未完成なクレバーたち

   ◇

 二日後の金曜日。いつもより早く学校に着いてしまった。まだ数人しかいない教室は、静かで、淡い朝の空気に満ちている。そのなかで、そっと秦野の席を見る。そこに秦野の姿はない。クリーム色の光に照らされた机を見て、ほっと小さく息を吐いた。
 ――読んだだろうか。読んだのなら、どう思っただろうか。
 いまさらそんなことを考えたところで意味ないのに。頭を掻きながら机に突っ伏した。
 どれくらいそうしていただろうか。
「……おはよ」
 という覇気のない声が、背中に聞こえた。教室に誰か入ってきたみたいだ。
「おはようって言ってるんだけど?」
 ったく。誰だよ。さっさと挨拶してあげろよ。
「ねえ黒川」
「へっ!? 俺!?」
 思いもよらない状況に、勢いよく顔を上げた。このクラスで、わざわざ俺に挨拶してくるようなやつなんていないはず。
 そう思いながらゆっくり後ろを振り返る。「は、はたっ!?」
 左肩にスクールバッグを引っ掛けた秦野が、俺のすぐ後ろに立っていた。少し不機嫌そうな顔で、こちらを見下ろしている。
「そんなに驚くこと?」
「はぁ!? だって、挨拶なんて……」
「するでしょ、挨拶くらい。クラスメイトなんだから」
 秦野はこれみよがしに、「はぁ」と息をはいた。
 クラスメイトなんだから、挨拶くらいする。確かにそう。けど、そういうのって、もう少し仲良くなってからじゃないのか。
 右のほうから、じりじりと視線を感じた。教室のあちこちで、クラスメイトたちが俺たちを見ている。
「目立つの嫌なんじゃないの?」小声でそう言って、親指で教室の奥を示す。
 秦野の視線は俺の指につられて奥へと流れた。だが、二、三度うなずいただけで、また俺へ戻ってくる。
「目立つのは嫌だけど……まあ僕も変わり者だし」
 後半は廊下のざわめきに紛れて、うまく聞き取れなかった。
「なんつった?」眉をひそめ、秦野の方へ耳を近づける。
「なんでもない」秦野はゆっくりかぶりを振った。「そういや見たよ。なにあれ」
 見た?
 あれ?
 ……アレ!?
「げえっ!」喉の奥から変な声が飛び出た。「いや、あれはそのっ。あれはだなぁ。だから、その……」
 とっさに挙げた両手が、意味もなく宙をさまよう。
「面白いなって、思ったよ」
 そう言うと、秦野は顔を背けた。
「面白い?」
 下ろした両腕を背もたれに乗せる。背けたままの秦野の顔を、下から覗き込んだ。
「ってか、また笑ってる?」
「だって、僕が思っていた黒川とは違うんだもん。手紙だよ?」くつくつと笑いながら、肩が小さく揺れている。「ああでも」
「こんどはなんだよ」身体を戻しながら吐き捨てる。
「書いたよ、返事」
「――え? へ、返事?」
「うん」ぱちくりと目を開いて、一度だけうなづく。「今日バイトでしょ? そのときに見といてよ」
 秦野はそう言うと手をひらひらさせながら、自分の席へ向かった。
「あ、ちょ」
 俺の声に振り返りもしないで、自分の席へ行ってしまった。同時にチャイムが鳴った。窓から差し込む光が、そんな秦野の輪郭をやんわりと縁取っている。
 昼休みはかなに付き合い、放課後も誘われたが、それは断った。秦野とは朝に話したきり、そのあと一言も交わしていない。あいつがどんな返事を書いたのか気になって、俺は小走りでポポールへ向かった。
 ウォールポケットは、バックルームの入り口のすぐ横にある。ドアを開けるなり、まっさきに自分のポケットへ目をやった。
 見覚えのないメモが一枚、半分に折られて入っていた。
 
 黒川へ

 金曜のワンオペは大変だろうけど、がんばって。
 このあいだは助けてくれてありがとう。

 べつに誰かに見られるわけでもないのに、なんとなく両手で隠しながら読む。ひとまず、気持ち悪いと思われていないみたいでほっとした。
 ――ところで、このあいだって、なんだっけ。
 秦野の文字を目で追いながら、記憶をたどる。
「ああ、あの変なやつか!」
 すっかり忘れていた。あのねっちょりした野郎だ。
 昨日も来たのだろうか。釘は刺したつもりだが、また来るとか言っていたし……。
 腹の底でざわついたものが、そのまま喉元までせり上がってくる。うう、と喉の奥がかすかに鳴った。その振動で、またひとつ思い出す。
 ――あの男のことで、秦野はなにか言いかけていた。
 目を瞑り、あの日の秦野を思い返す。不快そうに顔をしかめていた気がする。
 もう一通、書いてみるか。
 自分のポケットからボールペンとメモ帳を取り出す。指先でペンをくるくる回しながら、なにをどう書こうか考える。
 聞きたいことはいくつかあった。バイトを続けている理由。進路のこと。だが、いちばん気になるのは、あのとき言い淀んだことだ。
 回していたペンを止め、紙に向ける。カチ、と乾いた音を鳴らしたペン先を紙の上で走らせた。

 秦野へ
 あれから、あいつ来た?
 まだ来るようなら、また俺が追い返してやるから、いつでも言って。
 
 こう書けば、言いかけたことも話してくれるかもしれない。そんな打算じみたことを考えながら、メモを半分に折って、秦野のポケットへ入れた。