なんだけど」
「さっき?」
「仕事中に聞いてきたでしょ? 店長のこと」
「あー、うん」
喉の奥で相槌をうつと、秦野とのあいだに生まれたわずかな緊張から逃げるように、そっと目を閉じた。
「面接のとき、黒川と同じシフトにしないでって店長に言ったんだ」
「は? え?」
驚いて目を開けると、前を横切っていく車のテールランプだけが、やけにくっきり見えた。突拍子もない言葉が、耳を通り過ぎたまま、頭のなかでうまく繋がらない。
「待って。つうか、秦野って……いつからウチで働いてんの?」
「去年の十月」
ああ、そういえば。その頃、遅番が一人辞めて店長が焦っていたのに、すぐ新しい子が入ったと言っていた。俺のシフトが月水金に固定されたのも、その頃だ。
店長が言いかけていたのは、このことだったのか。そこまでして、俺を避けたかったのか。最初から。秦野は俯いたまま、それ以上なにも言わない。少しは仲良くなれたと思ったのに、とんだ俺の思い過ごしだったなんて。
「でもね」ちらりと上目に向けられた瞳が、どこか後ろめたそうに揺れる。「いまは違うよ」
「え?」
「一緒に働いてみて、楽しかったから……」
言葉の終わりが夜気に溶け、うまく聞き取れなかった。秦野は下唇を噛み、逃げるように横断歩道の向こうへ目をやった。
「青に変わった」
俺を置いて、秦野が先に歩き出す。その背中に向かって、声を投げる。「もしかして、俺のこと、見直した?」
「見直したっていうか……思ってたより嫌じゃない、かも」
「なんだよそれ。褒めてんのか、けなしてんのかどっちだよ」
「……褒めてる」
「へえ」
「うるさいなぁ。そういうとこ、ほんと嫌」
秦野は空気を切るような鋭い視線をよこした。照れくさそうな気配を押しのけて、いつもの調子に戻っている。
「じゃあ、僕はここで」
ちょうど、横断歩道を渡りきったところだった。
「秦野って電車じゃないの?」
「うん。僕の家すぐそこだから」そう言って、斜め左を指さす。
「え、すぐそこって」
「じゃあ、また学校で」
「あ、ちょ!」
秦野は俺の声なんか聞こえないみたいに、あっという間に商店街の裏路地へ消えていった。
この辺りの地価は高いはずだ。そんな場所に住んでいるということは、秦野って……もしかして、お金持ちのとこのお坊ちゃんか?
暗がりの奥を見つめたまま、そんなことを考える。
でも。昼はいつもコンビニで買ったおにぎりだし、残ったおにぎりは梅だから夜に食べる、なんて意味の分からないことも言っていた。
目立つのが嫌で、ラテにハートを描けて、進路は白紙で、特待生で、昼食はコンビニのおにぎりで、南文京地区に住んでいる。
指を折りながら、俺が知った秦野をひとつひとつ並べていく。
「見直したっていうか……思ってたより嫌じゃない、かも」
最初は、目立つから俺のことが嫌だ、なんて言っていたくせに。
得体の知れないむず痒さが、皮膚の下を駆け巡る。そこに爪を立ててかきむしる。
「やっぱ俺、秦野のこと全然知らないわー」
吐き捨てるように言って、俺は駅へ向かった。
それなら、一緒に働けるってことか!
終話したスマホを持ったまま飛び上がるように体を起こすと、煎餅みたいな硬い布団の下で床がギシギシと鳴った。
「朝っぱらからなにぃ〜? うるさいんだけどぉ……」
襖の向こうで、耳にまとわりつくような甘ったるい声がした。
「ああ、ごめん」
襖の向こうでは、まだ、ぶつぶつとなにか言っていたが、聞こえないように頭まですっぽりと布団を被った。すると、しだいに二度目の眠気が遠くからやってくる。一五時ごろにアラームをセットしないと、と思いながら、意識は布団に吸い込まれていった。
次に目を覚ますと、スマホの時計は一六時を示していた。襖の向こうには、もう人の気配はなかった。つんとくる煙草の匂いだけが、襖一枚隔てたこちらの部屋にまで残っている。
この匂いは苦手だ。スウェットの袖で口許を覆い、キッチンの奥にある洗面所へ向かった。
家から店までは一時間近くかかる。急いで支度を済ませると、家を飛び出し、そのまま最寄り駅まで駆けた。
到着するなり着替えを済ませ、ネイビーのサロンを引っかけて店頭に出た。
「おはようございます」と、つぶやくように挨拶をしながら、パントリーとフロアをつなぐ細いドアを押し開ける。バックルームの鍵をオーダープリンターの横へ置いた、その瞬間。ドリンクカウンターのほうから声をかけられた。
「休みなのにごめんね!」
ドリンクカウンターにいた店長が、俺のほうへ駆け寄ってくる。
「暇だったので全然」
「そう? 本当にありがとう。……あっでも今日は土曜日だから、秦野くんがいるんだけど」
店長はレジに立つ秦野をちらりと見る。ポポールのカウンター内は、裏のパントリーからドリンク、レジへと横一列で、ざっと一五メートルほど伸びている。俺も店長の肩越しに、レジにいる秦野の姿を捉えた。
「大丈夫そう?」
「秦野がどうかしました?」
「あれ? 秦野くんが前に」店長は顎に手を当てながら考え込んでいる。「――ああいや。君たちが大丈夫ならいいんだ」
「どうしたんですか?」
勝手にひとりで納得した店長の顔を覗き込もうとしたら、
「いらっしゃいませー」
という声が、レジから聞こえてきた。はっとして、俺と店長はそろって自動ドアを見る。仕事帰りのような男女二人組が入ってきて、カウンターの奥にあるメニューボードを見上げていた。
「じゃあ黒川君はドリンクカウンターをお願い。僕はこっちで明日の仕込みをするから」
行って行ってと、店長が俺の背中を押す。店長の言葉に釈然としないまま、ドリンクカウンターへ向かった。レジで注文をしている客二人に向かって「いらっしゃいませ」と声をかけ、ドリンクカウンター内のポジションを確認した。
店長が使っていた、ピッチャー、ココアパウダー、各種シロップの位置を、俺が使いやすいように並べ替える。
「ツー・ショートアイスラテ、お願いします」
秦野がちらりとこちらを見て、オーダーを通した。
「ツー・ショートアイスラテ、かしこまりました」
復唱しながら、ポルタフィルターをエスプレッソグラインダーにセットして豆を挽く。挽いた粉をタンピングし、エスプレッソマシンにセットした。
細かく挽いた粉の層を、圧のかかった湯が押し通る。エスプレッソが抽出されるまで、およそ二〇から三〇秒。それまでにグラスに氷を入れ、ミルクを注いでおく。ナッツ色のきめ細かなクレマが浮いたエスプレッソを、グラスへ注ぐ。白いミルクに琥珀色が溶けて、やわらかなグラデーションができた。
「お待たせいたしました」
大理石調のカウンターへグラスを置くと、二人から軽くお礼を言われた。
ダスターでコールドテーブルを拭いて、レジを見る。秦野と目が合うなり、じとりとした視線が刺さった。後ろめたいことなんてないはずなのに、責められたような気分が肌にまとわりついた。
「お、おはようございます?」
右手を小さくあげ、小首を傾げてみたら、
「おはうございます」
と、唇をとがらせるようにしながら返された。
「なに? なんか不満?」
「いや」
「ヘルプのヘルプだよ俺。今日入るはずだった人、風邪で休みなんでしょ?」
「そうみたい」
秦野はそう言うと、しゃがんでレジロールのストックに手を伸ばした。
なにを考えているのか、さっぱりわからない。屋上で話したときは笑っていたし、手紙だって続いている。教室で無愛想なのはまだいいとして。ここでも、そっけなくされる理由が俺にはわからなかった。
「……初めて見た。黒川のサロン姿」
レジロールを交換しながら、ぽつりと秦野が言った。
「へ? ああ、一緒に働くの初めてだし」
「うん」
「俺は前に見たけどな、秦野の」
ただ、あらためてよく見ると、秦野は思っていたよりずっと線が細かった。学校の制服では気づかなかったが、骨格はちゃんと男なのに、横から見れば頼りないほど薄い。腰に巻いたネイビーのサロンが、その細さを余計に目立たせる。
「なに?」
声をかけられて、ぼんやりした焦点が秦野の瞳と繋がった。
「あ、いや」視線をフロアへ逃がす。客の頭を撫でるようにざっと見ながら言葉を探した。「そういえば、さっき店長が変なこと言ってたんだけど、秦野なんか知ってる?」
「変、って?」
「秦野がいるけど大丈夫? って言われた」
ペーパーナプキンを補充する秦野の手がぴたりと止まる。
「いや……知らない」
ナプキンをきつく掴んだまま、視線は手元へと落ちていく。
「ふうん?」
俺はコールドテーブルに手をついて身を乗り出し、俯いた秦野の顔を覗き込む。けれど、その動きに気づいた秦野は、ふいと顔を背けた。表情までは見えなかった。
「し、仕事に集中して!」
追い払うように左手を振られ、俺はあおられるまま一歩引いた。
有線から流れる静かなジャズが耳の奥をくすぐる。道路に面した大きなガラス窓の向こうでは、街全体が青みがかった薄闇に包まれていく。店内でも、暖色の照明がじわりと存在感を増し、夜の気配が近づいてきた。
「ごちそうさまでした」
下げ台に届いた声で、はっと我に返る。
「あ、ありがとうございました!」
「ありがとうございました」
俺のあとに秦野も続いた。
すぐに三人組の男性客が入ってきた。賑やかな声に、有線のジャズはたちまちかき消される。
「いらっしゃいませ。店内でお過ごしですか?」
秦野のその一言を皮切りに、土曜夜のピークタイムが始まった。
「ツー・ショートカプチーノ、お願いします」
「ツー・ショートカプチーノ、かしこまりました」
「ショートホットラテ、ショートアイスココア、トールアイスラテ、お願いします」
「かしこまりました〜」
「ホットサンド、あたためお願いします」
「あたため、かしこまりましたァ」
「スリーアイスラテ、お願いします」
「サイズは?」
「あ、えと……ショート。三つとも」
「オッケー」
「お……お願いします」
「ショット追加、ショートアイスラテ、お願いします」
「へいへーい」
「おい黒川!」
「ごめんごめん。はい、かしこまりました!」
「俺、グラス洗浄入るから、しばらくレジとドリンク両方やっといてー」
「うん、わかった」
「並んだら呼んで」
食洗機を回し終え、ドリンクカウンターへ目をやる。秦野はエスプレッソマシンのスチームノズルにミルク用のダスターを当て、短く空吹かしをしていた。オーダー票には「S・ラテ」。ショートサイズのホットラテだ。
一杯分のミルクを注いだステンレスピッチャーに、スチームノズルが差し込まれる。コォー、と蒸気の音が鳴った次の瞬間、チチチ、という小気味いい音が弾ける。ミルクの表面にノズルの先を当て、空気を含ませている音だ。
しばらくして、秦野はノズルをもう少し深く沈めた。今度はミルクの中で渦を作るように、フォームを撹拌していく。右手でピッチャーを包み込むように持ち、そのまま手のひらで温度を測っている。ミルクフォームは、五五度から六〇度くらいがちょうどいい。音と、手のひらに伝わる熱。それだけを頼りに、秦野は淡々とミルクフォームを仕上げていく。
適温になったところでスチームを止め、ピッチャーを外す。ノズルについたミルクをダスターで拭い、もう一度、空吹かし。ピッチャーの底を軽くカウンターに打ちつけ、くるりと回す。そうして大きな泡を潰し、きめの細かいフォームに整えていく。
ここまでの動きに、無駄はひとつもなかった。
左手でエスプレッソショットの入ったマグカップを支え、右手にピッチャーを持つ。俺は息をひそめ、気づかれないよう背後からそっと覗き込んだ。どんなラテアートを描くのだろう。胸の奥が、わずかに浮き立つ。
傾けたマグカップへ、高い位置から細くミルクを落とす。琥珀色のエスプレッソに白が溶け、表面にマーブル模様が広がった。そこで秦野は、すっとピッチャーを近づける。白い丸が、ふわりと浮かぶ。最後に細く線を切るように奥へ流す。
「おお……」と、思わず声が洩れた。
秦野の肩がぴくりと跳ねる。マグカップのなかには、小ぶりのハートの模様ができあがった。
「お待たせいたしました」
ドリンクが出るのを待っていた女性は、スマホから顔を上げてマグカップを手にした。なかを覗き込むとわあっと小さく声をあげ、口許をほころばせたまま客席へ向かっていった。
「なんで見てるの」
「だめ?」
振り返りながら上目を向けた秦野は、わざとらしくため息を吐いた。
「うまいじゃん、ハート描くの」
「ハートなんて誰でも出来るでしょ」
「まぁ確かに」
ハートはラテアートの基本だ。そうだけど。せっかく褒めたのに、かすりもしなかった言葉は、行き場をなくして宙に浮く。
「ところで終わったの?」
秦野は、ドリンクカウンターとパントリーの間にある食洗機に向かって顎をしゃくる。
「おかげさまで終わりました!」
「そ。じゃ、僕はレジに戻るから」
秦野は首を鳴らしながら、レジカウンターへ戻っていった。ふと、無造作に置かれたピッチャーが目に入った。底にわずかに残ったミルクの白が、なんだか愛らしく見えた。
「今日激混みじゃなかった? めっちゃ疲れたんですけどぉ」
街灯が照らす長い影を追うように、タイル張りの商店街を秦野と二人並んで歩く。少し湿った香りが鼻腔にぺたりと張り付く。肌寒さはあるけれど、その奥にはわずかな温もりもあった。四月にも関わらず、いたるところで夏が見え隠れしている。
居酒屋の窓からにじむ橙色の明かりが頬をかすめ、洩れ聞こえる笑い声を背に、ふくらはぎに残る鈍い疲労をやりすごした。
「いつもの土曜日よりお客さんが多かったかも」
「そうなの?」
「うん」
あれから、とにかく動きっぱなしだった。ドリンクを作って、フードを運んで。洗浄が追いつかないまま、次の注文を捌く。その繰り返しだった。
「疲れたね」
信号機が赤に変わり、どちらからともなく歩みを止める。秦野は指を組んだ手のひらを夜空に向け、「ん〜」と喉の奥で声を転がしながら大きく伸びをした。そんな無防備な姿は初めて見た。よほど疲れているのだろう。
「店長に『また土曜日出て欲しい』って、言われたんだよね」
また出ちゃおっかな〜、と秦野に向かって言うと、ゆるみきった顔に緊張が走り、ぱっと手をほどいて俯いた。
「……さっきの話なんだけど」
「さっき?」
「仕事中に聞いてきたでしょ? 店長のこと」
「あー、うん」
喉の奥で相槌をうつと、秦野とのあいだに生まれたわずかな緊張から逃げるように、そっと目を閉じた。
「面接のとき、黒川と同じシフトにしないでって店長に言ったんだ」
「は? え?」
驚いて目を開けると、前を横切っていく車のテールランプだけが、やけにくっきり見えた。突拍子もない言葉が、耳を通り過ぎたまま、頭のなかでうまく繋がらない。
「待って。つうか、秦野って……いつからウチで働いてんの?」
「去年の十月」
ああ、そういえば。その頃、遅番が一人辞めて店長が焦っていたのに、すぐ新しい子が入ったと言っていた。俺のシフトが月水金に固定されたのも、その頃だ。
店長が言いかけていたのは、このことだったのか。そこまでして、俺を避けたかったのか。最初から。秦野は俯いたまま、それ以上なにも言わない。少しは仲良くなれたと思ったのに、とんだ俺の思い過ごしだったなんて。
「でもね」ちらりと上目に向けられた瞳が、どこか後ろめたそうに揺れる。「いまは違うよ」
「え?」
「一緒に働いてみて、楽しかったから……」
言葉の終わりが夜気に溶け、うまく聞き取れなかった。秦野は下唇を噛み、逃げるように横断歩道の向こうへ目をやった。
「青に変わった」
俺を置いて、秦野が先に歩き出す。その背中に向かって、声を投げる。「もしかして、俺のこと、見直した?」
「見直したっていうか……思ってたより嫌じゃない、かも」
「なんだよそれ。褒めてんのか、けなしてんのかどっちだよ」
「……褒めてる」
「へえ」
「うるさいなぁ。そういうとこ、ほんと嫌」
秦野は空気を切るような鋭い視線をよこした。照れくさそうな気配を押しのけて、いつもの調子に戻っている。
「じゃあ、僕はここで」
ちょうど、横断歩道を渡りきったところだった。
「秦野って電車じゃないの?」
「うん。僕の家すぐそこだから」そう言って、斜め左を指さす。
「え、すぐそこって」
「じゃあ、また学校で」
「あ、ちょ!」
秦野は俺の声なんか聞こえないみたいに、あっという間に商店街の裏路地へ消えていった。
この辺りの地価は高いはずだ。そんな場所に住んでいるということは、秦野って……もしかして、お金持ちのとこのお坊ちゃんか?
暗がりの奥を見つめたまま、そんなことを考える。
でも。昼はいつもコンビニで買ったおにぎりだし、残ったおにぎりは梅だから夜に食べる、なんて意味の分からないことも言っていた。
目立つのが嫌で、ラテにハートを描けて、進路は白紙で、特待生で、昼食はコンビニのおにぎりで、南文京地区に住んでいる。
指を折りながら、俺が知った秦野をひとつひとつ並べていく。
「見直したっていうか……思ってたより嫌じゃない、かも」
最初は、目立つから俺のことが嫌だ、なんて言っていたくせに。
得体の知れないむず痒さが、皮膚の下を駆け巡る。そこに爪を立ててかきむしる。
「やっぱ俺、秦野のこと全然知らないわー」
吐き捨てるように言って、俺は駅へ向かった。
