きみのいる夏

「ミチさん、まだ怒っていますか」

 車の中で、トビーがおそるおそる聞いた。

「何が。どうして」

「ぼくが生意気なことを言ったから」

「そんなこと、言ったのか。忘れた」

「絶対に怒っていますよね」

「だから、怒ってないと言っているだろ。しつこいぞ」

「なら、どうしてメールの返事をくれないんですか」

「書いたのか」

「はい。五度くらい」

「迷惑メールに入っていたのかな」

 道継が道路わきに車を止め、スマホを確認した。

「来ていた」

「ミチさん、本当に知らなかったんですね。よかったです」

「よくないよ」

 道継が再び車を走らせた。

「今日は休みなのか」

「はい」

「じゃ、付き合え」

「はい。どこへ行くんですか」

「海」

「いいですね。どこの海ですか」

「鋸南町《きょなんまち》」

「それ、どこですか」

「千葉県の南にある小さな町だ。近くにきれいな海岸がある」

「どのくらいかかるんですか」

「二時間くらい」

「そんなにかかるんですか」

「そこに、おれの家があるんだ」

「別荘ですか。いいですね。前に言っていましたよね」

「別荘じゃない。古い民家を安く買って、一年かけておれが自分でリノベしたんだ。母親も、そのことを知らない。おれが自分で稼いで、建て直したんだ」

「資金はどうしたんですか」

「行けばわかる」

「ぼく、今、知りたいです」

「わがままな奴だな」

「そうですよ、ぼくは」

「ユーチューブって、知ってるだろ」

「もちろん」

「『ミチの民家リノベーション』を検索してみろ」

 トビーは言われるままに、ググってみた。

「わー、いくつも、あります。有名なんですね。これ、ミチさんのですか。チャンネル登録者が二十万人。すごいじゃないですか」

「まあ」

「今もやっているんですか」

「今はリノベは終わって、別のプロジェクトに取り掛かっているんだ」

「へえ。それは何ですか」

「それは、着いてからだ」

 道継はそう言ってトビーを見て笑い、アクセルを踏んだ。


*

「ここですか。すごい。ここがミチさんの家なんですか」

 トビーが車から勢いよく飛び降りた。

 黒い桟瓦を載せた民家の屋根は低く、雨に洗われた木の外壁は深い飴色に艶めいている。庭に面した大きな木枠の窓には、夏の青空が映っていた。

「古そうな家ですね」

「百年は経っていると思う」

「百年ですか。どひゃー」

 トビーが珍しくふざけた。

「なんだよ、それ」

 海を前にした子どものような表情に、道継は思わず笑った。

 道継が鍵を開けて中へ入り、窓を開けると、潮の香りを含んだ風が、部屋の中へ流れ込んできた。

「気持ちいい」

 トビーが白い歯を見せて笑った。

 室内は、外観からは想像できないほどモダンだった。広い空間の半分は仕事場になっている。大きな机には三台のコンピュータが並び、設計図や資料が無造作に広げられていた。

 壁一面の本棚には、専門書や資料がぎっしりと詰まっている。

 残りの半分には、寝室、キッチン、浴室がある。

 この民家は、道継が一年かけて自分の手でリノベーションしたものだった。

「ミチさんは、よくここに来るんですか」

「そうだよ。今は、週に三日は来る」

「ひとりで?」

「うん。ここで働いているんだよ」

「だから、忙しかったんですね。ミチさんは、ここで新しいプロジェクトをやっているんですよね。何をしているんですか」

 トビーの瞳は、新しい世界を見つけた子どものように輝いている。

「別に、たいしたことじゃないよ」

 道継はそっけなく答えたが、トビーの無邪気な表情は、思わず抱きしめたくなるほど愛おしかった。



「AIで映画を作っているんだよ」

「AV映画ですか」
 トビーがおどけた顔をした。

「そんなわけないだろ」

「冗談ですよ」

「トビーも冗談を言うのかい」

「言いますよ。最近はチャンスがないけど。ミチさんが作るのは、どんな映画ですか」

「ファンタジー、バトル、転生もの、何でも」

「今は何を作っているんですか」

「中華風のドラマ」

「おもしろそうですね。ミチさんは、作ることが好きなんですね」

「というか、今は、好きなものを探しているところなんだ」

「その中華ドラマ、見せてください」

「あとでな。今日はもう働かないから」

「どうして」

「トビーは明日、勤めがあるだろ。今日は目いっぱい遊んで、夕方、送っていくよ」

「駅まで送ってくれたら、電車で帰ります。夜までミチさんと遊べるなんて、うれしいなぁ。遊ぶのとか、久しぶりです」

「友達とかいるんだろ」

「えっ」

「この間、うちまで、迎えに来てくれた友達」

「ああ。あの友達ですか。夜中でも、迎えに来てくれる友達がいます」

「よかったな、そういう友達がいて」

「はい。最近は便利ですよね。すぐに来てくれますから」

「へー、慕われているんだな」

「そうですよ」

 とトビー足をばたばたさせながら笑った。

「トビーはグループのの中では、騒ぐタイプなのか」

「騒いだことですか。ぼく、一度も騒いだことなんか、ないですよ。でも、おもしろい」

「何がおもしろいんだ」

「ミチさんをからかうことですよ。ぼくの友達の名前はウーバー」

「こいつ。そうだったのか」

 道継が呆れた顔をして、笑った。

「だまされましたか」

「トビーはそういうことを言う奴なのか」

「そうですよ。友達なんかいません」

「あの夜、言えば、送っていったのに。今日は遊ぼう。近くにきれいなビーチがある」

「行きたい」

「でも、トビーは太陽アレルギーだったね」

 トビーが窓から首を出して、空を見上げた。

「こんなの、大丈夫ですよ。ハワイとは全然、光線の強さが違うから」

「よし、行こう」