【思案】
守村イサミは、月を見ていた。
イサミの自室は六畳の和室で、縁側がある。
戸を開け放ち、広い視界に月を捉える。
解放された部屋に、出入り自由と喜んで、蚊が一匹飛んできた。
不快な音が不安定に近づいてきて、イサミの腕に止まった。
ーーこれもまた、血を吸うものだ。
あと3日ほどで満月になる。イサミは次の奉納の準備をせねばと考えた。
子安神は、カンジにご馳走を与えたがる。
さて、今回は何を用意しようか。
イサミは、子安神の様子を思い出す。
明らかに、年をとっていた。
「親父、ちょっと話していい?」
「シアンか。ええぞ、こっちに来なさい」
シアンはイサミの隣に座り、持ってきた湯呑みを渡した。
ふと交差した視線は、シアンの方が少し高い。
「どうした、珍しいな」
「あのさ……、僕って、守村かな」
「お前は守村シアンやろ」
「そうなんやけど、そうじゃなくて」
シアンはもどかしい思いで続けた。
「僕は、親がだれかも分からんし、守村の血も引いてない養子やろ。それでも、守村として認められんのかなって」
シアンのなかにはずっとこの不安があった。
二十歳までは自由にしていいというのも、二十歳まではこの家で自由に暮らしていいが、それを過ぎたら勝手に出ていけという意味ではないかと邪推したりした。
その不安を、初めてイサミにぶつける。
イサミは、湯呑みには口もつけず黙って聞いていた。
そして、シアンが話し終わるとゆっくり口を開いた。
「シアン、私は、お前を育てられたことを誇りに思ってる。おまえは、私にとってもこの町にとっても大切な存在や。……不安にさせてすまんかった」
「じゃあ、守村の中で僕だけ子安神様に会えんのは?」
「二十歳になったら、お前には重大な役目がある。それまでは会わせられん。理由は、その時全部分かるやろう」
シアンの胸中に安堵が広がる。やっぱり、カンジの推測は正しかったのだ。
「よかったぁ。はは、さすがカンジ君」
「カンジ君?」
イサミが不思議そうに聞き返す。
「僕けっこうウジウジ悩んでて、カンジ君に話したらアドバイスくれたんよ。大丈夫やからイサミおじさんに直接聞いてみろって」
「あの子は……しっかりした子やなぁ」
「うん。でもカンジ君も最近悩んでる」
安心したことで、シアンの口が滑らかになる。ついでに気になっていることも聞いてしまおうか。
記者の杉本が消えこと、イサミは何か知っているだろうか。
あるいは、関わっていたりするのだろうか。
「親父さ、二ヶ月くらい前に取材に来てた杉本っていう記者しってる?」
「もしかし、えらいめかしこんだ五十がらみの男か。取材いうて演説ぶちよって、この町には新しい考えがどうのこうのとーー」
杉本は、イサミ相手にもやらかしていたらしい。二ヶ月経ったいまでも、イサミの記憶からするりと出てきた。
「その記者、いま行方不明やねん」
シアンが告げると、イサミはピタリと止まった。
「子安神様が、バチでも当てたかもしれんなぁ」
「ッ、それは、考え方が危険やからか」
「アホ、無礼やったからや」
意気込むシアンに、イサミが諭すように言う。
「あの記者、杉本か。よりにもよって神社まで来て、この町の連中はアホだの愚かだの抜かしよった」
シアンにも吐いた捨て台詞、あれか。
「無理に産ませることが暴力になる、そういう変え方があるのはわかった。でもな、それを理由に無抵抗の相手を攻撃したら、それはまた別の暴力やろ」
イサミの言い分が、シアンの中にストンと落ちる。
「カンジ君と僕、産ませることが暴力になるって言われて、ゾッとした。もしかして、知らんあいだにこの町で暴力に加担してたんかって」
イサミは、この問題についてどう考えているのだろう。
杉本に対する先ほどの意見に触れて、イサミの考えをもっと聞いてみたくなった。
「この子安町は、未来都市なんちゃうかと思うことがある」
突拍子もない発言にあっけにとられる。産ませることの暴力性について話していたと思ったら急にSFが始まるとは。
イサミは、まぁ聞けと目で訴えた。
「杉本が言うてたな。妊娠、出産の負担を考えたことがあるか、と。そこを度外視して、めでたいめでたいと押し付けるのは暴力やと」
「うん。町ぐるみで押し付けてるって」
「外ではそれは、かなり真実なんちゃうかなぁ。外ではまだ、つわりを軽くする薬はないし、出産は命の危険があるし、痛む体で赤子を育てる。これを解決できる医療は、まだない」
シアンは、イサミの言いたいことがわかった気がした。
「子安様は、そこを助けてくれる。原理はようわからんし、オカルトと言われたらそうなんかもしれん。でも私は、未来の医療をほどこしてくれるお医者様やと思ってる」
子安町は、未来の医療を受けられる未来都市。二世代遅れた田舎まちといわれる子安町が未来都市とは、なんとも愉快だ。
「未来の医療のもとでなら人は、自然と子どもをたくさん持つことを選択するんとちがうかな」
子安町は、ただ環境を与えているだけ。
その上で、町民ひとりひとりいが選んでいる。
「だから私はね、カンジ君が暴力に加担していると悩む必要はないと思う。……あくまで私はこう考える、ちゅう話やけどな」
イサミの発想は突拍子も無かったが、不思議な説得力があった。心が休まる話でもあった。
しかし、その未来の医療は、カンジの犠牲の上に成り立っているのだ。
血を捧げ、そしていずれ伴侶として身を捧ぐ。
カンジだけがこの町で選択権をもたない。
「カンジ君は……」
「シアン、あの子のことが気になるか」
イサミが問う。
「お前は、どうしたい?」
「カンジ君に、選ばせてあげたい。一回外の世界をみて、外の人間と出会って、神様じゃない人とも恋愛して、それでもまだカンジ君自身が贄をやってもいいって判断できるんやったら、僕もこの世界を信じられる」
イサミは黙って腕を組み、目を閉じた。
月は場所を変え、二人の影を伸ばす。
沈黙はもう少しばかり続いた。その沈黙を、リンリンと虫の声がうめる。
そして、イサミが目を開く。
「シアン、子安神様に会ってみるか」
イサミの提案は意外なものだった。
先ほどイサミ自身が、重大な役目があるから二十歳までは子安神様にあえないのだと言ったばかりである。
「なんで急に」
「そこまで考えが固まってるんやったら、会ったほうがいいかもしれんと思った。会うたら、お前の知りたいこと、全部わかる」
急に、虫の声が遠くなった気がした。
「そのかわり、二十歳までというた期限はちょっと短なるかもしれん」
シアンは即答した。
「会う」
*
ーー暗転ーー
夏でも気温の上がらない深い森の中。
ここでは地表ちかくの硬い岩盤が邪魔をして、木々が地下深くに根を伸ばせない。しかたなく横に伸びた根が、ぼこぼこと地表を走っている。節くれだった根はどこか禍々しく、地獄から追いかけてくる触手のようだ。
深い緑ばかりが旺盛で、ここは驚くほど静かだった。
この場所には命が足りない。
命が、命が、命が。
ある時、この不気味な森の近くに、人間が逃げてきた。戦で負け、集落を奪われた一族が、ここならば誰も追ってこないだろうと、この森に根を下ろした。
そして、一族は命を望んだ。
復興のため、これからを生き抜くため、命を求め、願い、信仰した。
どうか、わたしたちに命を。
そしてうまれた。
この地に根付き、命を授け、安らぎを与える神が。この命の足りない土地で、贄をかてに力をつけ、いつのまにか命の豊かな土地にまで成長させた、偉大な神が。
*
ーー暗転ーー
手のひらよりも小さな箱。
開けるとそこには、先刻産まれた赤ん坊のへその緒が納められていた。
まだ水気を多分に含んだ、赤い、赤い命。むせるような幸せを感じながら、その汁を舐め、身を食んだ。
そして数瞬ののち、子安神はにっこり笑った。
「おいしいなぁ。ほんまにおいしいものを食べたときって、力がわいてくる」
その言葉は、イサミにとってもこの町の人々にとっても非常に頼もしいものだった。
「なぁ、この子の名前、俺が付けたらあかんあかなぁ。シゲさん、嫌やろか」
「まさか、嫌がるわけがない」
「ほんま? じゃぁ、伝えといて。この子の名前はカンジ。カンジ君にするって」
甘くて、栄養いっぱいの、「甘滋」君。
ーー暗転ーー
*
本殿の扉をあけた瞬間、シアンの頭の中に流れ込んできた記憶。これはーー。
「理解したか?」
目の前に、老年にさしかかった男がいる。
子安神だ。
それと同時に、直感でわかる。
これは自分だと。
二十歳になったシアンに訪れる重大な役目、それは、子安神になること。
シアン。
自分の名前は、そのまま「子安」神を意味していたのだ。
「うん、すこし存在が混ざったな。二十歳までは保たんやろう」
シアンが子安神と会えなかったのは、二人の境界があいまいに溶けてしまうから。
イサミの言葉がよみがえる。
ーーお前を育てられたことを誇りに思ってる。お前は、私にとってもこの町にとっても大切な存在や。
なるほど、大切なはずだ。
シアンは、神なのだから。
だとすれば、だ。
カンジを贄とし、血をすすり、伴侶としてその身を捧げさせるのは誰だ?
「なぁ、シアン。カンジ君は、いい匂いがするなぁ」
ぞくりとした。
頭の中に、奉納の様子が流れ込んでくる。カンジが、子安神様に血をすすられている姿が。
カンジは、奉納は緊張すると言っていた。
でもその姿はどう見ても安心しきっていて、体はどこもかしこもクタクタにほどけている。
「もうすぐ、お前の贄や。待ち遠しいなぁ?」
「う、うるさい。僕は、カンジ君を連れてこの町を出る」
シアンはそう言うと、大きな音をたてて本殿を出た。
流れ込んできた奉納の様子を振り払うように、砂利道を走る。
「シアン、どうやった」
本殿から自宅まで、ほんの短い距離なのに、シアンの息は大げさなくらい乱れていた。
「親父、僕……」
シアンは肩で息をし、イサミを見上げる。
月が、イサミの後ろから差していた。
「カンジ君を連れて、この町から出ていく」
もう一度、宣言する。
「シアン、あなたの意思を、尊重します」
この時のイサミは父の顔をしていたのか、神官の顔をしていたのか、月影がそれを隠した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
子安町 回覧板
守村シアン、守田カンジ両名は、大阪へ国内留学することとなりました。
この件は子安神さまのご意志ですので、みなさま安心して二人の帰郷をお待ちしましょう。
※この回覧は、両名の目に触れないようにお願いします。
第一部、完
守村イサミは、月を見ていた。
イサミの自室は六畳の和室で、縁側がある。
戸を開け放ち、広い視界に月を捉える。
解放された部屋に、出入り自由と喜んで、蚊が一匹飛んできた。
不快な音が不安定に近づいてきて、イサミの腕に止まった。
ーーこれもまた、血を吸うものだ。
あと3日ほどで満月になる。イサミは次の奉納の準備をせねばと考えた。
子安神は、カンジにご馳走を与えたがる。
さて、今回は何を用意しようか。
イサミは、子安神の様子を思い出す。
明らかに、年をとっていた。
「親父、ちょっと話していい?」
「シアンか。ええぞ、こっちに来なさい」
シアンはイサミの隣に座り、持ってきた湯呑みを渡した。
ふと交差した視線は、シアンの方が少し高い。
「どうした、珍しいな」
「あのさ……、僕って、守村かな」
「お前は守村シアンやろ」
「そうなんやけど、そうじゃなくて」
シアンはもどかしい思いで続けた。
「僕は、親がだれかも分からんし、守村の血も引いてない養子やろ。それでも、守村として認められんのかなって」
シアンのなかにはずっとこの不安があった。
二十歳までは自由にしていいというのも、二十歳まではこの家で自由に暮らしていいが、それを過ぎたら勝手に出ていけという意味ではないかと邪推したりした。
その不安を、初めてイサミにぶつける。
イサミは、湯呑みには口もつけず黙って聞いていた。
そして、シアンが話し終わるとゆっくり口を開いた。
「シアン、私は、お前を育てられたことを誇りに思ってる。おまえは、私にとってもこの町にとっても大切な存在や。……不安にさせてすまんかった」
「じゃあ、守村の中で僕だけ子安神様に会えんのは?」
「二十歳になったら、お前には重大な役目がある。それまでは会わせられん。理由は、その時全部分かるやろう」
シアンの胸中に安堵が広がる。やっぱり、カンジの推測は正しかったのだ。
「よかったぁ。はは、さすがカンジ君」
「カンジ君?」
イサミが不思議そうに聞き返す。
「僕けっこうウジウジ悩んでて、カンジ君に話したらアドバイスくれたんよ。大丈夫やからイサミおじさんに直接聞いてみろって」
「あの子は……しっかりした子やなぁ」
「うん。でもカンジ君も最近悩んでる」
安心したことで、シアンの口が滑らかになる。ついでに気になっていることも聞いてしまおうか。
記者の杉本が消えこと、イサミは何か知っているだろうか。
あるいは、関わっていたりするのだろうか。
「親父さ、二ヶ月くらい前に取材に来てた杉本っていう記者しってる?」
「もしかし、えらいめかしこんだ五十がらみの男か。取材いうて演説ぶちよって、この町には新しい考えがどうのこうのとーー」
杉本は、イサミ相手にもやらかしていたらしい。二ヶ月経ったいまでも、イサミの記憶からするりと出てきた。
「その記者、いま行方不明やねん」
シアンが告げると、イサミはピタリと止まった。
「子安神様が、バチでも当てたかもしれんなぁ」
「ッ、それは、考え方が危険やからか」
「アホ、無礼やったからや」
意気込むシアンに、イサミが諭すように言う。
「あの記者、杉本か。よりにもよって神社まで来て、この町の連中はアホだの愚かだの抜かしよった」
シアンにも吐いた捨て台詞、あれか。
「無理に産ませることが暴力になる、そういう変え方があるのはわかった。でもな、それを理由に無抵抗の相手を攻撃したら、それはまた別の暴力やろ」
イサミの言い分が、シアンの中にストンと落ちる。
「カンジ君と僕、産ませることが暴力になるって言われて、ゾッとした。もしかして、知らんあいだにこの町で暴力に加担してたんかって」
イサミは、この問題についてどう考えているのだろう。
杉本に対する先ほどの意見に触れて、イサミの考えをもっと聞いてみたくなった。
「この子安町は、未来都市なんちゃうかと思うことがある」
突拍子もない発言にあっけにとられる。産ませることの暴力性について話していたと思ったら急にSFが始まるとは。
イサミは、まぁ聞けと目で訴えた。
「杉本が言うてたな。妊娠、出産の負担を考えたことがあるか、と。そこを度外視して、めでたいめでたいと押し付けるのは暴力やと」
「うん。町ぐるみで押し付けてるって」
「外ではそれは、かなり真実なんちゃうかなぁ。外ではまだ、つわりを軽くする薬はないし、出産は命の危険があるし、痛む体で赤子を育てる。これを解決できる医療は、まだない」
シアンは、イサミの言いたいことがわかった気がした。
「子安様は、そこを助けてくれる。原理はようわからんし、オカルトと言われたらそうなんかもしれん。でも私は、未来の医療をほどこしてくれるお医者様やと思ってる」
子安町は、未来の医療を受けられる未来都市。二世代遅れた田舎まちといわれる子安町が未来都市とは、なんとも愉快だ。
「未来の医療のもとでなら人は、自然と子どもをたくさん持つことを選択するんとちがうかな」
子安町は、ただ環境を与えているだけ。
その上で、町民ひとりひとりいが選んでいる。
「だから私はね、カンジ君が暴力に加担していると悩む必要はないと思う。……あくまで私はこう考える、ちゅう話やけどな」
イサミの発想は突拍子も無かったが、不思議な説得力があった。心が休まる話でもあった。
しかし、その未来の医療は、カンジの犠牲の上に成り立っているのだ。
血を捧げ、そしていずれ伴侶として身を捧ぐ。
カンジだけがこの町で選択権をもたない。
「カンジ君は……」
「シアン、あの子のことが気になるか」
イサミが問う。
「お前は、どうしたい?」
「カンジ君に、選ばせてあげたい。一回外の世界をみて、外の人間と出会って、神様じゃない人とも恋愛して、それでもまだカンジ君自身が贄をやってもいいって判断できるんやったら、僕もこの世界を信じられる」
イサミは黙って腕を組み、目を閉じた。
月は場所を変え、二人の影を伸ばす。
沈黙はもう少しばかり続いた。その沈黙を、リンリンと虫の声がうめる。
そして、イサミが目を開く。
「シアン、子安神様に会ってみるか」
イサミの提案は意外なものだった。
先ほどイサミ自身が、重大な役目があるから二十歳までは子安神様にあえないのだと言ったばかりである。
「なんで急に」
「そこまで考えが固まってるんやったら、会ったほうがいいかもしれんと思った。会うたら、お前の知りたいこと、全部わかる」
急に、虫の声が遠くなった気がした。
「そのかわり、二十歳までというた期限はちょっと短なるかもしれん」
シアンは即答した。
「会う」
*
ーー暗転ーー
夏でも気温の上がらない深い森の中。
ここでは地表ちかくの硬い岩盤が邪魔をして、木々が地下深くに根を伸ばせない。しかたなく横に伸びた根が、ぼこぼこと地表を走っている。節くれだった根はどこか禍々しく、地獄から追いかけてくる触手のようだ。
深い緑ばかりが旺盛で、ここは驚くほど静かだった。
この場所には命が足りない。
命が、命が、命が。
ある時、この不気味な森の近くに、人間が逃げてきた。戦で負け、集落を奪われた一族が、ここならば誰も追ってこないだろうと、この森に根を下ろした。
そして、一族は命を望んだ。
復興のため、これからを生き抜くため、命を求め、願い、信仰した。
どうか、わたしたちに命を。
そしてうまれた。
この地に根付き、命を授け、安らぎを与える神が。この命の足りない土地で、贄をかてに力をつけ、いつのまにか命の豊かな土地にまで成長させた、偉大な神が。
*
ーー暗転ーー
手のひらよりも小さな箱。
開けるとそこには、先刻産まれた赤ん坊のへその緒が納められていた。
まだ水気を多分に含んだ、赤い、赤い命。むせるような幸せを感じながら、その汁を舐め、身を食んだ。
そして数瞬ののち、子安神はにっこり笑った。
「おいしいなぁ。ほんまにおいしいものを食べたときって、力がわいてくる」
その言葉は、イサミにとってもこの町の人々にとっても非常に頼もしいものだった。
「なぁ、この子の名前、俺が付けたらあかんあかなぁ。シゲさん、嫌やろか」
「まさか、嫌がるわけがない」
「ほんま? じゃぁ、伝えといて。この子の名前はカンジ。カンジ君にするって」
甘くて、栄養いっぱいの、「甘滋」君。
ーー暗転ーー
*
本殿の扉をあけた瞬間、シアンの頭の中に流れ込んできた記憶。これはーー。
「理解したか?」
目の前に、老年にさしかかった男がいる。
子安神だ。
それと同時に、直感でわかる。
これは自分だと。
二十歳になったシアンに訪れる重大な役目、それは、子安神になること。
シアン。
自分の名前は、そのまま「子安」神を意味していたのだ。
「うん、すこし存在が混ざったな。二十歳までは保たんやろう」
シアンが子安神と会えなかったのは、二人の境界があいまいに溶けてしまうから。
イサミの言葉がよみがえる。
ーーお前を育てられたことを誇りに思ってる。お前は、私にとってもこの町にとっても大切な存在や。
なるほど、大切なはずだ。
シアンは、神なのだから。
だとすれば、だ。
カンジを贄とし、血をすすり、伴侶としてその身を捧げさせるのは誰だ?
「なぁ、シアン。カンジ君は、いい匂いがするなぁ」
ぞくりとした。
頭の中に、奉納の様子が流れ込んでくる。カンジが、子安神様に血をすすられている姿が。
カンジは、奉納は緊張すると言っていた。
でもその姿はどう見ても安心しきっていて、体はどこもかしこもクタクタにほどけている。
「もうすぐ、お前の贄や。待ち遠しいなぁ?」
「う、うるさい。僕は、カンジ君を連れてこの町を出る」
シアンはそう言うと、大きな音をたてて本殿を出た。
流れ込んできた奉納の様子を振り払うように、砂利道を走る。
「シアン、どうやった」
本殿から自宅まで、ほんの短い距離なのに、シアンの息は大げさなくらい乱れていた。
「親父、僕……」
シアンは肩で息をし、イサミを見上げる。
月が、イサミの後ろから差していた。
「カンジ君を連れて、この町から出ていく」
もう一度、宣言する。
「シアン、あなたの意思を、尊重します」
この時のイサミは父の顔をしていたのか、神官の顔をしていたのか、月影がそれを隠した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
子安町 回覧板
守村シアン、守田カンジ両名は、大阪へ国内留学することとなりました。
この件は子安神さまのご意志ですので、みなさま安心して二人の帰郷をお待ちしましょう。
※この回覧は、両名の目に触れないようにお願いします。
第一部、完
