未完成なクレバーたち

   ◇

 帰りのSHRが終わると、俺は秦野、小林、土屋、鈴木に軽く会釈をして、ひとあし先に教室を出た。このあと俺はバイトだが、秦野は土屋たちと遊びに行くらしい。
 秦野の家に上がり込んでから一週間がすぎた。新しい生活リズムにも慣れて、冷蔵庫には、レンジで温めれば食べられるおかずを何品かストックできるようになった。
 教室での過ごし方も少しずつ変わった。土屋は俺のことを「アサピ」と呼び、小林はそれを笑って、鈴木が呆れたようにツッコミを入れる。そうしているうちに、それまで遠巻きに俺を見ていたクラスメイトまで、軽く挨拶をしてくるようになった。秦野たちと普通に話している俺を見て、警戒が緩んだのだろう。些細なきっかけで、俺の環境は大きく変わり、教室に俺の居場所ができ、これが当たり前の日常になっていた。
 そのせいか、廊下の景色まで違って見えた。窓の外に見える校舎の外壁は、こんなにやわらかなクリーム色をしているし、走り去っていく生徒が巻き起こす風はなめらかだ。廊下で語り合う声は瑞々しく、放課後の教室では、勉強会をしているグループのあいだに、凛とした空気が漂っていた。俺には関係ないし、意味のないものだと思っていた。けれど、見ようとしていなかっただけなのかもしれない。春の風にあおられた花びらが視界をよぎるみたいに、次々と目に飛び込んできた。
 知らなかった。春がこんなにも色鮮やかで、胸の奥を静かに揺らすものだったなんて。
 だから、花びらを蹴散らすような足音が後ろから迫ってきているなんて、気づいていなかった。
「あさひっ!」
 昇降口に辿り着くと、ダンダン、と俺の後ろで足音が止まった。
 ゆっくり振り返ると、棘のようなまつ毛の奥にある震えた瞳と目があった。俺の名前を呼ぶその声に、胸の底が抜け落ちて、感情がばらばらと消えていく。
「……なんでメッセージも無視するの?」
 走ってきたせいか、それは声というよりも、ほぼかすれた息の音だった。
 刺すような視線を全身に感じた。あたりを見回すと、靴を履き替えながら談笑していたであろう生徒たちが、口許に手を当てながらこちらを見ていた。
 秦野たちだって、こっちへ向かってくる。
 俺はかなの腕を取った。
「別のところに行こ」
「お昼だって!」
 ぶん、と手を振りほどかれる。
「お昼だって、友達と食べるって言ったまま。かなのこと呼ぶって言ってたのに、一度も呼んでくれない!」
 かなの顔は少しずつ強張っていく。
「なのに、旭が暇なときだけ急に呼ぶじゃん!」
 喉の奥が詰まる。
「都合のいいときだけ呼ばないでよッ!」
 かなの言う通りだった。
 昼休みは、かなに見つかる前に屋上へ行き、メッセージに既読をつけたまま返さなかった。
 忘れていたわけじゃない。でも、秦野と一緒にいるほうが心地よくなってしまい、見て見ぬふりをしていた。
 かなに好きだと言われた日のことは、覚えている。高一の夏だった。俺はそのとき、「付き合う気はないし、好きにもならない」と言った。誰かの本命になるつもりなんて、最初からなかった。
「好きにならなくてもいいから、旭の一番近くにいたい」
 かなはそう言った。かながそれでいいなら、俺としてはちょうどよかった。互いの利害が一致している、とばかり思っていた。
 けれど、目の前のかなは、そうは見えなかった。
 いつもならここで、その場しのぎの謝罪を口にする。けれど、いまはもう、かなをなだめるだけでは済まない気がした。かなは、俺の空白を埋めるためにいるわけじゃない。そんな当たり前のことに、いまさら気づいた。俺は、自分の寂しさばかり見て、相手の気持ちを見ようとしてこなかった。
「もういい。もう、終わりにする!」
 かなの目は赤く、大きく張った声もわずかに震えていた。
「あと、」形のいいアーモンドアイが、ぐっと吊り上がる。「旭が自分から、特定の誰かにこだわるの意外だね。わたし、知ってるんだから、秦野紬生のことッ!」
 かなは吐き捨てるようにそう言うと、わざとらしく体を捻って再び校舎の奥へ戻っていった。その後ろ姿が人混みに紛れていくのを、しばらく見ていた。
 別れる、終わりにする、嫌い。幾度となく言われた彼女たちの悲壮にみちた言葉は、いつだって、吐く息と一緒に捨ててしまえた。ひとりが終わっても、また別の誰かが俺を求めた。俺はそれを拒まず、同じことを続けてきた。
 いくら続けたって、まったく満たされないというのに。ずるずると、誰も幸せにならない方法を選んできた。
 そうか、俺は――寂しかったんだ。
 かな以外にも、まだ曖昧に繋がったままの相手が、ほかにも何人かいる。簡単には片付かないだろう。揉めるかもしれないし、恨まれるかもしれない。
 それでも、自分の寂しさを誰かで埋めるような真似は、もう終わりだ。
 かなの姿はもう見えない。
 彼女たちを傷つけたという事実だけが、胸の底に沈殿している。
 
   ◇
 
 枕元のスマホが鳴って目が覚めた。朝五時。眠気で重たい頭をどうにか起こし、ベッドを覗き込んだ。カーテンの隙間から洩れる朝の光が、眠っている秦野の頬をそっと照らしていた。
 起こさないように部屋を出て、静かにドアを閉める。歯を磨いて顔を洗い、コップ一杯の水を飲む。冷たい水が喉を通るたび、ぼんやりしていた頭の奥が少しずつ澄んでいき、目が覚めた。
 昨日買っておいた材料を冷蔵庫から取り出す。俺が来たときにはなかった三合炊き炊飯器や秦野の弁当箱も、この部屋の生活の一部としてすでに馴染んでいた。
 まず米を炊く。ほうれん草をさっと茹で、めんつゆと砂糖で和える。砂糖をたっぷり入れて卵焼きを作る。ピーマンと細切りにした豚肉をオイスターソースで炒める。洗ったミニトマトと、かぼちゃサラダは弁当に詰めて、昨日作っておいたハンバーグをレンジで温める。魚焼きグリルには朝ごはんに出す鮭が二尾、皮がほんのり焦げて焼き上がった。
 炊飯器の音が鳴った。蓋を開けると天井まで湯気がたちのぼる。その湯気が廊下いっぱいにひろがると、香ばしいオイスターソースの香りに、優しい白米の香りが重なった。
 炊き立てのご飯を弁当によそい、海苔を乗せて醤油をかける。ほかのおかずは冷めてから詰めることにして、味噌汁を作ることにした。
 すべてがいままでの二倍。たいしたメニューではないけれど、食べて欲しい、喜んで欲しいと思って作る料理は、これまで以上に気合が入った。
 ひととおり完成して時計を見ると、六時半を回ったところだった。いつも通りなら、そろそろ……。
「いい匂いするぅ」
 ガチャンとドアが開き、目を擦りながら、すり足でずるずると秦野があらわれた。朝の弱い秦野は、それでも、この香りに誘われて、自ら起きるようになった。
 朝の秦野は甘い。ぼんやりしていて、いつもより警戒心が薄い。昼間なら絶対見せない無防備な姿を、毎朝独り占めしている気分だった。
「きょうはなにぃ?」
「見る?」
 秦野をキッチンへ手招きし、冷ましている途中の弁当を見せた。ゆっくり覗き込んだ秦野の瞼が、次の瞬間わあっと開く。これも、いつものことだった。
「きょうもおいしそうだねぇ」
 眉毛を下げ、へにょりと笑う秦野に、「朝ごはん食べる?」と訊く。
「うん。たべるー」
 秦野はそう言うと、ひらひらと手を振りながらトイレへ向かった。その後ろ姿を見つめながら思う。
 あの日、かなが去ったあとも昇降口で立ち尽くしていると、入れ違うように秦野たちが姿を見せた。秦野の顔を見て、どうしてだか、「女遊びみたいなことはやめる」と口にしていた。
 土屋は目を丸くし、鈴木は冗談かどうか推し量るように俺を見た。三人とも、急にどうしたのかわからないという顔をしていたが、しかし、秦野だけは違った。秦野は短く「そっか」とだけ言い、ほんの少し目許をゆるめた。いままで見たなかで、いちばんやわらかい顔だった。
 本当は分かっている。ここにいるだけでは、結局なにも変わらないと。かなのことも、ほかの女の子たちのことも終わらせた。けれど、それで全部が綺麗に片づいたわけではない。進路や実家のことは、後回しにしたままだ。
 飯を作るのは秦野のためでもあった。けれど、それ以上に、ここにいていい理由がほしいのは自分のほうだった。俺の作った料理を秦野が嬉しそうに食べるたび、それを思い知らされた。
 それでも、秦野が喜ぶなら、ただ逃げているだけではないと思えた。役に立っているのだと自分に言い聞かせることで、なにも選べないままの自分を、どうにか許すことができた。
 ルームシェアを始めて一週間。そんな嬉しさと後ろめたさが胸の中で何度もぶつかっていた。
 昼休み、バッグを開けたとたん、「あっ」と声が洩れた。弁当袋が二つ、目に入った。秦野に渡さず、そのまま持ってきてしまっていた。
 秦野のほうを見る。秦野はかがみながら、バッグのなかを漁っていた。入っていないことに気づいたのか、はっと顔を上げ、不安げな表情を俺に向けてきた。
 助けを求めるような視線に、胸の奥がきゅっと甘く疼いた。ここ最近の秦野は、表情が豊かになったと思う。百面相みたいにころころ変わるのはあいかわらずだが、弱いところも見せてくるようになった。
 俺はバッグのなかから袋を二つ取り出して、「ここにあるぞ」と口を動かして伝えた。それから、天井に向かって指をさしてみせると、秦野の口許がふっとゆるんだ。
「ごめん渡すの忘れてた」
 いつも座っているベンチに並んで腰を下ろしながら俺は言った。
「忘れたかと思って焦った」
 秦野は弁当を受け取ると、両手で抱え込み、はああ、と安心したようなため息をついた。
 埃っぽい春の香りが、数日の雨を経て湿気を帯び、新緑の香りへと変わっていた。もうすぐ四月が終わる。
「今日はハンバーグのり弁だもんね!」
 秦野が声を弾ませて蓋を開けると、磯と醤油の香りがふわりと立った。
 腹に放り込めるものなら、弁当の中身はなんだっていい。いままではそうだった。秦野の分も作るようになってから、俺ひとりなら雑に済ませていたものに、少しずつ手をかけるようになった。秦野に喜んでほしいと思いながら、今日だって弁当を詰めた。
 美味しそうに弁当を食べる秦野を見ていたら、
「おーい! 秦野っちー! アサピー!」
 屋上の入口に姿を見せた土屋が、俺らに向かって大きく手を振った。その後ろでは小林が微笑み、さらに鈴木の姿もあった。
「僕たちも、一緒に食べていい?」
 小林が言う。
「うん! いい、よね?」
 秦野が俺を見て、小首をかしげる。
 秦野がそうしたいと言うのなら、俺が断る理由はないし、土屋たちがまじって賑やかになるのも、案外、好きだった。
「ああ」と答えて、俺は弁当の蓋を開けた。
「えッ! 待って!」土屋が声をあげる。「もしかして、二人の弁当って同じ?」
 土屋に続いて小林と鈴木も、俺と秦野の弁当を交互に見る。
「黒川が作ってくれたんだ」
 その言葉に、俺は思わず秦野を見た。秦野は気にする様子もなく、ミニトマトを口に放り込んだ。
 土屋の視線とひとさし指が、弁当箱から俺に向かってゆっくりと持ち上がる。
「これを? 作った? アサピが?」
「うん。毎日作ってくれるんだ」
 秦野は咀嚼しながら、しれっと答える。
「毎日? えぇと、それって」
 小林も言葉を探すように訊いてきた。鈴木に関しては見なくても分かる、きっと俺を睨んでいるはずだ。
「いや、あのな?」
 勢いで言ったものの、なんて話せばいい?
「一緒に住んで、毎朝弁当を作っているんだ」とでも言うのか? そんなの無理だろ。だいたい、毎朝弁当を作っているなんて、変な誤解を生む。
「てかお前らも、さっさと食べろ」
 苦し紛れに言い放つと、土屋と小林は顔を見あわせた。
「アサピ、いま話逸らしたよね? だめだよちゃんと訊かせて!」
 そう言いながら、土屋は俺の隣に座ってパンの袋を破る。
「るせぇ」
 身をよじって土屋から離れようとしたとき、ここまで黙っていた鈴木が口を開いた。
「お前らって、一緒に住んでんの?」
「え」核心を突かれ、はっと息を呑む。「……なんで、そう思った?」
「だって。最近一緒に登校してるし、黒川が弁当を作ってるっていうし」
 と、さして興味もなさそうに言うと、秦野の前に腰を下ろした。
 さらりと言い当てられてしまい、条件反射のように言い訳を探しはじめた。しかしどれも、しっくりこない。そのとき、隣で、弁当箱の蓋がぱちんと閉まった。嫌な予感がして、秦野を見る。
「そうだよ。僕たち一緒に住んでる」
 そして唇についた海苔を舐めてから、「ね?」と俺に同意を求めた。
 反応に困った俺の横では、土屋は口許に手を当て「ひゃっ」と悲鳴のような声をあげ、正面に座る小林も、眼鏡の奥で目を丸くしている。いっぽう鈴木だけは、自分の予想が当たったせいか、「ふん」と鼻で笑っていた。
 いまさら違うとも言えない。腹をくくるしかなさそうだ。
「ああ、まあ」
 少しでも面倒くさいのが伝わるように、うなづきながら言った。
「えっ? ガチなん?」
「んまぁ、期間限定だけど」
「どういう流れでそうなったの?」
 小林が訊く。
「黒川の家出の手伝い?」
 と、秦野は笑った。
「おい秦野っ!」
「えぇーッ! それ、すごくない?」
「これのどこがすごいんだよ。床に布団敷いて寝てるだけだっつの」
「だって秦野っちって、他人と同じ部屋じゃ寝られないんだよ?」
「は、嘘だろ」
「本当だよ」と、小林が続ける。「修学旅行のときの秦野くん、ほぼ寝てなかったよね?」
「うん。最終日はさすがに疲れたせいか、少しだけ寝られたど」
「え、じゃあ、まさか。実は、寝てなかった?」
「ううん」秦野はやんわり首を振った。「普通に寝てるよ。それに、もし寝られないのなら、泊まればって提案してないし」
「だからね!」土屋は歯型のついたパンの断面を俺に向けて言う。「オレらでもむりーだったことを、アサピやってんの! それ、マジですごいって!」
 オレらでもむりーなこと。
 土屋たちは、俺が知るよりずっと前から秦野と一緒にいた。俺の知らない秦野をいくらでも見てきたはずだ。こいつらでさえ踏み込めなかった秦野の内側に、俺は触れたのかもしれない。
 俺だけに許されたものがある。そう思った瞬間、心臓が、口から飛び出しそうなほど大きくうねり、言いようのない熱が、胸から全身へ広がっていった。
「お前、秦野になにしたんだよ?」
 鈴木が俺に突っかかってきた。
「べつになにも……」
 平静を装ってそう返したものの、心臓はやけにうるさい。誰の顔も見られなくて、秦野の膝の上の弁当に視線を固定する。
「でもさ」小林が口を挟む。「秦野くんが黒川くんに気を許したのって、あれがきっかけだったんじゃない?」
「ああっ! ストーカー追い払ったやつー!」
 と、土屋が思い出したように声を上げる。
「だけど最初はこいつのこと嫌ってたじゃん?」
 鈴木は俺を顎でしゃくりながら秦野に訊いた。
「最初は……」
 秦野はそう呟くと、俺の反応を探るように覗き込んできた。太陽の光を受けた瞳が、まっすぐこちらを見ていた。急に口許がむず痒くなって、奥歯をぐっと噛みしめる。
 最初の出会いは最悪だった。でも、出会うまえには戻りたくなかった。秦野がいない日々なんて、いまさら想像できない。たった数週間前なのに、ずいぶん昔のことのように感じる。
「秦野くん、前より笑うようになったよね」
「たしかにー!」
「そ……そう?」
「それこそアサピに出会ってからじゃない?」
「お、俺?」
 声が上ずった。自分に向けた指先さえ、どこか頼りない。三人は、さも当然だと言わんばかりにうなずいた。
 秦野が前より笑うようになった理由に、少しでも俺がいるのだとしたら。ここにいてもいいのだと、認められたような気がした。
 それを都合のいい考えだとは、簡単に片づけられなかった。
 胸の奥で、なにかがひっそり形を変えていく。それがなんなのか、まだうまく名前をつけられなかった。
 
「黒川?」
「……えっ?」
「大丈夫? ぼーっとしてたけど」
 そう言われて、はっと我に返った。やっと見慣れた南文京の住宅街を、秦野と並んで下校している。
「昼休みのあとから、心ここにあらずって感じだったよ?」
「そ、う?」
 とぼけてみたけれど、秦野の言う通りだった。
 心臓のなかに焼け石を放り込まれたみたいに、胸の熱はいつまでも引かなかった。午後の授業も、SHRで佐藤が告げた連絡事項も、まったく頭に入っていない。
 秦野との会話だって、どこかぎこちなかった。金曜日だというのに、今日はバイトが休みで、俺は秦野と一緒に帰る羽目になっている。
「初めてだね一緒に帰るの」
「言われてみれば。交互に入ってるもんな、シフト」
 背中に当たる西日が、長い影を二つ作っていた。その影を追うように俺らは歩いた。たかが影なのに、それぞれの特徴があらわれている。俺よりわずかに小さい影は、丸みを帯びたショートの輪郭だけで秦野だとわかった。
 いっぽう俺は、なんの面白味もない、ひょろりとした長い影。今朝セットした毛先は、コンクリートに溶けてぼんやりしていた。
「あの、さぁ」秦野の影が、ぴょんと動く。「今日、僕も料理作ってみたいんだけど」
 どうかな? と言われ、俺は横を見た。秦野の頬と瞳は、うっすらオレンジ色に染まっている。
「いいけど。なんで急に?」
「毎朝、黒川の姿を見ていたら、僕も作ってみたくなって」
「たしかになぁ……」夕日を受けた髪を見つめながら、俺はそっと目を細めた。「いつまでも俺がいるわけじゃないしな」
 なんの気なしに言って、前を向き直る。数歩歩いて、隣に気配がないことに気がづいた。後ろを振り返ると、俯いた秦野の表情は、黒い影に覆われて見えない。
「……そ、そうなんだよね! 作れるようになったほうがいいと思って!」
 歩を止めたまま、顔を上げた秦野は、なぜか困ったように笑って言った。
 秦野が小走りで向かってくるわずか数秒、つんと、雨の匂いがした。そういえば今晩は雨が降ると、アプリの天気予報には書いていたっけ。
「なに作る?」
「オムライス、作ってみたい。でも……」
「でも?」
「僕、本当になにもできないから」
「じゃあ、包丁の持ち方から確認な?」
「えー、そこからぁ?」
 わざとらしく目を丸くした秦野に、こっちも大げさに笑ってみせた。笑えば笑うほど、胸の奥にざらざらした違和感が溜まっていく。
 湿った匂いは鼻腔にはりついて、なかなか離れてくれない。