夕食の時間になると、私は食事処へ向かった。
この宿自慢のビュッフェだ。
これを目当てに、県内外から宿泊客が訪れるという。
入り口には宿泊のお客さんが案内待ちの列を作っている。私は続いて中に入った。
席はテーブル席の半個室。障子越しに漏れる柔らかな灯りが、落ち着いた空間を演出している。
「日光の旬の食材を使用したお料理をご用意しております。どうぞごゆっくりお楽しみください」
年若い女性スタッフが丁寧に頭を下げた。
「おすすめは何ですか?」
そう尋ねると、彼女は一瞬困ったように口を噤む。
(黙っちゃった。会話の内容まではマニュアルに載ってないもんね……)
ふと昔の自分を思い出す。
働き始めたばかりの私もお客様との何気ない会話が苦手だった。
マニュアルに書かれていないことを話すのは、不安で怖い。正解が分からず、一歩踏み出せない。
でも、それではただのお給仕ロボットと同じ。
「アキバさんは、何がお好きですか?」
ネームプレートの名前を呼ぶと、彼女は驚いたように目を丸くした。
「あ……えっと、湯葉のおさしみです」
少し照れくさそうに答える。
「ありがとうございます! じゃあ、まずは湯葉をいただきますね」
私が笑うと、アキバさんもほっとしたように微笑んだ。
たったそれだけのやり取りなのに、心の奥がじんわりと温かくなる。
私は足取り軽くビュッフェコーナーへ向かった。
和・洋・中の料理がそれぞれ並び、奥ではライブキッチンから香ばしい音と香りが漂ってくる。
トレイに箸と紙ナプキンを載せ、目指すはもちろん湯葉のおさしみだ。
日光の湯葉は、京都の湯葉とは少し違うと以前どこかで聞いたことがある。
京都では一枚だけ引き上げる"一枚湯葉"が主流だが、日光では何度も引き上げて重ねる"引き上げ湯波"が伝統として受け継がれているそうだ。
(あった、これだ!)
手のひらほどの小皿に、艶やかな乳白色の湯葉が美しく盛り付けられている。
私は一皿手に取り、わさびを添えて醤油を少したらす。
さらに栃木和牛のすき焼き、お蕎麦、山菜の炊き込みご飯もトレイに載せ、いそいそと席へ戻った。
「いただきます」
まずは湯葉のおさしみから。
箸でそっと持ち上げると、しっとりとした湯葉から豆乳が滴り落ちる。
わさびを少し添え、醤油をまとわせて口へ運んだ。
「……んっ、うま」
思わず目を閉じる。
舌の上でゆっくりとほどけ、大豆本来のやさしい甘みと豊かな香りがふわりと広がっていく。
とても濃厚なのに後味はサラッとしていていくらでも食べられそうだ。
(これは、おいしい……おかわり欲しい)
思わず頬が緩む。
アキバさんに感謝だ。見た目が地味なので、きっと自分では選ばなかっただろうから。
続いて栃木和牛のすき焼きを頬張る。
艶やかな霜降り肉は箸で掴んだだけでほろりとほどけ、甘辛い割り下をまとった肉の旨みが口いっぱいに広がった。
「お肉もおいしい……」
思わず小さくつぶやく。
山菜の炊き込みご飯は、舞茸やごぼうの香りが立ち、山の恵みをそのまま閉じ込めたような素朴な味わいだ。
お蕎麦をひと口すすれば、鼻へ抜ける爽やかな香りが口の中をすっと整えてくれる。
派手さはないけれど、一品一品が丁寧につくられていることが伝わってくる。
土地の食材を素材そのままに一番おいしい形で提供する。
それが、この宿のビュッフェが人気の秘密なのかもしれない。
お腹も心も満たされ、私は食事処を後にした。
ちょうどアキバさんと廊下で顔を合わせたので、湯葉のお礼を伝える。
「湯葉のおさしみ、とても美味しかったです。教えてくださって、ありがとうございました」
すると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「よかったです!」
「美味しくて、おかわりしちゃいました。また食べたいです」
「実は朝食でもお出しすることがあるんですよ」
「え、本当ですか? 嬉しい! 見つけたら絶対食べます」
「ぜひ召し上がってください」
最初に声をかけたときとは違う。
アキバさんは自然な笑顔で、まっすぐ私の目を見て話してくれていた。
それだけで、特別なおもてなしを受けたような気持ちになる。
お客様との心の距離を縮める方法は、マニュアルには載っていない。
だからこそ難しい。
けれど、ほんの一言の会話や笑顔が、その宿で過ごした時間を特別な思い出へと変えてくれる。
(料理は申し分ない。あとはスタッフ一人ひとりが自信を持って、お客様との会話を楽しめるようになれば、この宿はもっと素敵になる)
私は心の中でそっと評価を記録し部屋へと戻った。
