――花村さんからの返信はまだない。
食事の約束の後、お互いのスケジュールが合わないまま十日も過ぎてしまった。
私の予定を送って、《調整します》の返信が来たのが一昨日の夜。彼が多忙なことは分かるので返事の催促もできない。
急ぐ案件でもないのに、どうしてこんなに気になるのだろう。
「そんな顔して、彼氏?」
「えっ?」
驚いてスマートフォンを伏せた。視線を上げると店のママがコーヒーを運んでくれていた。
「違います」
「じゃあ、好きな人?」
そう言われて花村さんの顔が浮かぶ。私は慌ててかき消した。
――お客さんとの恋愛なんてありえない。
何かあればすぐ足元を掬われる。仕事を失うのはもう、こりごりだ。
だから、彼との食事はあくまでの仕事の延長。
「それも違います」
「あらそう。おばちゃん、勘だけはいいのよ。たまにお客さんの恋愛相談に乗ったりしてね」
おしゃべりが始まるとカウンターの奥から「ママ!」と呼ぶ声がする。
「はいはい。はいどうぞ、熱いから気を付けてね」
「ありがとうございます」
コーヒーカップを持ちあげる。
立ちのぼる湯気と一緒に、香ばしい香りが鼻先をくすぐる。
ふう、と息を吹きかけてから、一口。
ほどよい苦みのあとに、かすかな酸味。すっきりとしていて飲みやすい。
「……美味しい」
思わず呟いた。
ずっしりとした陶器のカップも美味しさを引き立てている。店の雰囲気もしかり。ママもしかり……。
やがて、モーニングセットがトレイに乗せられて運ばれてきた。
「お待たせ。モーニングね」
目の前に置かれたトレイを見て、思わず顔がほころぶ。
厚切りのトーストには、たっぷりの小倉あん。隣には、つるんと艶のあるゆで卵と、レタスやトマトが彩りよく盛られたサラダ。
そして、その横には小さなカップに入ったヨーグルトまで添えられている。
「……これ、全部セットですか?」
「そう。ヨーグルトはおまけ。お姉さんご新規さんだからちょっとサービス」
こうした気遣いがとても嬉しい。
出張先で人の温かさに触れるたび、固く閉ざした心が解けていく気がする。
私だっていつまでも過去に囚われていたくないのだ。
「ありがとうございます。いただきます!」
私は小倉あんの乗ったトーストを指でちぎった。
焼きたてのパンから、香ばしい匂いがふわりと立ちのぼる。
まずはパンだけを一口かじる。表面はさっくりしていて中はしっとりと甘い。
次はあんことバターが乗っている部分。
小豆の優しい甘さにバターのコクと塩気が重なる。あまりのおいしさに頬が緩んだ。
「……幸せ」
朝からこんな贅沢をしていいのだろうか。
サラダで口の中をリセットさせて、小倉トーストを食べる。コーヒーを味わって今度はゆで卵。
こうしてループすればずっと食べていられそうだ。
「モーニング最高!」
ブブ、とテーブルの上のスマートフォンが震えた。
反射的に画面を見る。
表示された名前に、胸の鼓動が大きく跳ねた。
――花村さん!
すぐにアプリを開いた。
《お疲れさまです。先日の件ですが、スケジュールの調整がなかなか難しく、次回の打ち合わせはメールかオンラインでお願いできればと思っています》
「……え」
思わず声が漏れた。
メールか、オンライン。
そうだよね。
そのほうが合理的だ。わざわざ時間を合わせて会う必要なんてない。
仕事の打ち合わせなのだから、オンラインで十分だ。
むしろ、そのほうがいい。
二人で食事なんてトラブルの元だ。
これでいい、これで――なのに。
「……なんで」
私はスマートフォンの画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
わざわざスケジュールをすり合わせてまで会わなくていい。
これ以上無駄なやり取りを続けなくて済む。
頭ではわかっているはずなのに、どうしてこんなにがっかりしているのだろう。
――花村さんと会いたかった。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥が苦しくなる。
「……ちがう」
私はスマートフォンを伏せた。
彼は単なるクライアントで、食事に誘われたのだって仕事の話をするためだ。
私だって同じ。
そう自分に言い聞かせるとコーヒーを飲み干した。
