未完成なクレバーたち

 秦野の部屋に戻るころには、窓の外の夕焼けがいっそう濃くなっていた。冷蔵庫から、使えそうな食材をシンクの横に並べていく。
「なにすればいい?」
 秦野が玉ねぎを手にしたまま訊いてきた。
「じゃあその玉ねぎの皮をむいてほしい」
 秦野に玉ねぎの皮の剥き方を教え、俺は朝炊いたご飯を電子レンジで温める。レンジの光に照らされながら、横目でこっそり秦野を見た。料理ができないとは言っていたけれど、玉ねぎの上下を切り落とし、皮を剥く手つきは、思ったより悪くはなかった。
「次は、みじんぎりな」
 秦野は、俺の言葉に顔を上げ、もう一度玉ねぎに視線を戻す。
「え……うん。え? 僕が?」
「大丈夫。ちゃーんと教えるから。しかも、かーんたんなやり方」
 少しふざけて言ってやると、秦野は「簡単なやり方ぁ?」と訝しげに目を細めた。いつもの秦野に戻った。こわばっていた口許からは、ほどよく力が抜けている。
 秦野に包丁を持たせ、玉ねぎを半分に切ってもらう。断面を下にしてまな板に置き、
「玉ねぎの繊維が放射状に入ってるの、わかる?」
 と指で繊維をなぞった。秦野は静かにうなづく。
「これにそって、包丁を入れていく。根本は少しだけ残して」
 俺は右手を包丁に見立て、目の前に浮かぶ透明な玉ねぎを放射状に切ってみせた。秦野は小さく開けた口から「ほーぉ」と空気を洩らすと、本物の玉ねぎに目を向け、ふたたび包丁を持つ手に力を込める。
 包丁の音が、しゃく……しゃくと空気を震わせる。秦野の手元をみていると、こっちまで息が詰まりそうで、気づけば唇を噛み締めていた。
「いれたよ?」
「そしたら、端から刻んでみて」
 まな板を叩く包丁の音は、最初こそぎこちなかったものの、しだいに迷いがなくなっていった。みじん切りされた玉ねぎが増えるにつれ、秦野の肩からも、ほどよく力が抜けていた。
「……これ、簡単かも」
「だろ? そっちもやってみ?」
 もう半分の玉ねぎを顎でしゃくる。
 秦野は少しためらったものの「うん、やってみる」と言った。
「うあーッ! 沁みるー!」
 切り終えた秦野は、目をぎゅっと瞑ったまま、天を仰いだ。ヒイヒイ声を上げ、目をしばたたかせる。いつも落ち着いている秦野が、感情をむきだしにして、玉ねぎの洗礼に悶えている。思わず吹き出してしまった。
「なに、笑ってるの?」
 秦野は目尻からぼろぼろと涙をこぼしながら、ほとんど目を開けられないまま蛇口に手を伸ばした。
「お前がぎゃあぎゃあ騒ぐなんて、珍しいからさ」
「はあ? 玉ねぎ切ったら誰でもこうなるでしょ」
「慣れたら平気になるぞ?」
 手を洗い終えた秦野にキッチンペーパーを渡す。秦野はそれで目許をぐっと押さえてから、そのまま洟《はな》をかんだ。
「ほんとに?」
 秦野が潤んだ目で、ふてくされたように俺を睨んでくる。負けん気を滲ませたその表情に、横隔膜がふたたび震えだす。さすがにここで笑ったら、もっと怒られそうだ。
「ああ。俺は平気だし?」
 だから俺は腹に力を入れて、どうにかそう返した。
「ふうん」
 秦野は訝しげに俺を見たあと、ずずっと洟をすすった。
「僕も初めて見たかも。黒川がそうやって笑うところ」秦野は微笑む。「いつもとは少し違ったというか……。だから、ちょっと嬉しかった」
 自分では、いつものように笑ったつもりだった。それを「違う」とか「嬉しかった」なんて言われると、どう返せばいいのかわからない。
 秦野のほうこそ、涙をこぼして騒いで、むきになっていたくせに。自分で刻んだ玉ねぎを前に、少し誇らしげだし。そんな顔を見せられたら、調子だって狂う。
「次は人参を切るぞ」
 まともに顔も見られないまま、手に取った人参を秦野へ押しつけた。
 秦野が切った人参の形はばらばらで、チキンライスを混ぜる手つきもおぼつかなかった。
 もっとも、卵だけは俺が焼いた。卵をのせているあいだに、秦野がローテーブルにスプーンを並べる。湯気の立つ皿を持ってテーブルへ移ると、秦野は力の抜けたような、達成感と安堵のまじった息を洩らした。
「できたね」
 秦野はスプーンを手にしたまま、しばらく皿を見下ろしていた。
「まあ、卵は俺が焼いたけどな」
「でも、玉ねぎと人参は僕が切ったよ!」
 少しむきになって言う秦野の顔は、どこか誇らしげだった。
「はいはい。いいからさっさと食えよ」
 そう促すと、秦野は小さくいただきますと言って、オムライスへスプーンを入れる。ひとくち食べて、すぐに目を丸くした。
「おいしい。おいしいよ! はやく黒川も食べてみてっ!」
 急かされるまま、卵の端を少し崩した。赤く染まったチキンライスのなかに、いつも自分が切るよりもひと回り大きい人参を見つけた。それをスプーンで掬いあげると、銀色のくぼみにぼんやり映った自分の顔は、ぞっとするほどやわらかく笑っていた。
 その顔を見た瞬間、ばらばらに転がっていた感情のすべてが、ひとつに繋がった。
 俺が笑っただけで秦野が嬉しそうにしていたことも、ここにいていい理由を求める浅ましさも。秦野の感情をむき出しにする姿も、誇らしげに笑う姿も。それを、もっと見ていたいと思うことも。
 いつか終わる時間だと分かっているのに、終わりを想像しただけで胸の内側がざらつくことも。その先に俺がいないことを、嫌だと思ってしまうことも。
 認めてしまうには危険な感情が、胸のなかでうずを巻いている。
「黒川?」秦野がスプーンをくわえたまま首をかしげる。「食べないの?」
 こっちの気など知らない顔で訊いてくる。
「……食うよ」
 そう答えて、掬った人参を口に放り込む。いつもより大きい人参は、少し硬かった。
 秦野の寝息が聞こえてきても、俺は眠れなかった。窓を叩く雨音は、夜が深くなるにつれて激しさを増していく。その音に煽られるように、悶々とした気持ちも膨れ上がっていった。
 無理やり目を閉じても、まぶたの裏に浮かぶのは、秦野の表情やしぐさだ。
 もし、この気持ちを、好き、と呼ぶのなら。
 かなや、これまで言い寄ってきた女子たちが口にしていたものと、同じだというのか?
 違う、と言い切りたかった。けれど、胸の奥で熱を帯びる昂りも、息が詰まるような切なさも、触れたくてたまらない愛しさも、好きという言葉へすんなり繋がっていく。
 そう思った途端、今まで軽く聞き流してきた彼女らの一言が、急に重たく感じた。
 それに、この気持ちを素直に認めるには、俺はあまりにも汚れている。胸のなかにひろがる温もりさえもすぐ濁ってしまうほど、女の子たちを傷つけてきたのだ。
 腹の底に、昏い憤りがうごめく。罪悪感とまざりあって、胃の奥がぎゅっと縮んだ。
「旭が自分から、特定の誰かにこだわるの意外だね。わたし、知ってるんだから、秦野紬生のことッ!」
 ふいに、かなの言葉を思い出した。その名前に引き寄せられるように、隣のベッドへ意識が向く。
「う、ぅ……」
 という甘い唸り声にあわせて、隣のベッドがもぞもぞ動いた。俺は息をひそめて、全神経を張り詰める。だが、それ以上動くことはなく、規則正しい寝息がふたたび部屋に響いた。
 音を立てないようにそっと起き上がり、ベッドを覗いた。細心の注意をはらい、秦野が眠るベッドの端にゆっくり腰を下ろした。
 夜の光を吸い上げた雨粒は、秦野の頬に、淡い光を点々と落としている。そっと髪の毛を払い、頬に触れると、少しひんやりしていた。冷たい手のひらとは反対に、頭の奥がじんわり熱を持つ。
「なあ、秦野」
 口が勝手に動いて、秦野の名前を呼んだ。秦野はぴくりともしない。それにほっとしているのか、がっかりしているのか、自分でもよくわからない。
「どうしよう……。俺、お前のことが好きになったかもしんねぇ」
 好きだと気づいたところで、どうするつもりもなかった。この気持ちの中に、秦野がくれた居場所への執着が混ざっていないとは、言い切れなかった。
 実家や未来から逃げるために、縋っているだけ。自覚したいま、ここには住めない。
 頭がずしんと重くなって、そのまま秦野の隣へ突っ伏した。秦野の寝息が、肌にかかるほど近かった。息を吸うと、数週間ぶりの秦野の匂いがした。嫌いになれないどころか、好きな香りだった。
 もうすこしだけ、このまま。
 もう少しだけ、と何度も自分に言い聞かせる。
 隣からほんのり伝わる体温に、体の力がふっと抜け、頭のなかの熱も引いた。まどろみが、遠くからこちらへ近づいてくる。起きないと、布団に戻ろないと。そう思うのに力が入らず、意識は少しずつ暗がりへ沈んでいく。
 秦野がくれた居場所に甘えるのは、もう終わりにしよう。不規則な雨音に包まれ、それだけは強く思った。