未完成なクレバーたち

 マットレスの軋む音に、深く沈んでいた意識がゆっくりと浮かび上がる。まどろみの淡い心地よさに身を委ねたまま、ゆっくり瞼を持ち上げると、見慣れない天井に思考が一瞬止まった。
 そうだった。昨日、秦野の部屋に泊まったんだ。
 視界の隅に入る黒い筐体。そのまま視線を落とすと、カラーボックスのなかで、俺の教科書が秦野のそれにもたれかかるように並んでいた。
 ふいに欠伸が洩れ、両腕をめいいっぱい伸ばす。ふっ、と力を抜くと、毎朝感じていたこわばりや、鈍い重さがなかった。たっぷり息を吸えば、指の先まで酸素が行き届いて、身体が目を覚ます。こんなに身体の軽い朝は、いつぶりだろう。
 薄いカーテンをすり抜けた朝の光で、部屋はぼんやりと明るい。
 ベッドの上では、昨日と同じように膨らんだ布団が、規則正しく上下している。枕元に置いたスマホを探りあて、時間を確認する。午前七時すぎ。いつも起きている時間だ。だが、秦野の部屋から学校へ行くなら、あと三〇分くらいは寝ていられる。もう一度目を閉じようとした、そのときだった。
 秦野の枕元で、スマホのアラームがけたたましく鳴り出した。布団の中から手だけが伸び、スマホを探りあてる。音はすぐに止まった。けれど、秦野は起きる気配がない。
 三分後、同じ音が鳴った。
 また手だけが伸びて、アラームを止める。
 さらに三分後、また鳴った。
 ……こいつ、起きる気ないだろ。
 それを四〇分間、繰り返した。さすがにそろそろ起きないと遅刻すると思い、立ち上がってベッドを覗き込んだ。役に立たないスヌーズを止め、
「おーい。そろそろ起きないと遅刻するぞ」
 頭まで隠れている秦野を布団ごと揺らした。
「ぅ、ん……」
 と声を洩らし、秦野は布団から顔を見せる。閉じたままの瞼が、もにゅもにゅと動いた。
「朝だぞ、起きろ」
「あさぁ……? ああ、くろかわのこえがきこえるぅ」
 秦野は欠伸のまじった甘ったるい声でそう言うと、ゆっくり体を起こして目を擦った。
「お前、朝弱かったのか」
「……ぅーん? ねむい」
「おいっ! 寝るな寝るな!」
 再び布団に倒れようとする秦野の背中に、すんでのところで腕を回し抱きかかえる。秦野は、俺の胸にくたりと頭を預け、すうすうと寝息を立てはじめた。
 あまりに近くて、伏せた睫毛や血色のいい唇に、つい目がとまる。やっぱり、俺の知っている女の子たちと比べものにならないほど綺麗だ。
 って、なに見てんだ。そろそろ起こさないと。
 秦野の白い頬をそっと摘んで横に引っ張った。
「おーきーろー?」
「へ? にゃにして……てッ?」
「あ、起きた。おはよう」
 秦野は今度こそぱっと目を開けた。俺が頬から手を離すと、そこに異常がないかを確認するように手を当て、すっと眉を潜めた。そのまま俺を睨みつけてくる。
「な、なに? なにしてんの?」
「なにって。お前このまま俺の腕のなかで寝ようとしてたんだぞ? だから起こそうと思って」
「でも、つねる必要はないって。え、待って? 俺の、腕の、なか?」
 秦野は俺の顔から胸、そして自分の体へと視線を流してから、俺の体を両手でぐぐぐと押してきた。それから唇を尖らせ、ふんっと拗ねたように顔を背けた。
「いやいや。遅刻しないようにって起こしたのに、それは違くない?」
 顔は綺麗かもしれないが、性格はまったく可愛くない。しかも、摘んだだけで、別に強くつねったわけじゃない。たぶん。
 秦野は布団を握りしめたまま、気まずそうに目を伏せた。
「……ごめん」
「え?」
「だから、その……。お、起こしてくれてありがとうって言ってんの!」
 大きく揺れた瞳と目があった。礼を言っているはずなのに、秦野の顔はひどくふてくされたままだ。でも、それがなんだか、秦野らしい。
「ほんっと、お前ってかわいくねーのな!」
 秦野の頭をがしがしと撫でた。しっとりとした髪の毛が、指のあいだで弾ける。
「はぁ? かわいさなんて、べつに必要ないでしょ!」
 秦野は俺の手を払いながら、なにかぶつぶつ言っていた。
 寝起きの甘い声も、押し返す力が案外強いところも、不貞腐れながら謝るところも、素直じゃないところも。俺からすれば、どれも新鮮に見えた。
 秦野の背骨の感触がほんのり残る腕を、そっと胸に当てる。胸の奥が、妙にむず痒かった。
 キッチンで歯を磨き、朝食は昨日買ったパンで済ませ、制服に着替えた。マンションのエントランスを出ると、大きな一軒家が建ち並ぶ住宅街に出た。人通りの少ない朝の道を、秦野と並んで学校へ向かう。
「秦野って、オムライス以外なら、なにが好きなの?」
「えーと、カレーとか?」
「フッ、米系ばっかじゃん」
「あとハンバーグ」
「小学生かよ」
「……っるさいなぁ」
 悪態をつく秦野を見下ろしながら、
「じゃあ、今度ハンバーグ弁当でも作るかぁ」
 メニューが決まったくらいの軽い気持ちで呟くと、秦野はぱっと顔を上げ、俺の顔を覗き込んだ。
「作ってくれるの? ハンバーグ弁当を?」
「ああ。だって、好きなんだろ?」
「好きだけど……」
 なにげなく返したつもりだったのに、秦野はそこで言葉に詰まった。それから、思い出したようにスクールバッグへ手を入れる。
「黒川に、これ渡しておく」
 バッグに突っ込んでいた手が、急に俺の顔の前に飛んできた。反射的に首を後ろへ引いた。
「危なっ。なに?」
「合鍵」
 秦野はぎゅっと握りしめていた拳を、少し下げてから開いた。朝日に照らされた手のひらには、家の鍵があった。
「俺、の?」
 秦野の手から受け取る。体温がうっすら残っていて生温かいそれを、目の前にかざした。シルバーに朝日が反射し、思わず目を細める。
「キーホルダーも、よければ」秦野は今度はポケットを探り、金閣寺がかたどられた金色のキーホルダーを見せてきた。「去年の修学旅行で買ったやつ、なんだけど」
「え……と」
 おごそかで、どこか垢抜けないその見た目に、なんて返せばいいか分からなかった。でも、キーホルダーまで用意してくれた秦野の優しさは、ちゃんと分かった。
「嫌ならいいよ」
 むくれながら、ふたたびポケットにしまおうとする秦野の手をとっさに掴む。
「ごめんごめん。使わせて? 用意してくれて嬉しいよ」
「なら、いいけど」
 秦野は唇を尖らせ、目を逸らした。このむすっとした顔が、なんだか可愛く見えてしまう。
「サンキュー」
 俺はその場で鍵にキーホルダーをつけた。金閣寺が鍵の下で揺れ、ちり、と鈴が鳴る。秦野はこんなものまで用意してくれていた。
 その不器用な優しさに触れて、生温かいものが胸の奥にひろがった。
 
 教室後方のドアを開けると、教室の真ん中で喋っていた三人がいっせいにこっちを向いた。その視線が秦野を捉え、すぐ、隣の俺へと移る。嫌な予感がした。
 こういう注目を秦野は嫌う。だったら俺はいますぐこいつから離れた方がいい。じり、と上履きをこすりつけるように一歩引く。しかしあとは踵を返すだけというタイミングで、俺の名前を呼ぶ声が飛んできた。
「秦野くんおはよう! 今日は黒川くんと一緒なんだね!」
 真面目そうな眼鏡のやつが、席に座ったまま首だけこちらへ向けて言う。
「おはよう。……うん、まあ?」
 と、秦野は返事を濁しながら、どこか照れたように俺を見てきた。退こうとした体が、秦野の視線に止められてしまう。
 あいつらは秦野の友達だろうか? 俺はクラスメイトと仲良くする気はないし、ここにいたら俺のせいで秦野に迷惑をかけてしまうというのに、
「……誰だっけ?」
 と、気づけば秦野に耳打ちしていた。
「え、知らないの?」
「おいっ、声が大きいって」反射的に秦野を肘で小突く。「別に学校で友達作る気なかったし」
 そんな感じで、ドアの前でひそひそ話していると、今度は、通路を挟んだ隣の机に腰を預けていた茶髪のやつが、面白がるように口を挟んだ。
「お前ら本当に仲がいいんだねー!」
 茶髪の言葉に笑うでもなく、眼鏡のほうが俺たちを手招きした。
「そんなところに立ってたら、教室に入りたい人の邪魔になるよ?」
 この二人からは、少なくとも、俺を避けようという気は感じられなかった。俺と秦野は目をあわせ、彼らの元へ向かった。
 眼鏡をかけているのが小林くんで、立っているのが土屋くん。小林くんの正面に座っているのが鈴木くん。と秦野は彼らを順番に紹介してくれた。「三人とは去年も同じクラスだったんだ」
「へえ」
 俺は一人ひとりに視線を流しながら、軽く頭を下げた。小林と土屋はにこにこしていたが、鈴木だけは、ずっと俺を睨んでいる。
「ども……?」
 なんとなく心地が悪くなって、もう一度、鈴木にだけ挨拶をする。
「なあ秦野。前も言ったけど、こいつとつるむのやめなよ」
 鈴木はそう言うなり、椅子を大きく鳴らして立ち上がり、俺から引き剥がすように秦野の腕を取った。秦野の体が、くらりと傾く。反射的に手を伸ばした。けれど指先は制服の裾をかすめただけで、掴むことはできなかった。
「心配しなくても大丈夫だよ鈴木くん。黒川はそんな悪いやつじゃないから」
 鈴木に腕を取られたまま、秦野はそう返した。
「ほう?」
 小林は意味ありげな表情で俺の顔を覗き込んでくる。
「……んだよ」
「黒川ってさぁ、最近秦野と屋上で昼飯くってるっしょ?」
 土屋が小林の机に手をつき、俺と鈴木のあいだへ身を乗り出してきた。睨み合っていた俺らの視線が、ぶつりと途切れる。
「なんでそれを知ってる?」
 俺は秦野へ確認するように視線を送る。だが、秦野はわからないというように小さく首を振った。
「オレたちも、たまに屋上で食べるんだよ。なあ、鈴木?」
 話を振られた鈴木は、怪訝そうに土屋を見る。その様子に、小林がひとつ頷いてから口を開いた。
「だから、二人がいるのは知ってたんだ。今年から解放されたけど、風が強いせいか、あまり人がいなくて穴場だよね、屋上」
「いるなら言ってくれたら良かったのに……」
 秦野はいつのまにか俺の隣に戻ってきていた。
「いやだってこいつがさぁ」土屋が親指で鈴木をさす。「アンチ黒川だから」
 鈴木はわざとらしく頬杖をついて顔を背けた。土屋が「いや、ね?」と取りなすように続ける。
「オレらも最初は苦手だったよ。でも、楽しそうな秦野の顔を見てたらさ。悪い奴じゃないんだろうなって」
「なのに、鈴木くんだけは」小林が、自分の机に頬杖をついている鈴木の頬を、人差し指で小突く。「どう? せっかくの機会だし話してみれば?」
「や……」
 鈴木が俺を上目で睨みつける。
「無理だっ!」
「まだそれを言うかお前はッ! 大丈夫だって!」
 なっ? と土屋はカッと目を開いて俺を見た。
「ああ、まあ……?」
 なにが大丈夫なのかよくわからなくて、曖昧な返事になってしまった。
「ねえ黒川くん」小林が俺を呼ぶ。「僕はずっと、君と話してみたかったんだ。噂は噂でしかないからね」
「確かに確かに。やっぱ直接話さないとわかんないもんだねー」
「秦野くんが言っていた通りだね」
 小林の言葉に、土屋が腕を組んで、噛み締めるように頷く。
「秦野が、なんて?」
 二人に訊こうとしたら、急に、横からものすごい力で押された。体ががっくんと揺れる。
「ああほら黒川ッ! 今日の予習した? 今日当てられるんじゃない? いまのうちにしといたほうがいいよ?」
「え、ちょっ! なに? なんで押す? 俺まだ二人に話が……」
「ほらほら! もうチャイム鳴るよ?」
 そのままずるずると教室の後方まで押された。秦野の肩越しに、助けを求めるつもりで三人を見た。
 土屋はひらひらと手を振り、小林は笑っている。鈴木はあいかわらずムスっとしてたが、とにかく三人とも俺を助ける気はなさそうだった。
 ドン、と背中が棚に当たり、思わず「うっ」と声が洩れた。
「はい、もう戻って!」
 秦野は俺の席に向かってぴしゃりと指をさす。
「なんだよ、別にいいじゃん話したって。それに小林が言ってたことが」
 と、言いかけたところで、本当にチャイムが鳴った。
「はい、時間切れです」
「じゃあお前に訊くけど、あいつらに、なに話したんだよ?」
「別になにも……。もうこれ以上は終わり!」
 秦野は戻って戻ってと言いながら、手の甲で俺を追い払う。視線に押されるように、俺は席についた。一番後ろから、三人の姿は見えた。土屋は俺の隣の列の一番前。小林は秦野の斜め後ろ。鈴木は番窓側の列だった。
 さっきの小林の言い方からして、秦野が俺のことを悪く言っていないのはわかる。土屋だって、少なくとも俺を避けてはいなかった。
 秦野があいつらに、俺のなにを話したのか。
 そういうことに、ざわつく自分が、少しだけ鬱陶しかった。
 休み時間、トイレに入ると、奥の便器の前に土屋が立っていた。俺に気づくなり、顔だけこちらへ向ける。
「お、黒川じゃんー?」
 反射的に周囲を見回したが、秦野の姿はない。あれを訊くなら、いましかない。
「なあ土屋、いまいいか?」
 隣に並んでから、声を落として訊いた。
「ええーっ? もしかして……秘密の話っ?」
「お前、距離詰めるの早いな」
「よく言われる。で、なになに?」
 土屋はにやにやしたまま、続きを促すように顎をしゃくった。
「さっき小林が言ってたことなんだけど」
「優樹が言ってたこと?」
 聞き慣れない名前に、一瞬、返事が遅れた。
「ゆうき、って?」
「小林の下の名前、優樹っていうの」
「へぇ」
 下の名前で呼ぶくらいには、二人は仲がいいらしい。
「どうして名前で呼んでるか、気になった?」
「や、別に」
「俺たち幼稚園から一緒なんだよねぇ。しかも家が裏」
「聞いてない聞いてない」
「あ、ちなみにオレの名前は翔ね。ショウって呼んでもらっていいぞ!」
「はいはい。気が向けばな」
 調子のいいやつだと思った。こっちが身構える暇もなく、土屋のほうから勝手に距離を詰めてくる。なのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
 土屋は水を流すと、手洗い場へ向かいながらあっさり話を戻した。
「まあいいや! で、優樹がなんだっけ?」
「小林が言ってた、『秦野くんが言っていた通りだね』ってやつ。あれ、どういう意味だよ」
「ああ! それのことか!」
「お前も一緒に聞いてたの?」
 俺も水を流し、土屋のあとを追った。
「うん。たしか物理の実験中に話してた気がする」土屋は考えながら宙を仰いだ。「秦野っちが言っていたことねぇ……」
 なに話してたっけ、と土屋はぶつぶつ独りごちながら手を洗っている。
「ああ、思い出した! 黒川ってさ、前に秦野っちを助けたことあるんでしょう?」
「助け……」指先にぬるい水を受けながら思い返す。「ああ。あのネッチョリ野郎のことか?」
「ネッチョリ? なにそれ分からん。オレらは、黒川がストーカーを追い払った、って聞いたけど?」
「まあ、結果的には」
「秦野っち、ずっと悩んでたんだよね。だから、黒川に助けてもらったって、嬉しそうに報告してきたんだよ。黒川は皆が思っているようなやつじゃない。優しいやつだよ、って」
 なんだって?
 土屋の声に押されて、蛇口から出る水の音が遠くなる。秦野はあの日のことを、それだけではなく俺のことまで、こいつらに話していたというのか。しかも、それだけじゃなくて。
「だから俺らも、黒川のこと見返したってワケ」
「見返したって。たったそれだけのことで?」
「フフ。秦野っちが言うんだから間違いないだろうって、少なくとも俺と優樹は思ったよ。じゃあオレ、物理教室に移動だから先に行くねん♪」
 ひらひらと手を振りながら土屋は行ってしまった。バタンと音を立てたドアから目が離せない。秦野が言うなら間違いない。土屋の軽い声が、妙に重く耳の奥に残った。
「黒川は皆が思っているようなやつじゃない。優しいやつだよ」
 聞いたわけでもないのに、その言葉は簡単に秦野の声で再生できた。そういえば前にも、そんなことを言われたような気がする。あのときは、聞き流していた。
 俺は、優しい人間じゃない。それでも秦野が言うのなら、そうなのかもしれないと、信じそうになる。
 全身を駆け巡るむず痒さを誤魔化すように、蛇口をきつく締めた。正面を向くと、鏡に映る情けない自分の顔と目があった。