きみのいる夏

 数日後、今度は道継が、ラーメンのお礼にランチへ招待した。

 やって来たトビーは、ピンクのシャツを着ていた。

 しゃれたイタリアン・レストランで、メニューを見ているトビーの指先に、黒いマニキュアが塗られていた。

「どうしたんだ、それ」

「マダムに勧められたんです。どうですか」

 トビーが指先をひらひらと動かした。

「やめろ。トビー、きみはマダムに言われたら、何でも言うことを聞くのか」

「そんなことないです。でも、爪にマニキュアを塗ったくらいで、どうしてそんなに怒るんですか」

「じゃあ、耳に穴を開けろと言われたら開けるのか。タトゥーを入れろと言われたら入れるのか」

「タトゥーなんかしませんよ。でも、マダムにはピアスを勧められています」

「そんな店、辞めろよ」

「ピアスなんか、みんなしていますよ」

「『みんな』じゃない。人に言われるまま変わるなって言ってるんだ」

「踊らされてなんかいません」

 トビーは真っすぐ道継を見た。

「ぼく、ファッションに興味があるんです。あの店に入って初めて、自分が本当にやりたいことはデザインなんじゃないかって思ったんです。マダムから学ぶことも、たくさんあります」

「本気か」

「はい。大学を辞めて、専門学校へ行くというのはどうですか。二年で卒業できるらしいし、就職先も紹介してくれるそうです」

 道継は黙ったまま、トビーを見つめている。

「いい話じゃないですか。ぼくなんか、大学を出たって、どこへ就職できるか分からないんだし」

「それなら、勝手にすればいい。おれは仕事があるから帰る」

「ミチさんの仕事っさて、どんな仕事ですか。ミチさんは、お金の心配なんかしたことがないし、働いたこともないから、そんなことが簡単に言えるんです」

 トビーの瞳には涙が光っていた。

「そうだな」

 道継が無表情で言った。

「おれは金の心配をしたこともないし、働いたこともない人間ってことだな」

 道継は伝票を手に取り、席を立った。

「ミチさん」

 トビーが呼びかけても、道継は振り向きもしない。

*

 次の週の休みの朝、黒い帽子をかぶり、白いTシャツに半パン姿のトビーが、道継の家の周囲をうろうろしていた。

「ミチさん、おはようございます」

 思い切って、テキストを送る。しかし、返事はない。

「今日は休みです。ミチさんは、何をしていますか」

「近くまで来たので、寄りました。元気かなと思って」

 何度送っても反応がないので、諦めて駅へ向かおうとした時、突然、電話が鳴った。

「トビーか」

 道継の声は、威圧的だった。

「はい」

 トビーが小さな声で答えた。

「どこにいるんだ?」

「ミチさんの家の近くです」

「門の近くで待っていろ。二十分くらいで、そっちに着くから」

「はい。待っています」

 トビーは、道継からすっかり嫌われてしまったのではないかと心配していた。しかし、ようやく話ができたので、ほっと胸を撫で下ろした。

 間もなく、道継が運転する黒いトヨタRAV4が到着した。

「乗れよ」

 道継が中からドアをあけた。

 トビーは助手席に乗り、シートベルトを締めた。