エンドロールは最後まで

どんなに雨が降ろうとも当たり前のように明日がやってくる。そうやって今まで地球は回ってきたとも言う。いつもと同じ時間。いつもと同じ道。昨日は雨が降ったからかアスファルトにはまだ水を含んでいた。人の流れに紛れながら歩いていると見たことのある背中が視界に入ってくる。案の定、綾城瑞樹だった。ひと目でわかる。昨日も、一昨日も見た瑞樹の背中。少しだけ足が止まろうとしたがそのまま歩き出す。ほんの一瞬、距離が近くなる。それなのに昨日よりずっと遠い。振り返れない。胸の奥がまたわずかに痛んだ。夜。結局何も話さず日が沈んだ。ふとLINEを見返す。瑞樹との最後のメッセージは"ありがと"とだけ返された何の変哲もないものであった。なにか話そうと思い考えてるがただ携帯の画面を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。意味もなくスタンプ一覧を開いてみる。そして、閉じる。そのとき突然ぽん、通知が鳴る。
"明日授業は?"短い問いなのに瑞樹からの連絡というだけで息止まる。迷いながらも文字を打つ。
"午前中だけです"送信するとすぐに既読はついたが返信はなかなか来ない。携帯の画面を伏せ、枕に顔を埋める。

別の日。今日も雨が降った。瑞樹から返信が来ることなくいつもどおり講義を受ける。ふと顔を上げると瑞樹と目が合う。今日は前の方の席に座っていた。ほんの数秒の短い時間がやけに長く感じる。同じ講義を取っていたのなら言ってくれればいいのに。そんなことを心中で呟いた。先に目を逸らしたの自分だった。黒板に視線を戻す。チョークの音が講義室全体に響く。目が合ってから瑞樹を意識してしまって講義の内容なんて全然入ってこなかった。

「(なんなんだ……)」

瑞樹から返信が来ないまま気づけば四日が経っていた。今日の映研の部室はカーテンが閉まっておりいつもより薄暗かった。プロジェクターの光だけぼんやりと部屋を照らしていた。画面の中では誰かが笑っているのに、内容はほとんど入ってこない。映画を見ながらノートの端に意味もなく線を引く。まただ、小さく息してそんなことを思う。気づけば同じことを繰り返している。そんな自分に心底うんざりする。

「滝」

不意に、聞き慣れた声に呼ばれ肩が揺れる。ゆっくりと振り返ると部室の入口に立っていたのは綾城瑞樹。カクテル研究会の部長で、俺と連絡を四日も取っていない先輩だった。

「綾城先輩?」

思わず立ち上がりかけて中途半端に止まる。周りの視線が一斉に集まった。俺を呼ぶ声と同時にひそひそとした声が耳を通り抜ける。そんなことは気にする様子もなく、瑞樹は真っ直ぐこっちを見ていた。

「ちょっと来い」
「え、いま……」

有無を言わせない言い方で短く言う瑞樹に咄嗟にそう返す。逃げたいわけじゃない。だからこそ、言葉に詰まる。その沈黙を肯定と受け取ったのか瑞樹は外を指さし、「外で待ってる」とだけ言ってさっと背を向ける。引き止める間もなくばたんと扉が閉まって残された空気がざわめく。

「あれ、綾城?滝呼ばれてたけど行かなくていいの?」

「別に……」曖昧に返すと中野先輩が察したかのようにニヤリと笑って俺の肩を持って扉の方へ引きずる。

「ゆずるん!行ってらっしゃい!」
「ええ……?」

半ば……いやほぼ強引ではあったが俺は部室の外へ出た。廊下の空気がひんやりしていた。数歩歩いた先に壁にもたれるようにして瑞樹が立っている。スマホを見ていた視線が顔を上げてこちらを向く。

「来たな」
「遅くなってすみません」

短いやりとりが妙にぎこちない。先に口を開いたのは瑞樹だった。

「避けてる?俺のこと」
「避けて、ないです」

ド直球。あまりの直球さに脳の思考回路が止まる。出たのは自分でも驚くくらい小さくて情けない声。また、やってしまったと思う。自分でも嫌になるくらい同じことの繰り返し。

「ふーん」

興味なさそうな相槌が耳に刺さる。だけど、その目は変わらず俺を見ていた。

「じゃあ、来い」
「どこに?」
「いいから。ついてきて」

それ以上の説明はなく、容赦なく歩き出す背中。迷いながらも後を追う。外に出ると空はまたどんよりと曇っていた。雨は降っていないけどいつ降ってもおかしくない鼠色の雲。距離は微妙に開きながらも隣を歩く。

「……サークル戻んないと」
「大丈夫、波多野に許可取った」

ぽつりと呟くといつもより鋭い目線が俺に向けられる。だけど、許可取り済みらしい。まったく抜け目がない。まるで俺の逃げ道を全て塞いでいるかのように。

「ここ俺の家」
「え」

しばらく歩いて見慣れない道に入ったと思えばあっさりと返される。「行くぞ」と言われるが足が少しだけ止まる。だけど、結局ついて行くしかなかった。恐る恐る部屋に入っても会話と言える会話はしていない。

「適当に座って」

どこか違うようないつも通りの声。言われた通りソファに腰を下ろすけど落ち着かない。視線の置き場がなくて手元ばかり見つめてしまう。少しして、コップを置く音。

「はい」

差し出されたコップを受け取る指がわずかに震える。
俺は、なんでここに……。

「……で、何?最近、避けてるだろ」

攻めるわけでもなく、でも逃がさないみたいな響きの低い声。心臓がどくんと脈を打つ。

「別に」
「"別に"で済ませる気?」

反射で出た言葉。その一言で空気が張り詰める。わずかに近くなる距離に思わず目を逸らす。じゃあ、なんであの日……。言いかけて止める。喉の奥で引っかかったまま続きが出てこない。言ったら終わる気がした。そう思ったのに。

「……綾城先輩が、楽しそうだったから。あの人といるとき。だから、別に……俺いなくてもいいかなって」

絞り出すみたいに声が落ちる。自分でも驚くくらい小さな声だった。いい終わった瞬間、しまった、と思って頭を掻く。でも、遅い。頭を上げられない。終わった。変に思われた、絶対。

「は?」

少し間の抜けた声。顔を上げると瑞樹がこちらを見ていた。呆れたようなどこか拍子抜けした顔。

「なにそれ」
「え……」
「いや、待って。まじでそれで避けてたの?」

手のひらの分だけまた距離が縮まる。「……だって」と言いかけた声が言い訳するみたいな声になる。

「恋人が、いるんじゃないですか」
「……違うけど」

戸惑いながらもあっさりとした低い声で否定する。

「あの人ってまず誰?俺恋人とかいないし……つーか、」

脳の処理が追いつかないまま瑞樹は続ける。

「滝さ、俺がお前のことどう思ってるか、分かってないの?」

視線が真っ直ぐ向けられる。逃げられない。沈黙を埋めるように鼓膜に届いていた雨の音も今は全部聞こえなくて瑞樹の声だけであふれる。

「……え」

それしか出てこない。次の瞬間、ぐっと腕を引かれて一気に距離が詰まってすぐそこにいる瑞樹の視線に焼かれそうになる。鼻と鼻がぶつかりそうなほどの距離だった。

「他のやつといるだけでそんな顔するくせに。俺がどんな気でいたかも知らない?」

視界が全部瑞樹で埋まる。その一言で崩れる。言葉にならない。顔が熱いのも、息が上手くできないのも。全部が胸に押し寄せてくる。


「滝」

名前を呼ばれる。今度はさっきよりも柔らかい声で。ぽん、と軽く頭を撫でられる。それだけなのに心臓がうるさい。

「……ちゃんとこっち見ろ。お前のこと、好きだって言ってんの」

意味が分からない。遅れてじわじわ理解が追いつく。声が出なくて。

「だから、変なとこで拗ねんな」

少しだけ困った顔をして笑う。その言い方がいつも通りすぎて。なのに、聞こえる言葉全部が違って聞こえて。

「綾城先輩……ずるいです」

気づけばそんな言葉があふれていた。

「ずるいのはどっちだよ」
「今まで普通だったのに」
「普通じゃねえよ」

さらっと言われて余計に心臓が落ち着かない。

「……ほんとに」
「ほんと」

間髪入れずに返ってくる。もう逃げ場なんて出会った時からずっと無かったのかもしれない。言葉にするのを拒んできた感情を震える声で、

「綾城先輩、俺も……好きです」

終わりすらも曖昧で顔を逸らす。耐えられない。また軽く引き寄せられてうるさい心臓の音だけが響く。寄せられた胸も、同じくらい熱に帯びていてうるさかった。

「……まじか」

小さく笑う声に恐る恐る顔を上げると瑞樹がまた困ったみたいに笑っていた。

「今の、撤回なしな」
「しませんよ」
「ふーん?」

即答してしまって余計に恥ずかしい。ミリ単位で近づく距離にさっきまでとは違う意味で、逃げたくなる。

「お前、やっぱずるいわ。もう遠慮しなくていいよな」
「ちょっと……綾城先輩、」
「先輩じゃなくていい」

被せるように言われる。

「今更それで距離取られんの、無理」

言葉が詰まる。名前を呼ぶなんてそんな急に。無理なのはこっちの方だ。

「ほら。呼んでみ」
「綾城、先輩」
「だから"先輩"いらねえって」

逃げ場がないながらも、最後に逃げる。くすっと笑われるその余裕が悔しい。

「……綾城さん?」
「さんもいらねえ。好きなら、対等でいたい」
「じゃあなんなんですか……」

半分拗ねたみたいに言うと、「名前、呼び捨てでいい」今まで聞いたことない甘えたような声が言われた。

「無理です。無理なものは、無理です」

そっぽを向いて瑞樹に背を向ける。すると、肩を強く掴まれて強制的に顔を向けられる。それから頬をつままれて顔が歪む。

「慣れろ」
「急すぎです!!!」
「じゃあゆっくりでいいから。その代わり、逃げんな」

真っ直ぐな視線で。同じ言葉をかけられるが、全く意味が違う。

「顔、赤い。酒飲んでないのに」
「誰せいだと思って……」
「かわいい」

瑞樹がニヤリと笑ってそう言って思考が止まる。何を言われたのか理解するまでにほんの少し時間がかかる。

「……は?」
「かわいいって言った」

ようやく出た言葉は自分でも驚くくらい間抜けだった。
追い打ちをかける瑞樹の言葉。わざわざ言い直さなくてもいいのに。なんなら、言い直さないで欲しかった。
「やめてください」言いながら顔を手で覆う。顔が熱い。瑞樹の家に来てからもうずっと恥ずかしい思いしかしていないのに今の一言だけでも全部ひっくり返されたみたいだ。

「なんで?」
「なんでじゃないです」
「だってかわいかったから」
「無理ですほんとに……」

笑いを含んだ気配がする。それだけでさらに恥ずかしい。瑞樹は絶対面白がっているのだろう。こっちはこんなにどうしていいか分からなくて、顔が熱いのに。

「性格悪い」
「今さら?」
「それ自分で言うことじゃないですよ」

くす、と笑う声。案の定面白がってる。でもその声を聞いているうちに苦しかったはずの心臓が少しずつ落ち着いて軽くなっていく。恥ずかしいし、落ち着かない。どうしたって心臓の脈を打つ速さは速くなっていくのに不思議と嫌な気持ちにはならない。むしろこうやって笑ってくれることが嬉しい。余韻による沈黙。来た時とは違って居心地悪くない。何かを言わなきゃ行けない訳でもないのにただ隣にいるだけで心が満たされる。

「滝」

優しい声に名前を呼ばれもう何度目か分からないけど目が合う。今度は、逃げなかった。瑞樹の表情から揶揄うみたいな笑みが消えている。

「ほんとにいいんだよな。後悔しねえ?」

その言葉に数秒考える。ここで頷いたらもう本当に戻れない気がする。ただの先輩と後輩ではいられない。だけど、俺はこの人がいいって、何度も頷く。

「しません。絶対」

瑞樹は満足そうに短い返事をして笑う。その笑顔を見てなんだか急に肩の力が抜ける。脱力して瑞樹の肩を借りた。

「じゃあ、ほんとに俺のもんってことで」
「……言い方!」

講義しかけた言葉は途中で止まって、時計の針が止まったかのように一瞬、世界の音が消える。額に、軽く触れる柔らかな感触。何が起きたのか分からなくて固まった。触れられた場所だけがそこだけ別の温度になったみたいに熱い。

「今のは軽め。ちゃんとしたのはまた今度。俺って印、つけないとな」

近すぎるくらいの距離から離れながらそんなことを言ってさらって爆弾を投下する。また今度って……。俺、何をされるんだ。いや、考えるな。考えたらまた顔が熱くなる。顔を隠そうとするとその手を取られて慌てて引っ込める。それすらも面白いのか瑞樹はまた笑った。

「……心臓もたないです」
「慣れろ」
「無理です」

さっきと同じ言葉なのに今は少しだけ嬉しい。無理ですなんて言いながら笑いそうになる。そんな俺を見て瑞樹は何も言わずに笑った。それだけで胸が騒がしくなる。帰り際、玄関で靴を履いていると瑞樹が当たり前みたいに「送る」と言った。

「もう遅い時間だし、大丈夫です。ひとりで帰れます」
「知ってる。けど俺が送りたいの」

あまりにも自然に言われて返す言葉ない。結局夜道を並んで歩く。いつもと違う見慣れない帰り道。その隣には瑞樹がいた。ちらっと見る横顔も首が長くて、スッとした鼻筋。鋭い目と不規則に光るピアス。こんなにかっこいい人が俺のだなんて。ただの先輩だった人が恋人になった。そんな事実を歩くたびに遅れて実感する。瑞樹はなんでもない顔をして歩いている。なんでそんな普通にしていられるのだろう。俺ばかり意識しているみたいでなんだか悔しい。

「滝」
「はい」
「明日も来いよ、俺ん家」
「……考えときます」

とりあえず、そう返した。内心ではもう決まっている。行く。行きたい。でも即答するのはなんとなく悔しくて曖昧に濁す。

「あ、でも……」

隣を歩いていた瑞樹の眉間にほんの少し皺が寄った。