◇
それから週が明けて月曜日。
秦野は昼休みのチャイムが鳴るなり席を立ち、教室のドアを抜けていった。呼び止める隙もなかった。俺も追いかけるように廊下へ出た。
四時間目の授業から解放されたざわめきが、廊下にどっと押し寄せた。行き交う顔をざっと見渡す。昼休みは、かなに捕まることが多い。けれど、廊下のどこにもその姿は見えなかった。見つかる前に三年の廊下を駆け抜けた。
朝、秦野に「話したいことがあるから、昼休み屋上で」とだけ告げられた。あいかわらず、学校では話しかけても無視される。そんな秦野がなにを考えているのか分からないまま、午前中をやり過ごした。
屋上へ続く埃っぽい階段を駆け上がり、スチールのドアを押す。かび臭さが一変、さわやかな春の香りが鼻腔にひろがった。
「黒川」
目を瞑って大きく息を吸ったとき、俺の名前が聞こえた。ばたばたとなびく髪の毛を手で抑えながらあたりを見回す。視線の先、フェンス近くのベンチに秦野は座っていた。
風に揺れる黒い髪が、日差しを受けて艶めいていた。思わず見入っていたら、もう一度「おい黒川」と呼ばれた。
「あ、ああごめん」
秦野の隣に腰を下ろす。屋上の白い地面をなぞりながら視線を伸ばすと、フェンスの先に広がる青空と、背の高いビルがいくつか見えた。屋上が開放されているのは知っていたけれど、一度も来たことはなかった。開放感のある景色に、ゆっくりと気持ちが解けていく。
「黒川それって」俺が持っている巾着を指しながら秦野が訊いた。「お弁当?」
「へ? ああ」
秦野の指に引きずられるように巾着へ視線を落とす。これを見られたのが心なしか恥ずかしくて、両手でやんわりと隠した。
「もしかして手作り?」
「まあ……うん。自分で」
「えっ? 黒川が自分で作ったの?」
すごい、なんて言う秦野の膝の上にはコンビニの袋があった。
「毎日作ってるの?」
「ま、まあ……」
自分で作ったなんて、わざわざ言う必要なかったのに。なぜ言ってしまったのか。
それに、当たり前のことを『すごい』なんて言われると、胸の奥が痒くなって掻きむしりたくなる。放り出した両足をずるずると引き戻し、違和感を吐き出すつもりでため息をついた。それでもまだ胸は痒いままだ。
このまま食べないわけにもいかないので、隣からの視線を感じつつ巾着から弁当箱を取り出す。蓋を開けると、甘みと酸味が混ざったような弁当特有の香りが鼻をついた。
「いろどりも綺麗」
秦野は横から身を乗り出して、弁当に覆い被さるように覗き込んだ。視界が黒い髪の毛で埋め尽くされる。
「おいっ! 食べられないだろ!」
ぐい、と背中を掴んで弁当の前から剥がす。
剥がされたにも関わらず、秦野は弁当を見つめながら「おいしそう」なんて呟いた。
「秦野の昼飯はそれだけ?」
話を変えようとして、太陽に照らされたビニール袋へ指をさす。
「うん」
「毎日?」
「うん」
「飽きないのか?」
「んまあ、飽きるけど。僕、料理出来ないし」
僕?
そういうのは、親がやるものじゃないのか。……もしかして、俺と同じように、親にろくに構われてない、のか?
そう思った途端、みぞおちのあたりがじくりと痛んだ。
いや、踏み込みすぎだ。誤魔化すように箸箱へ手を伸ばす。
「とりあえず、秦野も食べなよ。時間なくなるから」
冷めた白米はほんのり固く、まぶしたふりかけの塩っぱさが口いっぱいにひろがる。冷凍食品を詰めただけの弁当に、腹を満たす以外、なにも求めてはいないけれど、食べれば食べるほど虚しい気持ちになるのはなぜだろう。
しゃりしゃりと、ビニールの擦れる音が聞こえた。咀嚼しながら横を見ると、秦野が袋からおにぎりを取り出していた。
「黒川を呼んだ理由なんだけど」
ごくりと飲み込んで、秦野のほうへ身体ごと向ける。
「あの……。気まずいから、食べながら聞いてほしい」
「ごめん」
正面に向き直し、続きを待ちながら、箸で唐揚げを転がす。視界のすみで、秦野がひゅうと息を吸った。
「ポポールで前に黒川が会ったひとは、僕の知り合いなんだ」
「知り合い?」
秦野はこくりと頷く。
「その……なんていうか、イベント? みたいなところで知り合って……」
歯切れの悪い物言いだった。横目で盗み見ると、秦野は口角を引きつらせていた。言葉を探すように、指先でおにぎりを弄んでいる。こちらから踏み込んでいい話でもなさそうで、俺は黙って唐揚げを口へ放り込む。冷凍食品の安っぽい旨みが、唾液腺を刺激した。
「何度か会ったんだけど、なんか違うなぁって思って」
「まだ続いてんの? その関係」
飲み込んでから訊くと、秦野は首を振った。
「でも、バイト先教えちゃったんだよね」
秦野はばつが悪そうに眉尻を下げた。
出会って間もない相手に、バイト先まで教えたのか。
不用心すぎる。押し切られたのかもしれない。でも、それにしたって警戒心がなさすぎる。なにやってんだよ、と喉元まで出かかった。
けれど、秦野のばつが悪そうな顔を見ると、そのまま責める気にはなれない。
ふつふつと浮かぶ言葉を、やんわりとかぶりを振ってふりおとす。唐揚げの油が残る歯を舌でなぞりながらどうにか言葉を選んだ。
「だからポポールに来たのか……」
俺の言葉に秦野は静かに頷いた。それから膝の上にあったおにぎりを持ち上げ、フィルムの先端を指でつまんで引っ張った。鮭、と書かれたシールが半分に分かれる。
「――で、俺が追っ払ったあとも来てるの?」
おにぎりを頬張ってリスのように膨らんでいた頬が、みるみるうちにしぼみ、喉元が上下する。
「うん。土曜日は来なかった」
ということは、木曜日は来たってことか。
「木曜日は来たけど、中には入ってこなかった」
「じゃあ俺のアレ、効果あったってことか?」
「かも?」
秦野はそう言うと、首を傾げながら俺を見て微笑んだ。太陽の光を浴びるその顔は、初めてみる表情だった。
「ありがとう黒川」
次の瞬間、ぶわっと強い風が吹いて、春の匂いが巻き上がった。
膝の上の弁当箱をとっさに押さえた。舞い上がった小さな塵が目に入って、ぎゅっと瞼を閉じる。チカチカする瞼の裏に、さっきの秦野の笑顔がもう一度浮かぶ。ありがとうの言葉が、耳の奥で響いた。
指先で目頭をこすりながら、ゆっくり目を開けて隣を見る。秦野は軽やかになびく髪の毛をそのままに、春風を堪能するみたいに口許をやんわりとゆるめて空を仰いでいた。
なにか返さないと、と思って開いた口が動かない。現実味のない光景に戸惑って、生ぬるい風を呑み込むことしかできなかった。
「あ、チャイム鳴っちゃった」
音に促されるように、お互いの膝に視線を落とす。弁当は半分ほど残ってしまった。
「ごめん。僕が話しちゃったから」
「や、大丈夫。てか、お前もおにぎり残ったな」
「残ったのは梅だから大丈夫」
「え、梅……?」
梅だとなぜ大丈夫なのか。弁当を片付けながら疑問に思う。
「夜ご飯のときに食べるから」
秦野はそう言うとすっと立ち上がり、そのまま入口へ向かってしまった。
「梅だから大丈夫って、どういう意味だよ?」
俺も急いで弁当箱を抱え直し、先を行く秦野の背中を追いかけた。
◇
ウォールポケットを介した手紙のやり取りが始まって一週間。短かった返事は少しずつ長くなり、秦野のことを考える時間も増えた。内田くんは秦野のことを慕っているようで、シフトが被った日はことあるごとに秦野の話を聞かされた。
そのせいだろうか。いつのまにか、一緒に働いてみたいと思うようになっていた。
土曜日の朝、着信音に叩き起こされた。休みの日に店から電話なんて、嫌な予感しかしない。
横たわったまま通話ボタンを押すと、店長の焦った声が耳に飛び込んできた。
『朝からごめんね。実は欠員が出ちゃって。黒川くん、今日って出勤できる?』
それから週が明けて月曜日。
秦野は昼休みのチャイムが鳴るなり席を立ち、教室のドアを抜けていった。呼び止める隙もなかった。俺も追いかけるように廊下へ出た。
四時間目の授業から解放されたざわめきが、廊下にどっと押し寄せた。行き交う顔をざっと見渡す。昼休みは、かなに捕まることが多い。けれど、廊下のどこにもその姿は見えなかった。見つかる前に三年の廊下を駆け抜けた。
朝、秦野に「話したいことがあるから、昼休み屋上で」とだけ告げられた。あいかわらず、学校では話しかけても無視される。そんな秦野がなにを考えているのか分からないまま、午前中をやり過ごした。
屋上へ続く埃っぽい階段を駆け上がり、スチールのドアを押す。かび臭さが一変、さわやかな春の香りが鼻腔にひろがった。
「黒川」
目を瞑って大きく息を吸ったとき、俺の名前が聞こえた。ばたばたとなびく髪の毛を手で抑えながらあたりを見回す。視線の先、フェンス近くのベンチに秦野は座っていた。
風に揺れる黒い髪が、日差しを受けて艶めいていた。思わず見入っていたら、もう一度「おい黒川」と呼ばれた。
「あ、ああごめん」
秦野の隣に腰を下ろす。屋上の白い地面をなぞりながら視線を伸ばすと、フェンスの先に広がる青空と、背の高いビルがいくつか見えた。屋上が開放されているのは知っていたけれど、一度も来たことはなかった。開放感のある景色に、ゆっくりと気持ちが解けていく。
「黒川それって」俺が持っている巾着を指しながら秦野が訊いた。「お弁当?」
「へ? ああ」
秦野の指に引きずられるように巾着へ視線を落とす。これを見られたのが心なしか恥ずかしくて、両手でやんわりと隠した。
「もしかして手作り?」
「まあ……うん。自分で」
「えっ? 黒川が自分で作ったの?」
すごい、なんて言う秦野の膝の上にはコンビニの袋があった。
「毎日作ってるの?」
「ま、まあ……」
自分で作ったなんて、わざわざ言う必要なかったのに。なぜ言ってしまったのか。
それに、当たり前のことを『すごい』なんて言われると、胸の奥が痒くなって掻きむしりたくなる。放り出した両足をずるずると引き戻し、違和感を吐き出すつもりでため息をついた。それでもまだ胸は痒いままだ。
このまま食べないわけにもいかないので、隣からの視線を感じつつ巾着から弁当箱を取り出す。蓋を開けると、甘みと酸味が混ざったような弁当特有の香りが鼻をついた。
「いろどりも綺麗」
秦野は横から身を乗り出して、弁当に覆い被さるように覗き込んだ。視界が黒い髪の毛で埋め尽くされる。
「おいっ! 食べられないだろ!」
ぐい、と背中を掴んで弁当の前から剥がす。
剥がされたにも関わらず、秦野は弁当を見つめながら「おいしそう」なんて呟いた。
「秦野の昼飯はそれだけ?」
話を変えようとして、太陽に照らされたビニール袋へ指をさす。
「うん」
「毎日?」
「うん」
「飽きないのか?」
「んまあ、飽きるけど。僕、料理出来ないし」
僕?
そういうのは、親がやるものじゃないのか。……もしかして、俺と同じように、親にろくに構われてない、のか?
そう思った途端、みぞおちのあたりがじくりと痛んだ。
いや、踏み込みすぎだ。誤魔化すように箸箱へ手を伸ばす。
「とりあえず、秦野も食べなよ。時間なくなるから」
冷めた白米はほんのり固く、まぶしたふりかけの塩っぱさが口いっぱいにひろがる。冷凍食品を詰めただけの弁当に、腹を満たす以外、なにも求めてはいないけれど、食べれば食べるほど虚しい気持ちになるのはなぜだろう。
しゃりしゃりと、ビニールの擦れる音が聞こえた。咀嚼しながら横を見ると、秦野が袋からおにぎりを取り出していた。
「黒川を呼んだ理由なんだけど」
ごくりと飲み込んで、秦野のほうへ身体ごと向ける。
「あの……。気まずいから、食べながら聞いてほしい」
「ごめん」
正面に向き直し、続きを待ちながら、箸で唐揚げを転がす。視界のすみで、秦野がひゅうと息を吸った。
「ポポールで前に黒川が会ったひとは、僕の知り合いなんだ」
「知り合い?」
秦野はこくりと頷く。
「その……なんていうか、イベント? みたいなところで知り合って……」
歯切れの悪い物言いだった。横目で盗み見ると、秦野は口角を引きつらせていた。言葉を探すように、指先でおにぎりを弄んでいる。こちらから踏み込んでいい話でもなさそうで、俺は黙って唐揚げを口へ放り込む。冷凍食品の安っぽい旨みが、唾液腺を刺激した。
「何度か会ったんだけど、なんか違うなぁって思って」
「まだ続いてんの? その関係」
飲み込んでから訊くと、秦野は首を振った。
「でも、バイト先教えちゃったんだよね」
秦野はばつが悪そうに眉尻を下げた。
出会って間もない相手に、バイト先まで教えたのか。
不用心すぎる。押し切られたのかもしれない。でも、それにしたって警戒心がなさすぎる。なにやってんだよ、と喉元まで出かかった。
けれど、秦野のばつが悪そうな顔を見ると、そのまま責める気にはなれない。
ふつふつと浮かぶ言葉を、やんわりとかぶりを振ってふりおとす。唐揚げの油が残る歯を舌でなぞりながらどうにか言葉を選んだ。
「だからポポールに来たのか……」
俺の言葉に秦野は静かに頷いた。それから膝の上にあったおにぎりを持ち上げ、フィルムの先端を指でつまんで引っ張った。鮭、と書かれたシールが半分に分かれる。
「――で、俺が追っ払ったあとも来てるの?」
おにぎりを頬張ってリスのように膨らんでいた頬が、みるみるうちにしぼみ、喉元が上下する。
「うん。土曜日は来なかった」
ということは、木曜日は来たってことか。
「木曜日は来たけど、中には入ってこなかった」
「じゃあ俺のアレ、効果あったってことか?」
「かも?」
秦野はそう言うと、首を傾げながら俺を見て微笑んだ。太陽の光を浴びるその顔は、初めてみる表情だった。
「ありがとう黒川」
次の瞬間、ぶわっと強い風が吹いて、春の匂いが巻き上がった。
膝の上の弁当箱をとっさに押さえた。舞い上がった小さな塵が目に入って、ぎゅっと瞼を閉じる。チカチカする瞼の裏に、さっきの秦野の笑顔がもう一度浮かぶ。ありがとうの言葉が、耳の奥で響いた。
指先で目頭をこすりながら、ゆっくり目を開けて隣を見る。秦野は軽やかになびく髪の毛をそのままに、春風を堪能するみたいに口許をやんわりとゆるめて空を仰いでいた。
なにか返さないと、と思って開いた口が動かない。現実味のない光景に戸惑って、生ぬるい風を呑み込むことしかできなかった。
「あ、チャイム鳴っちゃった」
音に促されるように、お互いの膝に視線を落とす。弁当は半分ほど残ってしまった。
「ごめん。僕が話しちゃったから」
「や、大丈夫。てか、お前もおにぎり残ったな」
「残ったのは梅だから大丈夫」
「え、梅……?」
梅だとなぜ大丈夫なのか。弁当を片付けながら疑問に思う。
「夜ご飯のときに食べるから」
秦野はそう言うとすっと立ち上がり、そのまま入口へ向かってしまった。
「梅だから大丈夫って、どういう意味だよ?」
俺も急いで弁当箱を抱え直し、先を行く秦野の背中を追いかけた。
◇
ウォールポケットを介した手紙のやり取りが始まって一週間。短かった返事は少しずつ長くなり、秦野のことを考える時間も増えた。内田くんは秦野のことを慕っているようで、シフトが被った日はことあるごとに秦野の話を聞かされた。
そのせいだろうか。いつのまにか、一緒に働いてみたいと思うようになっていた。
土曜日の朝、着信音に叩き起こされた。休みの日に店から電話なんて、嫌な予感しかしない。
横たわったまま通話ボタンを押すと、店長の焦った声が耳に飛び込んできた。
『朝からごめんね。実は欠員が出ちゃって。黒川くん、今日って出勤できる?』
