きみのいる夏

「仕事、ゲットしました。ありがとうございます」

 その夜、トビーから短いメールが届いた。

 翌日、道継はその靴屋「長曾根」に行ってみた。

 店は渋谷駅から少し離れた坂道の途中にあった。大きな看板は出していない。英国風の黒い木枠のガラス扉の向こうには、職人の手仕事を感じさせる革靴が並んでいた。

 しかし、入る気にはならず、その日はそのまま千葉へ向かった。用事があり、三日ほど出かけていた。

 東京に戻った日に、メールを送った。

「靴、売れているかい」

 トビーからはすぐに返事が来た。

「だめです。まだ一足も売れていません」

 泣き顔の絵文字がついていた。

 翌日の昼前、道継は「長曾根」を訪れた。

「いらっしゃいませ」

 それほど広くない店内には、トビーがひとりだけいた。

「ひとり?」

「はい。マネージャーはランチに出ています」

「ちょうどよかった。今日は靴を買いに来たんだよ」

「どんな靴をお探しですか」

 トビーがさっそくセールスモードに入った。

「この店には、日本の職人さんのビスポーク靴はあるの?」

「なんですか、それ」

「注文靴」

「やってないです、そういうのは」

「じゃあ、ジョン・ロブやエドワード・グリーンは?」

 トビーが、ええっという顔をした。

「調べてきます」

 英国風の店内はそれほど広くはなく、片側には紳士靴、反対側には婦人靴が並んでいる。

「エドワード・グリーンがありました」

「じゃあ、ドーバーの茶系を見せてくれますか。サイズは27.5」

「わかりました」

 トビーは奥から八個の箱を重ねて運んできた。

「よくわからないから、全部持ってきました」

「ありがとう」

「ミチさんは、靴のことをよく知っているんですね。勉強になります」

「この黒もいいなぁ。茶系でなくて、黒にしようかな」

 道継は黒いほうに足をいれて、すぐに脱いだ。

「これにする」

「そんなに早く決めないで、両方履いて、歩いてみてください」

「これは知っているし、もともと試さないほうなんだ」

「高いのに。金持ちは違いますね」

「違うよ。一度、これだと決めたら、それに合わせるタイプなんだ」

「へー。そんなタイプ、あるんですか」

「あるよ」
 
 トビーが箱を片付けだた時、三、四十代くらいの女性が二人入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 トビーが微笑んで会釈すると、婦人たちは顔を見合わせて笑った。

「この店員さん、ものすごく親切ですよ。買いたくなりますよ」
 と道継が立ち上がった。

「じゃあ、私たちも、そのお若い方にお願いしようかしら」

「はい。では、少々お待ちください」

 トビーは丁寧に頭を下げ、男子靴の箱を抱えたから、道継は財布からクレジットカードを取り出した。

「おれのは、包まなくていいから。さっと紙袋に入れて」

*

「今日は四足も売れました」

 その後も、トビーからはよくメールが届いた。道継がテキストよりメールを好むので、そのスタイルになったのだった。

「ぼくは毎晩、靴の勉強をしています。世界が広がる感じです」

「今日は七足、店の新記録だそうです。やった」

 道継がお祝いをしてやろうと思った矢先、別のメールが届いた。

「ぼくばかり売れるから、マネージャーにいじめられています」

 今度は、泣き笑いの絵文字がついていた。

 三日後、道継が靴屋に行ってみると、トビーはそこではもう働いていなかった。

 道継は、すぐにメールを送った。

「仕事、辞めたの?」

「どうして」

「……」

そこまで親しいわけではないのに、聞きすぎてしまったかと道継は後悔した。

「でも、大丈夫です。次の仕事が見つかりましたから」

「どこ?」

「大丈夫です。心配しないでください」

 トビーは新しい仕事のことは話したくないらしい。

 そうか。たった二、三回会った他人に、これ以上は関わってほしくないということなのかもしれない。

 それはそうだ。相手が望んでいないのに、しつこくするのはよくない。

 道継自身にも経験がある。しつこくされるのは、誰だって好まないだろう。


*

 道継はよく千葉の海の家に出かけるのだけれど、やはり気になったので、行く
前に、あの靴屋に寄ってみることにした。なんというしつこさだと、自分でも、いやになったのだが、まあ、誰にもわからないことだ。

 彼は客を装って店にむはいり、それとなく、トビーのことを聞いてみた。

「あの子は、お客さんに引き抜かれたんですよ」

 マネージャーが苦々しい顔をした。

 その客というのは、南青山で高級ブティックを経営しているマダムだという。

「あのマダムは、美少年を見つけて、自分好みに育てるのが好きなんです。トビーを見て、『あなたは女性に夢を売れる顔をしている』と言って、高給を保証したみたいですよ。あいつは金に弱いから」

「誰だって、金には弱いじゃないですか。あなたは金に強いんですか」

 道継の態度が変わったので、マネージャーが眉をひそめた。

「なんですか、急に」

「誰だって、いじめられたら、店を移りたくなるでしょう」

「あんたは、トビーの何なんですか」

「兄的存在ですよ」

「それだけですかね」

 マネージャーの唇が、醜く曲がった。