きみのいる夏

 南青山の「La Maison de Setsuko(ラ・メゾン・ド・セツコ)」は、表参道の大通りから少し入った、静かな路地にあった。

 常連客は女優、モデル、経営者夫人などらしい。店主のマダム・セツコが、海外の展示会などで選んだ服を置いている。

 白い漆喰の壁には、古いフランス製の鏡が掛けられている。並んでいる服の数は少ない。そのぶん、一着一着が広い空間の中で引き立っている。絹のブラウス、仕立てのよいジャケット、柔らかなカシミヤのコート。

 道継が外で待っていると、灰色のシャツに茶色のパンツを合わせたトビーが出てきた。すごくかっこよくなっている。

 近づこうとした時、中年の女性が後から出てきて、店のドアに鍵をかけた。

 ふたりが歩きだしたから、後をついて行くと、近くの美容院へ入った。

 女性はしばらくすると出てきたが、数時間後、トビーが店から出てきた時には、髪の色が変わっていた。

 黒かった髪は、光を含んだ金色になっていた。

「トビー」

「ミチさん、どうしたんですか」

「この前を通りかかったら、きみが見えたんだ。仕事も変えたし、髪の色も金髪にしたのかい」

「変ですか」

「変じゃないけど」

「似合っていますか。自信はないけど」

「似合っているよ。ただ、急に変わったから、驚いた」

「前に、変えてみたいとは思ったことがあるんです」

「久しぶりに、晩御飯どう?」

「いいですね。でも、条件があります」

「なに?」

「今夜は、ぼくに奢らせてください」

「いいよ」

「でも、すごく高いところはだめですよ」

「そんなの、どこでもいいよ」



 歩き始めると、トビーがスキップするように少し前を歩き、振り返った。

「最近、メールがないから、嫌われたかと思っていました」

「おれこそ、迷惑かと思っていたんだ」

「そんなこと。迷惑なはずがないです。でも、ぼく、ミチさんとは付き合えないと思っていました」

「どうして?」

「だって、三十万円の靴を買う人なんて、ぼくにとっては雲の上の人です。それも、よく試着もしないで買うんだもの」

「親の金を使っているわけじゃない。自分で稼いだんだ。ちょうどまとまった金が入ったところだったから。おれにしても、無理をしたんだぜ」

「そうなんですか」

「だって、トビーが一足も売れていないと言っていただろ」

「ぼくのために……」

「普通は、あんな高いもの買わない」

「本当ですか。でも、靴のこと、よく知っていますよね」

「あれくらい、普通だろ」

「そうかもしれない。ぼくが知らなすぎただけで」

「今夜はどこへ連れて行ってくれるの?」

「名古屋の店で、台湾ラーメンとニンニク入りチャーハンです。辛いの得意ですか」

「大好物だよ」

「それなら、よかった。すごい人気ですよ。行列、平気ですか」

「平気」

 道継は、これまで食べ物屋に並んだことなどなかった。

 けれど、トビーとなら、それも面白そうだと思った。

*


 ラーメンの後のコーヒーは家で飲もうということになった。

「おれ、コーヒーにはちょっとうるさいんだ」

「ああ、ミチさんはそういうイメージです」

「そうなのかい。トビーに、うるさいものはあるのかい」

「うーん、ないです。でも強いて言えば。いや、いいです」

「強いて言えば、なんだよ。言えよ」

「帽子かな。つばの大きさとか、向きとか、どのくらい曲げるとか、うるさいです」

「なるほどね」

 ふたりは笑いながら、道継の車で、家へ向かった。

*

「おいしかったけど、すごいニンニクの臭いだ」

「ミチさん、ガールフレンドいますか」

「急に、どうして」

「明日の土曜日、デート、ありますか。この臭いじゃ、女の子に嫌われますよ」

「そうだな。トビーはどうなの?」

「ああ。ぼくは馬鹿だ」

 トビーが頭を抱えた。

「明日、仕事があるんだった。マダムににらまれるかな。必死で歯磨きしよう」

「ちょっと待って」

 そう言って、道継はAIで調べた。

「完全に消えるまでは四十八時間くらいかかるけど、緑茶、牛乳、リンゴ、コーヒー、ガムは効果があるらしい」

「牛乳にガムですね。帰りにコンビニで買います」

「それとサウナ」

「サウナ?」

「汗をかけば少しは違うかもしれない。そうだ、コーヒーのあと、サウナに行こうか。会員だから入れるよ」

「はい。お願いします」



「トビー、サウナは初めて?」

「……じゃないけど」

 そう答えたものの、その様子はどう見ても初心者だった。

 ふたりが浴場へ入ると、白い蒸気が天井近くに漂い、照明の光をぼんやりとにじませていた。壁際の洗い場ではシャワーの音が絶え間なく響き、湯の流れる音が重なっている。

 まずは体を洗い、四十二度ほどの熱い湯につかる。

「やばい」

 みるみるトビーの頬が赤くなり、耐えきれずに浴槽から飛び出した。

「早いぞ」

 道継は笑いながら立ち上がり、そのままサウナ室へ向かった。

 重い扉を開けると、乾いた熱気が一気に押し寄せる。

「やばい」

 トビーがタオルで顔を押さえた。

「トビー、座れよ」

 木の香りに包まれた室内。熱せられた木壁からじりじりと熱が伝わってくる。

 ふたりは段になった座席へ腰を下ろした。ほどなく汗がにじみ始める。

 道継は静かに目を閉じ、自分の限界と向き合うように座っている。

 一方、トビーは額から流れた汗が頬を伝い、胸元へと落ちていく。息を吸うたび、熱気が肺の奥まで入り込むようだった。

「やばい。限界」

 トビーが立ち上がった。

「まだだろ」

 道継がタオルをつかんだが、トビーはタオルだけを残して外へ逃げ出した。

 少しして道継が出ていくと、トビーは水風呂の前で立ち尽くしていた。

「何してる。入れよ」

 青白い照明に照らされた水面が静かに揺れている。

「冷た過ぎる」

「行くぞ」

 道継はさっと飛び込み、肩まで水に沈んだ。

「来いよ」

 トビーがおそるおそる片足を入れると、道継はその手をつかみ、ひょいと中へ引っ張った。

 冷水が全身を包み、トビーは息をのんだ。

「爽快だろ」

「死ぬ」

 トビーは水風呂を飛び出し、四十度の湯船へ逃げ込んで、ようやく大きく息をついた。

 そこへ道継がやって来た。

「さあ、もう一セット」

「まだやるんですか」

「三セットはやらないと」

「ぼくはもう限界です。ぼく、本当はサウナって初めてなんです。あんなに大変だと思わなかった」

「そんな気はしてた」

「よくあんなことできますね」

「気持ちいいよ。五セットやったこともある」

「いや、死ぬ思いでした。これ、拷問です。何でも白状しちゃいます」

「何でも白状か」

 と道継が笑った。

「トビーは肌が薄いんだな。だから繊細なんだ」

 トビーは風呂だけで切り上げ、一足先に更衣室へ向かった。

 しばらくして、道継がさっぱりした顔で出て来た。

「ぼく、牛乳を三本飲んだけど、まだ臭いますか」

「また腹をこわすぞ」

 トビーが顔を近づけ、ふっと息を吐いた。

 道継は思わず、そのきれいな唇の形に目を奪われた。

「臭いですか」

「あ……まだ少し」

「じゃ、明日、マスクをしていこうかな」

 トビーはまだ不安そうに、自分の手に息を吹きかけた。