「……くううううっ、足痛ったー」
部屋に入るなり、玄関でピンヒールを脱ぎ捨てる。
素足のまま室内を歩きながら進み、夜会巻きをほどく。
黒縁眼鏡を外し、鎧みたいなスーツを脱ぎ捨てると、そのままバスルームへ直行した。
メイクを落とし、髪を洗う。熱めのシャワーを浴びると、全身の緊張が解けていく。
「あーさっぱりした」
濡れた髪をクリップでまとめ、ゆるいデニムとロングティーシャツへ着替える。
我ながら思う。マナー講師に在るまじき姿だと。受講生には絶対に見せられない。
「さて、仕事するか」
バッグからノートパソコンを取り出し、ベッドへ寝転がる。
今日の講義のレポートをまとめ、メールチェックを始める。
何件か返信を終えたところで、花村さんからのメールが目に留まった。
「……仕事早っ!」
クリックすると研修のお礼と、さっそく次回の依頼について書かれている。
《他店の講習もぜひお願いしたく……》
その一文に思わず口元が緩む。
松越デパートほどの老舗企業から依頼をもらえたこと自体が奇跡なのに、次もだなんて。
この縁を次につなげない理由はない。
返信はすぐに。でも、文章は丁寧に。熱意は伝える。
ただし、がっついているとは思わせない。
すぐ仕事に飛びつけば"いつでも使える人間"として扱われる。
私はそうなりたくない。
予約が三か月先まで埋まるレストランや、新規予約をなかなか受け付けない美容師のように。
少しだけ手が届きそうで、届かない。
そんな距離感が、一番価値を高めてくれると思うから。
もちろん、その期待は必ず結果で返す。その自信がある。
「……よし、送信」
送信ボタンを押してパソコンを閉じる。
薄手のパーカーを羽織り、スマートフォンと財布だけをショルダーバッグへ放り込む。
さあ、今夜の本番はここからだ。
