未完成なクレバーたち

 人の流れに乗って改札を抜け、往来する人々を避けながら南文京駅の東口を出た。空はすでに暗く、客待ちのタクシーの赤いランプは夜風に滲んで連なっている。
 放課後、中学時代の先輩に誘われ、さっきまで一緒にいた。先輩の感覚がまだまとわりついているようで、体はずしんと重い。てきとうに理由をつけて別れ、飛び乗った電車にぼんやり揺られ、気がつけばここにいた。
 駅へ向かう人の波に逆らって、文京商店街のタイル路を進む。商店街は南文京駅東口から約一・二キロ続いて、その先には本郷駅がある。ポポール南文京店は、この商店街のちょうどまんなかにあった。
 さくらんぼみたいな街灯に照らされた自分の影が足元で揺れた。ポポールへ向かうその影に、まっとうな理由を考える。
 秦野が本当に働いているのか確かめるだけ、今朝の仕返しに驚かせてやるだけ。そんなところだ。
 ポポールは、道路に面して一面がガラス張り。その大きな窓から、店内のオレンジ色の照明が外へもれていた。俺は窓の一番端から、ばれないように店内をのぞいた。カウンターには人影がふたつあった。ひとつは客で、もうひとつは秦野紬生だ。
 客に向ける秦野の顔は、目をやわらかく細め、口許に控えめな笑みをのせていた。今朝、あんな露骨に俺を睨んできたやつと同じ顔には見えない。さすがに営業用の笑顔くらいは作れるようだ。
 それにしても……。
「中性的な顔だな」
 改めて思う。小顔で、丸い輪郭の中に、切れ長の一重がすっと収まっている。そのせいか、男とも女とも言いきれない印象があった。
 その顔つきはどこかアンニュイだ。
「いやいや、どうでもいいだろ。秦野の顔なんて」一人でつっこんでから、店内をもう一度眺める。秦野と男性客は、なにやらずっと話し込んでいた。メニューを決めかねているわけではない、気がする。
 秦野の表情は、感じのいい接客用の笑顔というより、どこか薄い愛想笑いにも見えてきた。
 男は注文を決める気配もないまま、いつまでもカウンターの前をどかない。
 店内には秦野の姿しかなかった。おそらく店長は裏で事務作業をしているのだろう。
「今日シフト入ってないんだけどなあ」
 頭をがしがしと掻く。
 まあ、見てしまったものは仕方ない。そう自分に言い訳して、駆け足で店へ向かった。
「いらっしゃいま――」
「やほー!」
 自動ドアの音で、秦野がまっさきにこっちを見た。助かったとでも言わんばかりの表情を見せた矢先、俺だと認識した秦野は「ま」の口のまま固まった。
 カウンターの前にいる男と目があった。セットしたとは思えない無造作な髪型と、サイズの合っていないスーツのせいか、妙に頼りなく見える。スーツを着ているということは、年齢は俺らより年上、二十代から三十代前半だろうか? あからさまに泳ぐ瞳から滲む落ち着きのなさは、社会人のそれとは思えない。
「あっ、お客さんきちゃったから……」
 俺が男に向かって目を細めると、そいつはカウンターからずるずると後ずさった。
「買わないんすか?」
「あ、いや……。どうぞどうぞ?」
 男はへらへらしたまま、俺をカウンターへ促した。
「買わないのに来たんですか?」俺は男へにじり寄る。「ずっとここにいましたよね? 注文もせずに」
 さらにもう一歩近づいた。詰めただけで、男はわかりやすく怯んだ。
「えっ、と」
「うちの店員になんか用ですか?」
 泳ぐ視線を追いかけながら、答えなんていらない質問を投げつけた。
「ま……また、今度来ます!」
 男は逃げるように店から出て行った。
「なんだアイツ」
 閉まる自動ドアを見ながら、独り言ちる。
「あの人、いつも来るんだ」
「ア、聞こえてた?」
 振り返ると、秦野の口許は引きつっていた。不安げに揺れる瞳に、大理石調の天板の白さがぼんやり映っている。
「なに、いつも来るって」
「それは……」
 言い淀んだ秦野の視線は俺の横を通り抜け、自動ドアに向けられた。
「い、いらっしゃいませ」
 秦野の声に重なるように、自動ドアが開き、にぎやかな声が店内にどっど入ってきた。サークル飲みの帰りみたいな大学生が五、六人。酔い冷ましにでも来たのだろうか。俺はすっとカウンターから離れる。
「店内でお過ごしですか?」
 接客をする秦野は愛想がいいだけではなく、声のトーンも落ち着いていて聞きやすい。これ以上ここにいる必要もなくなったので、俺は店をあとにした。ずしんと重かった体は、いつのまにか軽くなっていた。
 そういえば。あいつ、俺と普通に話せるんだな。

 翌日、朝のSHR前に秦野へ声をかけたが、あっさり無視された。ポポールで喋ったときとはまるで別人で、休み時間のたびに席へ行っても、まったく取り合ってもらえない。昨日のやりとりは、夢だったのではと自分の記憶を疑ってしまう。
 あげく、まわりからは「黒川って秦野と友達なの?」「え、でも秦野のほうは無視してるよ」なんて勝手に言われ放題だった。午後の授業もろくに頭に入らないまま、気づけば帰りのSHRとなった。
「連絡事項は以上。ああそれから、黒川と秦野。進路調査票の件で話があるから、このあと職員室に来るように」
 頬杖をつきなが担任の話を聞いていたら、最後に俺の名前が出て、思わず体を起こした。秦野の名前も呼ばれた気がした。
 終礼し、ざわめきたつ教室から、秦野がさっさと出ていく。俺は遅れて立ち上がり、その背中を追った。
「一緒に行こうよ」
 早足で歩く秦野の横に並んだ。俺より少し低い位置で、黒い髪がわずかに揺れる。
「なんで学校だとそんな態度なんだ?」
 秦野は文字通り、ギロっと睨んできた。
「……黒川と一緒だと、目立つからだって」
「それ昨日も聞いたけど」
「気づいてない? 昨日声かけられたとき、すっごく見られてたよ僕たち」
「それのどこがダメなの?」
 訊くと秦野は立ち止まり、俺を見上げた。口がへの字に大きく曲がっている。
「僕は嫌なの。それに、黒川と関わっていると、僕が変になりそう」
「は? なんだよそれ」
「だからとにかく嫌なの」
 秦野はふたたび歩きはじめた。
「わ、悪かったって」なにが悪いのかはわからないが、口癖のように謝罪の言葉をはく。「だから待てって」
「ついてこないでよ」
「ついてこないで、って言われても。俺も職員室に呼ばれたんだけど」
 秦野はわざとらしく大きなため息をついた。だが、歩く速さは、わずかに落ちた気がした。
 一緒に行くことくらいは許されたのかもしれない。そう思って隣に並んだ。
 職員室に着くと、担任の佐藤は俺らを見つけるなり、隣の小会議室へ呼んだ。
 小会議室は、ホワイトボードのある壁を正面に、長机が均一に並べられていた。俺たちは佐藤に促され、中央の席に座った。佐藤は、手にしていた茶封筒と黒い表紙の名簿を机の上に並べながら、俺らの正面に着席した。
「進路調査票のことだが」
 そう言ってクリアファイルのなかから、見覚えのある用紙を二枚、俺たちの前に並べた。数日ぶりに見る自分のクラスと名前だけしか書いていない紙。
「お前ら、志望校ないのか?」
 佐藤は人差し指で紙を叩く。
 見覚えのある自分の字を見てから、秦野の前に置かれた紙を見た。そっちにも「3年A組 秦野紬生」とだけしか書かれていない。
「二人ともA特(エートク)なのに」
「え、あ?」
 二人とも、A特?
 あ、まずい。俺の声に気づいた佐藤と目があった。
「どうした黒川」
「あ、いや」一瞬誤魔化そうかと思ったが、思ったことを聞いてみる。「秦野も特待生なんですか?」
「ああそうだ。うちのクラスというか、この学年で特待生Aなのは黒川と秦野のみだ」
 俺と、秦野だけ。頭のなかでそう呟きながら、秦野を見た。うつむいているせいか、表情まではわからない。
「進路に困る成績じゃないだろうに」
 去年の成績でも書いてあるのか、名簿を見ながら佐藤がつぶやく。
 ブンナンには特待生制度があり、免除額に応じてAからCまである。特待生A、通称A特は特授業料全額免除だ。俺は、全額免除を受けるためにこの学校を選び、三年間成績を維持し、特待生を貫いた。
 佐藤は腕時計を見た。それから、机の上に並べた進路調査票をファイルにしまう。
「とにかく、来月の面談までには志望校を決めるように。くれぐれも、ブンナン特進科の生徒だってことを忘れるなよ」
「はーい」
「はい」
「じゃ話はこれで。――ああ、秦野だけ少し残ってくれ」
「わかりました」
 と返事をするも、秦野は最後まで俯いたままだった。
 俺は小さく頭を下げ、廊下に出た。どこからか、吹奏楽部の演奏が聞こえた。廊下の窓を開けると、生温い風とともに、輪郭を持った音がわあっと押し寄せる。身を乗り出して下を覗けば、中庭で吹奏楽部が練習していた。
 その軽快なマーチのリズムに目を閉じる。
 秦野もA特だったんだな。あいつのことを知ったのは数日前だけど、共通点が多い。進路が白紙、ポポールでバイト、A特。もちろん、あの無愛想な感じとか、正反対なところも多いけれど。
「え、なんでまだいるの?」
 後ろから声がした。
「は? 別に秦野を待ってたわけじゃないし」
 振り返ると茶封筒を持った秦野と目があった。じゃあなんでいるんだ、と二つの瞳が訝しがっている。
「吹奏楽部の演奏を聞いてたんだ」
「ああ、確かに聞こえるね。この時間は中庭で練習してるのか」
 秦野も窓から中庭を覗き込んだ。黒い髪が風にやんわりとなびく。絹みたいな艶を帯びたその髪が、太陽の光をまとっていた。
 その姿に、なぜか見入ってしまう。
「秦野も、なんも書かないで出したんだな」
「……ああ、うん」
 秦野は茶封筒を見つめ、曖昧に返した。
 妙な沈黙のあいだに、クラリネットのソロパートが、やんわりと流れこんできた。
「ってか、黒川ってA特だったんだね」
 伸びやかなメロディに乗って、秦野は言った。
「これでも、めっちゃ勉強してんの。俺」
「へえ、意外」
「笑ってる?」
「な、なにっ?」
 秦野は両手で頬を隠す。
「いま、少し笑ったよね?」
「え?」唇をムッと引き結んで俺を睨みつける。「笑ってないけど」
「いーや、ぜったい笑ってた! 俺、見たもんねー!」
 いまにも殴ってきそうな秦野から逃げるように駆け出した。
「秦野の笑ってる顔、見たもんねー!」
「あ、ちょ! 笑ってないって! ってか廊下を走るな!」
「これはスキップですぅ!」
 吹奏楽部のマーチが響く放課後の廊下で、クラスメイトとこんなふうに騒ぐなんて初めてだった。
 窓から挿し込む太陽の光も、春の匂いも、軽快なこのマーチも。笑ったかと思えばむくれて、すぐに睨んでくる秦野の表情も。そのどれもが、あっけないほど簡単に、俺の気分を軽くした。

 秦野とは校門で別れ、いつもより早くポポールに着いた。カウンターのなかから、時短社員の白鳥さんが「早くないっ?」と声を飛ばしてくる。それに適当に返しながら、喫煙室の先にあるバックルームへ引っ込んだ。出勤まではまだ一時間もある。デスクに腰を下ろして大きく伸びをすると、カーテンで仕切られた更衣室と合わせても四畳ほどしかない狭い空間では、伸ばした腕がすぐ壁にぶつかった。
 ふと壁に掛けられた透明のウォールポケットに目がいった。それは、一人ひとりの場所が割り振られていて、ボールペンやメモ帳、社販用のカード、名札などが入っている。なんの気なしに『秦野』と印字されたラベルを探した。中身は、使い古されたボールペンが二本とメモ帳、名札。ボールペンが何本も突っ込まれ、なぜか大量のレシートまで入っている隣の内田くんのポケットとは対照的だった。
 視線を逸らした先に、自分のポケットがあった。リングで綴じられたメモ帳が目に留まる。なんとなく引き抜いて、親指でぱらぱらとめくる。最初のころは、手順を確かめるためによく開いていたが、今ではもう使うこともなく、ずっと入れたままだった。
 何も書かれていないページを見つけた。親指で紙の端を押さえる。一枚、破った。ポケットからボールペンも取る。
 これはあいつが中途半端に話しかけてきたせいだ、笑ったせいだ、などと自分に言い聞かせて、ペンを走らせた。

 秦野へ
 お疲れ!
 週末にかけて忙しくなるけど、無理すんなよ!

 書いた紙を半分に折った。でももう一度開く。読み返す。さすがに気持ち悪いか? けれどたった二行だ。重たい内容でもない。
 学校では話してくれない。でも、ポポールなら話してくれる。
 もう少し秦野と話してみたい。
 迷った末に、もう一度半分に折って、秦野のポケットへ押し込んだ。