「きょーや先輩じゃん」
「きょーやせんぱ……?」
その先輩らしき先輩の名前をどうやら知ったらしいのは、それから二週間も経ってからだった。
教えてくれたのは同じクラスの友達で、僕の"欲望"を唯一理解してくれる女子。というか、彼女も同じような動画を嗜み、しかしながら「猫のように大人のお姉さんに甘えたい」という、僕とはちょっとベクトルの違う欲望を持つ友達であった。
「茶髪で短髪でタレ目で背おっきい人でしょ?多分きょーや先輩。てかマジか」
「……なん、なんで知ってんの……?」
「セフレ二十人いるって噂なんだけど。ササやんうける」
絶句。
う、うけねぇ……!全然うけねぇ!あの人そんな人だったのか……!
机に突っ伏し、頭を抱える。この二週間、校内を歩く度にちょっとだけ探していたのだ。あの外階段の踊り場も、ちょくちょく覗きに行っていた。
なのに全然会えなくて、いやべべ別に会いたかったとかじゃなくて、でも「こないだは変なことさせてすいません」をしたくて、もしそこで話が弾めば二回目も……?なんて淡い期待もなきにしもあらずんば……。
……僕、思考回路セフレと一緒じゃない……??
「……ありえねぇ……」
「まじありえん。うちの笹山が汚されちったよ」
「汚されてはないわ……アタシまだキレイなの……」
けらけらと笑う彼女の声に、ほんのちょっとだけ救われる。
セフレ二十人はヤバいだろ……そう言われてみればすんごい距離の詰め方だった。なんかそういう、馴れ馴れしいタイプの人種なんだなと思ったけど、まさかほんとに肉体的に馴れ馴れしいタイプの人種だったなんて……。
(……え、でもさ……?)
……ほんとかな……?とも、思う。
噂じゃん?よくある噂じゃん。や、よくあるかどうかはわかんないけど噂は噂。対して僕は実際に抱かれて正義判定を下した人間。
実際に抱かれてという言い回しは大変に間違えた気がするが、まぁ要するに真実は意外と全然違うかもしれないのだ。
「…………」
いやあの人すんごい軽々しく「可愛いな」って言ってたな……。
思い返すほどに有罪の色が濃くなり、ぐるぐると思考も回る。もちろん先輩を有罪扱いする権利は僕には一ミリもなく、あの人のプライベートがどれほど乱れていようが知ったこっちゃないのだが、――今のところ唯一の"甘やかしてくれる人"なのでだいぶ気になる……!
「……先輩に聞いてみたらウザいかな……」
「本命化はムズくない?」
「いや別に僕セフレじゃねぇんだわ……」
しょうもないやり取りでこの日の昼休みはあっという間に終わって、僕はため息混じりにあの腕などを思い出していた。
その先輩との念願の再会は、そこからさらに四日後。
掃除の係でクラスのゴミを捨てに行ったとき、校舎の裏で女子の先輩にほっぺたを引っぱたかれているトンデモ現場であった。
「さいってー!セフレにすらしてくんねぇのかよ!」
バチーンという破裂音と共にそんな捨て台詞を吐いて、弾けたように去っていくスカートを見送り、――呆然とする僕と、先輩の視線がばっちり合ってしまう。
「お、笹山じゃん」
「っ、ちゃーす……すっげぇとこ見ちゃった……」
「なはは」
他人事のように笑う先輩は、赤くなった頬をさするでもなく、女子の先輩が去って行ったほうを一度だけ見てから僕のそばへ。僕が手に抱えていたゴミ袋を無造作にとって、ぺたぺたと靴を鳴らしながらゴミ捨て場の方へ去っていく。
「ぅ、え、いっすよ先輩」
「んー」
返って来るのは僕の遠慮など何も聞こえていない返事で、ぱか、がさ、とゴミは鉄製の箱に入れられて、ばすんと蓋を閉じた先輩が戻ってきた。けれど片頬が赤い先輩は僕の横を通り過ぎて――、
「笹山おいで~」
「は……?」
――行くが……?
著しくIQの下がった僕、まるで飼い主に呼ばれた動物のようについていく。
"きょーや先輩"かもしれない疑惑は深まった。
セフレ二十人疑惑も晴れてない。
なのに僕は"掃除"と"先輩"を天秤にかけることすらなく、言いなりに……い、いや、違います誤解です、謝らなきゃいけないので……。
ともかく、文句も言わずについていく。
そう、そうだよ謝らないといけないのだ。
「この間は変なことお願いしてすいません」……いや、「なんか気まずいとこ目撃しちゃって」……?
「誰にも言わないんでまた抱っこ……」……あれっ強請る方向になってない……?いけないいけない……。
知能が低下した頭はろくなことを考えていなくて、体育館の裏口の階段に先輩が座るのを見て、やっと現実に戻ってきた。
謝らなきゃ、って思いながら、……ええ、ビンタってめっちゃ指の跡まで残るじゃん……っていうドン引きの顔で、先輩を見る。
「……先輩って"きょーや先輩"ですか……?」
間違えた――。
「え、うん。あれっ言ってないっけ」
しかもきょーや先輩だった……。気まずそうにする僕を見て、先輩が何かを察したような顔で緩く笑う。
「もしかしてセフレ二十人とかいうの聞いた?」
「そっ、すね……現場も見たし」
「はは、信じんだ」
そう言ってわずかに目線を伏せる先輩を見て、――やっちまった、と思った。
なんとも安易に返事をしてしまった。セフレ二十人なんて、もしかしたら全くのデマかもしれないのに。もしそうだとしたら、そんな根も葉もない噂を囁かれて、一番しんどいのは先輩かもしれないのに。
「ホントは二十五人なんだけどね……」
「根も葉もあるじゃねーか……」
ほぼ即時に発車した僕のぼやきに、先輩は驚いたように目を丸くしてみせた。けれどすぐに、目元をくしゃりとさせて笑う。
「んっふ、わはは、冗談!いねぇってセフレ!」
「はっ!?嘘なんですか!?」
「なはははは、いるわけねぇじゃん!やっべうける!」
可笑しそうにする先輩に思わず寄って行ってしまったのは、先輩が僕に向かって両手を広げていたからだ。
"おいで"のようなその仕草に、抗う術は今のところない。何故なら身体はすでに陥落されているため。……ううん、だめだな。言い回しが死んでるんだな僕は。
あの日と同じように先輩の脚に座れば、また頭をぺたりと寝かされる。――首元にくっつけた耳から、まだ低く笑う先輩の声が響いていた。
「んふふふ、あー笑った。最高。皆そうやって信じてんだろうなぁ」
「……ごめんなさい」
「んーや、いいよ。告られんの断ってたらそんなん流されただけ」
低く呟く先輩に、……ふぅん、と思った。
告られるのは告られるんだ。じゃあ女子たちの妬みなのかな。まぁこの人背も高いし、こうしてノリもいいし、正直モテそうではある。……、……そしてなぜ僕はそんな先輩に抱かれているのでしょう……。
僕の腕の片方は、もう当然のように先輩の背中に回っていて、先輩も当然のように僕の肩をとんとんしている。
なによりもこうして、前に一回抱っこしたっきりの後輩のニッチな願望などを、いちいち叶えてくれる意味が分からない。
「……今さらなこと言っていいすか?」
「んー」
「……これはたから見たらどえらい構図じゃないですか……?」
「んっふふふ」
先輩の笑う声が近い。
どえらい構図なんだもの、それは当然、仕方ない。
正面を向いていた先輩が僕を覗き込むようにすれば、僕の鼻先に先輩の口元が来る。
「笹山はさ、下の名前なんてーの」
「だっ、……大樹です」
「だいき……?しょうきじゃん」
「は?身長のこと言ってます?これからっすから成長期マジで」
「やっべ地雷だった」
僕をなだめるように、先輩の手が肩をなでる。僕の膝にも、ぽんぽんと手のひらで"ごめん"をされる。なんだか前よりも構ってくるな、と思ったけれど、そうか、今日は食べ物がないからだ、とも思った。
そんなことを思っている間にも、僕の膝に乗っていた先輩の手のひらが、くるりと膝の裏に回って、ぐい、と僕を、まるきり両足の上に乗せてきた。
いわゆる姫抱きのような形になってしまって、より"はたから見たらどえらい構図"が完成に近づく。
(…………)
……そこまではお願いしてないんですが……と思うものの、僕の口からは一言も文句が出てこない。なぜならこれがまためっちゃサイコー。
身体が地面から離れて、ちょっとの浮遊感があるのに、安定性が抜群。サイコーっす先輩。
「……きょーや先輩なんで彼女つくんないんすか」
「ん~、……あんま特定の誰かに興味ないかなぁ」
「へぇ……」
そんなもんか、へぇ。先輩の胸板から聞こえてくる声が心地よくて、つい目を閉じる。
モテる人にもいろいろあるんだな。それで逆恨みされたり、セフレ二十人とか言われたらシャレになんないな。
そんな人が僕を抱っこしてくれているという現実が、なんだかこう、色々を曖昧にさせていく。
常識とか。どえらい構図とか。
「でも、だいきは可愛いよ」
「あざー……す、いやまだ言うんすかそれ」
笑いながら視線を上げれば、こち、と先輩と額がぶつかった。
にこりと目を細めた顔がもう目と鼻の先で、びくりと固まった僕は微動だにできなくて、先輩の手のひらが、親指が、僕のほっぺをちょっとだけなでていく。
「俺ね、多分甘えんぼちゃんが好きなんだけど」
「……は、はい……」
「女子たちってさ、こう、メロメロ~って感じで来るじゃん。猫なで声っていうか、その先を期待されるっていうか」
――それは……女子に甘えられた経験がないのでわかりませんが……そりゃそうなのでは……?
怪訝そうにする僕に、先輩が口の端で笑う。
「俺の反応を期待してべったべたに甘えてくる女子より、だいきみたいにぺったんこしてくる子の方が可愛い」
「ぺっ……たんこはちょっとわかんないっすけど……」
ぺったんこさせてくれる先輩は正義です……までは、出力しない。言っちゃったら色々まずい気がして。
それきり先輩は、また前に向き直って、体育館裏に生えている樹齢何年かわかんない木を静かに眺めていた。
さらさらと枝葉が風に揺れる音を聴きながら、同時にチャイムが鳴る音を、僕もどこか遠くで聞いていた。
叩かれた先輩のほっぺたはまだちょっと赤くて、けれど身体はやっぱり密着していて、心臓の音が聞こえなければいいなと、ほんの少しだけ思った。
