未完成なクレバーたち

 マンションを出るころには、垂れ込めていた雲の隙間から、わずかに太陽が覗いていた。雨に蒸されたアスファルトの匂いに包まれながら、南文京駅へ向かう。俺はこの、二日酔いのような気だるさが、街のいたるところに残っている土曜日の朝が好きだった。
 南文京駅からメトロで新宿駅へ。新宿駅からは私鉄快速に乗る。連なっていた高層ビルやタワーマンション群は、川を渡ってしばらくすると、ぱったり姿を消した。視界を遮るもののない空の下に、見飽きた街並みがひろがっている。それを見るたび、いつも息が詰まるような気分になった。どこまで空がひろくても、自分の前だけは塞がれている気がしていた。
 でも、いまは違う。
 未来を望んでもいい。自分に期待してもいい。ぐつぐつと昂る気持ちを、ゆっくり息をはいて落ち着かせた。
 窓の外では、いつのまにか青空が広がっていた。差し込む日差しに背中が温まる。いつのまにか車両には俺ひとりしかいない。
 ポケットの中で、合鍵についた金閣寺のキーホルダーに指先が触れた。家を出るとき、「待ってるね」と言ってくれた秦野の顔が浮かぶ。
 「力を貸してくれ」なんて、らしくないことを思いながら、俺はキーホルダーごと合鍵を強く握りしめた。
「ただいま」
 いつものように靴を脱ごうとしたとき、違和感を感じた。日中でも薄暗い廊下が明るい。居間に繋がるドアのガラス部分から、わずかに光がもれていた。
 居間のカーテンが開いている?
 秦野の家を出る前に、「話がある」と母親へメッセージを残した。ただ、完全夜型の母親が午前中に起きているとは考えにくく、昼過ぎまで待つつもりだった。
 ドアを開けると、ダイニングで煙草を吸っている母親と目があった。
「おかえり」そう言いながら、短くなった煙草を灰皿へ押し付けた。「しばらく家を空けて朝帰りなんて、ずいぶん舐めてるじゃない」
 俺は無言のまま母親の正面に腰を下ろした。
「話がある」
「……めずらし。旭から話しかけてくるの」
 母親には目を向けず、灰皿に転がる煙草をじっと見つめる。
「俺、高校を卒業したらここを出るから」
「そう」
 思いの外あっさり返された。ブンナンを受験すると言ったときは、願書を出す直前まで揉めたというのに。
 母親は頬杖をつきながら、白い光が滲む窓に目をやった。俺の言葉に、なにを思ったのか、その横顔からはわからない。
 だが俺は、肩透かしを食らった気分だった。燻ったまま吐き出せなかった憤りが、血管のなかを這いずり回る。
 もう少し具体的に言わないと、この人には伝わらない。
「アンタが嫌がってた」
 喉の奥から低い声が出た。母親がちらりとこちらを見る。
「大学に行く」
「……はぁっ? 大学ぅ?」
 母親はこれでもかというほど、目を大きく見開いていた。
「なんで旭が大学に行くの? 出てくのは仕方ないことだとしても、大学なんて行く必要ないでしょ」
「俺が勉強することを、どうしてそんなに嫌がる?」
 そういえばブンナンを選んだときも、母親が最後まで引っかかっていたのは、家から遠いことではなく「進学校」という部分だった。
「……あの人を思い出すからよ」
「あの人?」
 母親の唇が、かすかに歪む。
「話してなかったっけ」母親は、他人事みたいに首を傾げた。「旭の父親のこと」
 父親。この家にいちばん不釣り合いな言葉だ。
 母親は、思わず息を呑んだ俺を一瞥すると、新しい煙草に火をつけた。天井に向かって白い息を吐く。もやのかかった天井に、若い頃の自分が映っているとでも言わんばかりに、母親は話し始めた。
「旭の父親はねぇ、最初はただの客だった。店に来るたび私を指名して、酒に酔っても下品な冗談ひとつ言わない男だったわ」
 自分を選んでくれることや、言葉の端々に感じる余裕が、その頃の母親には眩しかったようだ。
 客とキャストの関係を越えるのも、自然な流れだった。けれど男には、妻も子どももいた。母親がそれを知ったのは、すべてが引き返せなくなったあとだった。
 そのころにはもう、腹の中に俺がいたのだ。
「責任のつもりだったんでしょうね。養育費だけは払ってきた。弁護士だもん、うまくやられたわ」
 母親は、煙草を咥えたまま鼻で笑った。灰皿を見つめる目が据わっている。
「でも、旭がブンナンに入ったから断ってやったの。旭は特待生だから、あんたの金なんかいらないって」
 いま思えば、着る服には困らなかった。見栄っ張りの母親のことだ、見た目だけは気を使っていたのかもしれない。外から見れば、うちは福祉が介入するほど壊れた家庭ではなかった。
 修学旅行に行けたのも、そいつの金があったからだった(高校は、バイト代もあてにされたけれど)。もらえる金は最後までもらえばよかったのに、と思った。そのいっぽうで、俺が同じ立場でも、きっと願い下げしていた。
 プライドが許さない。親子だからか、その気持ちだけは、なんとなく理解できてしまった。
「旭も一度だけ会ったことあるわよ。たしか、旭が小六のとき?」
「小六……」テーブルの端にある煙草の箱が目に入る。「その人、煙草は吸ってた?」
「吸わなかったね、まったく」
 その言葉で、記憶がひとつに繋がった。 煙草を握りしめた俺の手を、そっと掴んで止めた人。母親の隣には不釣り合いな、仕立てのよさそうなスーツ姿。あれが、父親だったのか。
 だがそれ以上の感情はわかなかった。
「旭の頭がいいことは知ってた。どんどんあの人に似るのが怖かった。旭まで、私から離れるのかって。だから進学校なんて行ってほしくなかったし、なんならもう勉強なんてしてほしくなかった」
 母親の弱音らしい弱音は初めて聞いた。男にだらしないことすら強い自負と自信のあった人間のそれとは思えなかった。
 母親は、年相応な目尻の皺を、より一層深くして続ける。
「父親のあとを追うの?」
 言っている意味が、最初はわからなかった。だが、母親の縋るような視線に、嫌でも理解した。この人は、俺の向こう側に、いまもあの人の影を見ている。むしろ、それしか見ていない。
「チャンスがあるなら無駄にしたくないだけ。父親のあとを追っているつもりはない。俺とそいつを勝手に重ねんな」
 幼いころから積もっていた怒りも、自分を見てもらえなかった悲しさも、全部、自分のせいにしなくてよかったのだ。母親は最初から俺を見ていなかったのだから、なにを言ったところで届くわけがない。この人に怒り続けることが、急に虚しくなった。
 母親がじっと俺を見つめる。怯えとためらいを滲ませたような瞳が、俺を映しながら揺れていた。動じない俺に耐えかねたのか、母親は煙草を灰皿に押しつけた。すぐにライターへ手を伸ばす。けれど、指先で弄ぶばかりで、火をつける様子はない。
「お金は少しある」
 聞き間違えたかと思った。
「あんたの父親から振り込まれたお金が、そのまま残ってる。断ったのに、それから一年間は振り込まれてたの。まあ、あると言っても、その分しかないけど」
「金がないって言いながら、バイト代をせびってきたのは嘘だったのか?」
「ああもう。これ以上惨めにさせないでよ。お金なんてあったら、旭はここから出てくでしょう? それが嫌だったの」
 そんな理由で、金がないと言い続けていたのか。
「バイト代も全部使ったわけじゃないから……それもあんたに返す。だからもう、大学でもなんでも、好きにして」
「なんで急にそんなこと言うんだよ」
 いっそ、最後まで俺を突き放してくれたほうがよかった。俺のことなんて見ていなかったくせに、金を返すとか好きにしていいとか、いまになって母親面をしないでほしい。
 母親は咥えたままの煙草にやっと火をつけた。
「あのころは、誰にも頼れなくて大変だった。それこそ文字通り、赤ん坊だったあんたと二人で死のうと思った。でも……そうね。私の生きる意味を、あんたがくれたのよ。まあ、それからはこの通りだけど」
 窓のほうへ流れる紫煙を目で追って、力なく笑う。
「どうして、うまくいかないのかなぁ」
 俺も母親と同じようにそれを目で追った。煙草の匂いは大嫌いだったはずなのに、吸い込めばどこか懐かく、胸が締め付けられるような切なさがこみ上げた。
 それでも失った時間は戻らない。同情はするけれど、共感なんて皆無だ。母親の気持ちが偽物だとは思わない。けれど、受け取るには遅すぎた。
「もう、あんたの言いなりにはならない。今日はそれだけ言いにきた」
 母親は窓へ視線を向けたまま、「そう」と言った。最後まで俺を見ることはなかった。
 
 「今から戻る」と秦野へメッセージを送ると、返事はすぐに返ってきた。午前九時半を
 過ぎて飛び乗った電車は、都心へ向かう人で混み合っていた。南文京駅の改札を抜け、マンションまでの道を全速力で駆ける。
 ポケットから鍵を取り出すと、キーホルダーの鈴がチャリンと鳴った。切れた息を整えながら鍵を回す。
「黒川っ!」
 ドアを開けた瞬間、視界に秦野が飛び込んできた。
「おかえり黒川!」
「た、ただいま」まさかここに秦野がいるとは思わず、ドアノブを掴んだ手が止まる。「どうしてここに?」
「そろそろかなって思って、玄関で待ってたんだ」
 なにか良いことでもあったみたいにニコニコしている。戸惑いながら靴を脱いでいると、奥のほうから甘さと酸味がまざったような匂いがした。背すじを伸ばし、秦野の後ろを覗いた。
「昨日の残ったチキンライスでおにぎりを作ったんだ。黒川、なにも食べないで出ていったでしょ? お腹空いてるかなって思ったから」
 秦野は俺の視線をなぞるように振り返る。たしかに朝からなにも食べていなかったが、空腹を感じる余裕なんてなかった。秦野にそう言われて、急に腹が減ってきた。
 飯を用意してもらうなんて初めてだった。俺の帰りを待ちながらキッチンでおにぎりを握る秦野を想像すると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
 大切にされている。そう思ってもいいのだろうか。
 だから、秦野にはちゃんと伝えたい。母親と会って、なにを話してきたのかを。
「母親と話してきた。ケリはついたと思う」
「そっか」
「俺のいままでとこれからの話。秦野、聞いてくれる?」
 俺がそう言うと、秦野は俺の顔を見つめ、微笑みながら「もちろん」とうなづいた。
 ローテーブルを挟んで、俺はテレビ側、秦野はベッド側に腰を下ろした。座る位置は、なんとなく決まっていた。何から話すべきか迷っているあいだも、秦野は静かに俺を待ってくれた。
「お前に『帰りたくないなら、しばらくうちに泊まれば』って言ってもらえて、マジで助かった。しかも、後ろめたくならないように、口実まで作ってくれて」
「口実?」
 秦野が聞き返す。
「飯を作るなら、泊まっていいっていう」
「だってそれは僕の」
 俺は首を振りながら秦野の言葉を制した。
「だから俺は、逃げてるだけじゃないって自分に言い聞かせられた。そう思えたから、いままでお前と一緒にいられた」
 吐く息が熱くなる。こみ上げる衝動に、体の内側から引き裂かれそうな気分だ。
 じわじわ膨れ上がる緊張が、顔から頭のなかまで、真っ赤に染めあげる。
「気がつけば、お前のことが」
 秦野をまっすぐ見つめる。胸を叩く鼓動が、怖いくらい心地いい。
「好きになっていた」
 そう告げた唇は、熱を帯びて腫れぼったい感じがした。赤い余韻がどくどくと全身を巡る。
「でも、これが本当に好きってことなのか、自分でもわからなかった。お前の優しさにしがみついてるだけなんじゃないかって思ってた。だから、離れるべきだと思ったんだ」
 そんな俺を、秦野は好きだと言ってくれた。
「でも俺は、これからも秦野と一緒にいたい。それだけは譲れないから、自分の問題と向き合えたんだ」
 そのあいだ、秦野はじっと俺を見ていた。秦野は、はっと我に返ったように瞼を伏せ、頬に長いまつげの影を落とした。
「問題……解決して、よかったね」
 秦野の唇は、なめらかな弓のかたちを描いた。南東の窓からこぼれ落ちた陽の光が、笑みが溜まる口角をやんわりと照らす。
「だから、これからも一緒にいていい?」
 俺がもう一度聞くと、秦野はテーブルに身を乗り出した。
「もちろんだよ!」
 ほっとしたように笑ったあと、秦野は急に姿勢を正した。
「僕からもひとつ、いいかな?」
 秦野は後ろを振り返り、カラーボックスから茶封筒を取り出した。
「それは」
 見覚えのある封筒だ。
「黒川と一緒に呼ばれたとき、佐藤先生から渡されたやつ」
 秦野は封筒のなかから資料を取り出して、テーブルに並べた。
「スカラシップ制度のある大学の一覧表。黒川が帰ってくるのを待ってるあいだ、僕もちょっと考えてたんだ」
 秦野は下唇をちりちりと噛みながら、資料に目を落としている。
「黒川が自分の問題に向き合うって言ってたから、僕も……自分のことを考えてた。親戚のせいにして、自分の未来から目をそむけていたなって」
「大学で勉強してみたいって言ってたもんな」
 秦野はうなづいた。
「実は俺も進学しようか悩んでる」
「えっ、黒川も?」
「ああ」
 秦野の目が、ぱっと明るくなる。
「なんだか僕たち似たもの同士だね」
 似た者同士か。共通点が多いとは思っていたけれど、そう言われると、妙に腑に落ちた。
 そのとき、腹の奥が小さく鳴った。
「では、似たもの同士の秦野くん! いま俺がなにを考えているかわかりますか?」
「え、なに突然」
 言いながらも秦野は俺の顔をまじまじ見つめながら、小さく唸る。
「お腹すいた、とか?」
「セーカイ! 秦野が作ってくれたおにぎりはやく食べたい!」
 俺がそう言うと、秦野は嬉しそうに笑った。
 窓から差し込む日差しが、弾けるように部屋いっぱいにひろがった。