未完成なクレバーたち

「……かわ。おーい黒川」
 体が揺れている。遠くのほうから名前も呼ばれた気がして、重たい瞼をどうにか持ち上げた。
「はっ?」
 ぼんやりと秦野の顔が見えて、反射的に身を引いた。手をついた場所が悪く、布団とともにずるりと滑り落ちる。
「うわっ」バランスを崩して、どん、と体を床に打ちつけた。「いってぇ!」
「大丈夫?」
 背中をさすりながら起き上がる俺に、秦野が上から手を差し伸べる。俺は秦野の手は取らずに、ベッドを指さした。
「俺、そこに?」
 それから部屋を見渡した。カーテンから滲む光は曖昧で、部屋の空気は鈍色に染まっている。
「ていうか、いま何時?」
 座り込んだまま尋ねた。頭の奥はまだ眠ったままで、厚い雲を詰め込まれたように重たい。
 秦野が枕元のスマホに手を伸ばす。「五時七分だよ」
「五時か」
「びっくりしたよ。隣に黒川がいるんだもん。それで、バッチリ目が覚めちゃった」
 秦野はベッドの端に座り直した。たしかに、いつものほにゃほにゃした感じはまったくない。
「でも、どうして僕のベッドで寝てたの?」
 秦野は少し首を傾げ、不思議そうに俺を見る。
 目があった瞬間、頭の奥にあった眠気がサッと引いた。まっすぐな視線に、昨晩の記憶が蘇る。
 お前に好きだと言いながら、そのまま寝落ちした。なんて、とてもじゃないけど言えない。それ以前に、いまの俺は、秦野をまっすぐ見ることさえできない。
「……悪い。たぶん寝落ちした」
 視線を逸らし、言えたのはここまでだった。
「ふぅん。珍しいねぇ」
 秦野はそれだけ言うと、ベッドへ倒れ込んだ。視界の端で、布団がぱふっと波を打つ。
「二度寝しよっかなぁ」
 あくびまじりの甘い声に、鼓膜の奥がじんわりと熱を持つ。困ってくれたほうが、よかった。咎められたほうが、よかった。なのに秦野は俺を非難せず、ただ眠そうに目を伏せる。
 この家を出ると決めたはずなのに、決意が揺らぎそうだった。
「秦野、少し話があるんだ」
 なにをどう話すかなんて、考えていなかった。自分がどんな顔をしているのかも、わからなかった。起き上がった秦野の顔が強張ったのを見るに、相当真剣な表情をしていたのだと思う。
 秦野は静かにベッドから降りると俺の横に座った。俺は座り直して秦野と向きあう。
「俺、この部屋から出てくわ」
 努めて明るく、軽く、そしてはっきりと秦野へ伝えた。
「出てく……って、どうして」
「だってほら」いかにもそれらしい理由を探す。「いつまでも世話になるわけにはいかないだろ? それに、オムライスだけとはいえ、お前も料理できるようになったし」
「実家には帰れるの?」
「まあ……そのつもり」
 女の子は全部切ったのだから、あの家に帰るほかない。
「本当に?」
 秦野が近づいてきて、俺の顔を覗き込む。その瞳に、すべてをさらけ出したくなる。秦野は察しがいいから、下手なことは言えない。
 俺はお前を好きだから。大切にしたいから。
 下唇を噛み締めて、その言葉をぐっと呑み込んで。
「秦野には関係ないだろ?」
 努めて明るく、微笑みながら、そう言った。
「なにそれ」秦野の目から色が消える。「なんっだよ、それ」
 次の瞬間、胸ぐらを掴まれる。初めて会ったときよりも鋭い眼光が、俺を射抜いた。
「関係あるよ! 大アリだよ! 一緒に住んでたら、黒川がなにかごまかしてるのくらい、わかるんだから! それをいまさら関係ないだって? 勝手なこと言わないでよ! 一人で格好つけんな!」
「はた、の?」
 秦野に気圧され、声がうわずった。ぎりぎりと、スウェットの襟が絞られていく。
「僕はね! 黒川のこと、受験のときから知ってるんだから!」
「受験?」
「ブンナンの受験だよ! 三年前のッ!」
 三年前。そういわれても、秦野との出会いをすぐには思い出せなかった。
 ただ、受験の日が記録的大雪だったことは強烈に覚えている。南文京駅まで無事にたどり着けるか、それだけが心配だった。
 俺は乗り換えるために新宿駅で降りた。休日の新宿駅はただでさえ人でごった返しているのに、その日は高校入試が重なっていたせいか、制服姿の中学生も多かった。
「新宿駅の案内板で立ちすくんでいた僕たちに、声をかけてくれたのが黒川だったんだよ。覚えてる?」
 秦野は俺の胸元から手をほどいて当時を振り返る。
 案内図の前に、俺と同じ歳くらいの男子が立っていた。コートの下から黒いスラックスが見えて、こいつも受験生だと思った。小さな子どもが、その手にしがみついている。聞けば、駅員を呼ぼうにも、インフォメーションセンターに行こうにも、新宿駅が広すぎて迷ってしまったのだという。
「俺が子どもを連れていこうとしたけど、握った手を離そうとしなくて、ぜんっぜん動かなかったな。結局、二人をそのままにして、俺が駅員呼んできたんだっけ?」
 少し早めに家を出たから、時間に余裕はある。
 この雪でいつ電車が止まるかわからないのだけが気がかりだったが、同じ受験生なら、なおさら放ってはおけなかった。
「バッグからブンナンの受験票が見えたんだ。それに、あの頃から黒川は派手で、一度見たら忘れられないよ。これから受験だってのに、助けてくれてさぁ。声かけられたときは怖かったけど、ひとは見かけによらないんだな、って思った」
「派手ってなんだよ。……そういやあの子ども、駅員がなだめすかしても、お前からなかなか離れなかったよな。俺は先に行かせてもらったけど」
 行って行ってと、俺を急かしたそいつの顔は思い出せない。秦野だったと言われれば、そうなのかもしれない。
「試験、間に合ったんだな」
「ギリギリだったけどね。でも僕ひとりだったら遅刻してたかも」
 秦野はどこか遠くを見ながら微笑む。
「入学式のとき生徒代表の挨拶もしてたでしょ? 壇上で喋ってるのみたときびっくりしたよ。あ、あのときの人だって」
「ああ、あれねぇ」
 秦野から視線を逸らし、俺は天を仰いだ。入学式で生徒代表の挨拶をしたのは、入試の成績が一番だったから。たったそれだけのことなのに、あれがきっかけで、かなと知り合った。
 中学までの悪癖なんて、高校に入ればなくなると思っていた。場所が変わったくらいで、自分の中身まで変わるわけじゃない。希望なんて、がらくたも同然。そんなことを思い知らされた。
「このまえも、ポポールで僕のことを助けてくれて。黒川って見た目によらず、本当にいいやつだなって思ったんだ。だからっ!」
 秦野が俺の二の腕を掴み、上目で見つめる。身を退こうとしたら、さらに強い力で掴まれた。濁りもくすみもない黒い瞳が、まっすぐ俺を覗き込んでいる。
「僕は、黒川の力になりたいんだ!」
 ぞっとするような漆黒は、どこか熱を帯びていて、目を逸らせない。
「だって僕、そんな黒川のことが――好きだから!」
 秦野に掴まれたところが、じんじん痺れた。
 好きだから。
 その言葉が、生ぬるい霧雨のように降り注ぎ、頭の芯まで沁みていく。吐く息は甘く、吸う息はもっと甘かった。
 秦野は唇を噛み締め、俺の言葉を待っている。
「はた……」
 秦野へ伸ばしかけた両手を見て、我に返った。
 俺は、いまなにをしようとした?
 秦野の気持ちを受け取る資格なんて、俺にあるわけないだろ?
 俺はただ、実家からも未来からも逃げて、ここに居座っているだけ。秦野の優しさに縋って、秦野という存在に執着しているだけだ。
 こんな透明感のある瞳に、俺を映していいわけがない。
「秦野」と名前を呼んで、両手を二の腕から引き剥がす。「俺を、かいかぶりすぎだ」
「どこが?」秦野は食い下がる。「だって黒川は、受験のときも、この前だって、僕のこと助けてくれた」
「それは……」
「無視することだってできたのに、放っておかなかった。一度なら偶然かもしれないけれど、二度もだよ?」
「違う」
「それだけじゃないよ。最近は僕に『なに食べたい?』って聞いてくれたり、僕の好きなものを作ってくれたり」
 心臓のまわりが、嫌な熱を持ちはじめる。
「黒川が教えてくれたんだよ? 好きなものは好きって言っていい。甘えたいときは甘えていいって。だから僕は黒川に救われたんだ!」
「お前が思っているような人間じゃないんだよ俺は! 自分がこうなってしまったのは、母親のせいだって、言い寄ってくるやつらのせいだって、そう思うしかできない人間なんだよ!」
 そうやって誰かのせいにしていれば、俺がこんなふうになったのも、しかたないんだと開き直れる。そのくせ「性格が悪いことくらい分かっている」と、賢明なふりをする。わかっているだけ、まだましだとでも言うように。
 責任から逃げる癖も、ずる賢さも、すっかり体に染みついていた。
「わかってるよ!」何年も膿んだままの傷口がひらいてしまう。「いまの俺じゃダメなことくらい、わかってんだよ!」
 ひらいた傷口から、醜い感情がとめどなくあふれた。八つ当たりのように、秦野へぶつけてしまう。けれど胸の底では、開放感に似た安堵が広がっていた。
「なにも期待しない。なにも求めない。そう思って、ここまでやってきた。でも、お前と出会ってそれが崩れた。だから俺は、自分を責めることすらできなくて……」
 混乱していた。怒鳴ったせいで熱くなった頭のなかを、言葉にならない思考が空回りしている。しだいに視界まで揺れはじめて、俺は頭を抱えたまま項垂れた。
 秦野は静かに喋りはじめた。
「本当のことを言うとね、力になりたいなんて半分は建前で、もう半分は僕のエゴ。黒川に、僕が必要だって思ってほしかった。だって僕は……黒川が好きになっちゃったからね」
 俺は顔を上げた。秦野はバツが悪そうに笑っている。
「僕だってずるい部分はあるんだ。黒川だけじゃないよ」
 もしこれを、好きというのなら。身勝手で、不安定で、しぶというえに始末が悪い。
 秦野の思いも、それを受け取りたいと思う自分の気持ちも、どれだけ否定しても消えてはくれない。むしろ失いたくないという思いがつのるばかりだ。
 だが、秦野の隣にいたいのなら、このままではいられない。進路を決めることすら逃げている自分では駄目だ。自分の人生と、向き合わないといけない。
 腹をくくって、まっすぐ秦野を見る。
「やっぱ俺、一度家に帰るわ」
 秦野は、いよいよ意味がわからないといった表情を俺によこす。
「自分の問題と向き合ってくる。だから、その……返事は少し待っててほしい」
 なにか言いたげに口をもごもご動かした秦野は、はたしてなにも言わず、そっと目を閉じた。俺も同じように目を閉じる。
 秦野の顔が瞼の裏に滲んで、胸の奥に甘ったるい感情がひろがった。膿を吐き出したばかりの傷口には、新しいかさぶたができている。