「今タクシーで家に着くから、十分くらいしたら、玄関で待っていて」
「えっ、どういうこと?」
道継の質問が終わる前に、母親の広美の電話が切れた。時計を見ると、午後の一時を過ぎたところ。
道継が最初に思ったのは、仕事先で母親の具合が悪くなり、急いで帰宅する、ということだった。それなら、病院に行けばいいのに。
しかし、車で通勤している母が、タクシーを使うとはどういうことだ。それに、勤め先には専用の運転手もいるのに。
あれこれしているうちに十分が経ったので、門の前で待つことにしたが、七月の太陽が眩しい。
予定より少し遅れてタクシーが着いて、まず母が下りてきた。
「手伝ってちょうだい」と言って、後方でぐったりとして窓に寄りかかっている青年を引っ張り出した。
母はタクシーを待たせたまま、ふたりで痩せた青年を家に運び入れた。顔が白い。
「注射のせいで寝ているから、悪いけど、目が覚めたら、おかゆでも食べさせてあげて。それから、お風呂を用意して」
「いいけど。何が、あったの?」
「デリカ部の子なんだけど、急に倒れたのよ。あわてて病院に連れて行ったら、赤痢ではなくて、急性胃炎だったのでひと安心したけど、ひとり暮らしだから、このまま帰すわけにはいかないわ。変な噂が流れたら困るから、店に戻るから、あとはよろしく」
「わかった」
玄関ホールに青年を残したまま、母は玄関を出ようとして、振り返った。
「ユニホームが汚れているから、あなたの服、なにか貸してあげて。私が帰るまで、帰してはだめよ」
見ると、彼の白いユニフォームの胸のところに、茶色の染みがついている。
「わかったよ。ところで、名前は」
「長谷川くん」
母は下の名前を告げないまま、待たせていたタクシーに向かって走って行った。
母の睦木広美《むつきひろみ》は渋谷の「スーパームツキ」の社長である。
その店は、祖父の睦木大道《むつきだいどう》が創立した高級スーパー。もともとは大道のひとり息子の一道《いちどう》が継ぐはずだったが彼はビジネスを嫌い、離婚した後は、妻だった広美が経営をまかされている、という変わったケースである。
広美は高校を出てからムツキで働いており、長男の嫁になったのも、社長になったのも、その働きぶりが大道に買われたからなのである。
それは、惣菜部のパートが倒れたからと聞いて、広美自ら病院に連れて行き、ノロウイルスやサルモネラ、感染性胃腸炎ではないことを証明してもらい、彼を自宅に連れて帰る、という行動を見てもわかるだろう。
*
道継は彼の上着を着替えさせ、自分の部屋のベッドに横たえた。そのほうが、仕事をしながら、見ていられると思ったからだ。
二時間ほどすると、長谷川くんが動いた。
「ここはどこですか」
眉をしかめて戸惑っている顔は、若い。少し頬に色がついてきた。
「ムツキの家です」
「ムツキ?」
「スーパーの社長ムツキの家。おれはその息子」
「まずい」
長谷川くんがうろたえたように目を瞬かせた。その困ったような表情が思いのほか愛らしく、道継は笑いをこらえきれなかった。
「すみません。ああ。どうして、ここに」
「スーパーで具合が悪くなって、病院に行ったんだろ」
「あ、はい」
「きみの名前は、長谷川」
「長谷川トビー」
「トビー? ハーフ?」
「いや」
「それって、まさか、飛びこみのトビかい」
「まあ、そんなところです」
「おれは睦木道継《むつきみちつぐ》、その名前は好きじゃないから、ミチと呼んで」
「わかりました、ミチさん。いろいろすみません」
「何か食べる? 粥を食べるかい。それよりも、風呂にする?」
「ぼく、くさいですか」
「いや。母がそうしろと言ったんで」
「じゃ、シャワーを借りてもいいですか」
「もちろん」
道継は、タオルとシャツをもってきて、トビーに渡した。
「おれのだけど、ちゃんと洗ってあるから」
「そんなこと。ありがとうございます」
シャワーの音を確かめてから、道継はキッチンに行って、スマホで作り方を見ながら、粥を作り始めた。なぜか自然と鼻歌が出た。
*
広美は店に戻って、キャビネットから従業員ファイルを取り出した。
「長谷川飛波入《ハセガワトビイ》」
彼は一週間前から働いているアルバイトである。
なんてキラキラ名前、
「まるでサーファーみたいじゃない」
そう思ったら、両親はサーファーで、インドネシアに住んでいた。
長谷川飛波入は、修永大学の一年生。
「大学生なんだわ」
*
突然、奥のほうから、ドンッという鈍く響く大きな音が聞こえたので、道継はガスの火をオフにして、シャワー室に行ってみた。
「音が聞こえたけど、大丈夫かい」
返事がないので、浴室のドアを開けると、硝子のシャワー室の中で、彼が頭を抱えながら、うずくまっていた。
「転んだのか」
道継はトビーの手を引っ張って起き上がらせ、肩を抱いて、脱衣室に座らせた。
「すみません」
「見せて」
道継はトビーの手をどけると、額の横をのぞき込んだ。打ったところがうっすらと盛り上がり始めているが、血は出ていなかった。
道継が冷たいタオルを持ってきた。
「床がぬめっていたのか」
「いや、ちょっとよろけてしまって」
ピンクいろの頬をしたトビーが申し訳なさそうに見上げた瞳で、道継を見た。
「あ、これを着て、キッチンに来て」
「はい」
白いTシャツを着たトビーがキッチンにやって来た。
「すみません」
「そんなの、いいから。そこに座って」
道継はアイランドテーブルのスツールを引き、トビーをそこへ座らせた。トビーは足掛けに足を乗せると、小さく顔をしかめながらタオルで額を押さえた。
道継は小皿に出した酢を指先につけ、それをトビーの額に塗った。
「これ、効くんだ」
「痛い。何ですか、それ。あっ、酢だ」
「臭いはするけど、こぶにならない」
「そうなんですか」
「うん。おれの時には、効いた」



