カランコロンーー。
店を出て行く彼女の背中を見送った。
『先生……私、何者にもなれませんでした』
さっきの彼女の言葉が、まだ耳に残っていた。
夫。
子ども。
あの子は自分で選んだ人生を歩いている。
それなのに。
「何者にもなれていないのは……僕の方じゃないか」
喫茶店のマスターは何も言わず2杯目をカウンターに置いてくれた。
「ありがとう」
そう言うとマスターは小さく微笑んだ。
マスターは何も聞かない。
ただ、カップが空になる頃になると、いつも静かに次の一杯を置いてくれる。
その距離感が心地よかった。
ーー若い頃の僕は。
恋愛をして、結婚をして。
そんな人生を歩むものだと漠然と思っていた。
だけど。
好きになったのは男だったから。
恋愛は、いつも始まる前に終わっていた。
そんな頃、家庭教師の直海さんと出会った。
直海さんは僕のことをいつも『リン』と呼んだ。
『麟太郎くんなら、リンだね』
家庭教師初日にそう言われた。
距離を詰めるのが早い人だな、と思ったけど、嫌じゃなかった。
問題に正解するとノートいっぱいに大きな花丸を書いてくれた。
あれがけっこう嬉しかったっけ。
問題を解き終えると一緒にカフェオレを飲んで。
どうでもいい話で笑って。
あの人といる時間は心地よかった。
だけど、その時間は長く続かなかった。
直海さんは留学して。
僕は大学生になって。
気づけば連絡は途絶えていた。
大学に入っても、自分がどんな人生を歩むのか見えなかった。
周りは就職や恋愛の話をしているのに、僕だけ時間が止まったような気がしていた。
そんな不器用な時間を、何年も過ごした。
このまま、ひとりで歳を重ねていくんだろう。
そんなことを思い始めていた頃だった。
音信不通になってから十数年経っていた。
僕が講師を依頼された市民講演会の控室に、
「やあ、リン」
と、あの人は何事もなかったようにやって来て笑った。
あの日から、僕たちは時々会うようになった。
喫茶店でカフェオレを飲んで。
本屋をぶらぶら歩いて。
適当な店でご飯を食べる。
特別なことなんて、何ひとつない日々だった。
若い頃の僕は、「普通の幸せ」に憧れていた。
結婚して。
家族がいて。
そういう人生が幸せなんだと思っていた。
でも。
隣で笑ってくれる人がいる。
「またね」と言える人がいる。
今の僕には、それで十分だった。
カフェオレをひと口飲む。
温かさが喉を通っていく。
その時。
カランコロンーー。
「お待たせ」
聞き慣れた声だった。
顔を上げると、直海さんが立っていた。
「待った?」
「今、2杯目」
「好きだね」
「好きだけど」
「なに?」
「別に」
直海さんはさっきまで学生が座っていた席に座り、
「ちょっとさ、あとで電気屋寄ってくんない?」
「いいよ」
「マウスが壊れちゃったんだよ」
「また?使い方が荒いんじゃないの?」
「失礼な」
ふたりで笑った。
直海さんは「待たせたからな」とカフェオレ代を払ってくれた。
なんだかんだ言って直海さんだっていつもカフェオレだった。
「ごちそうさまでした」
マスターは小さく会釈をした。
カランコロン――。
夕方の風が心地よかった。
電気屋に行くといつもちょっとでは済まなかった。
マウスは、
「このくらいのでいいんだよ」
と即決していたけど。
「リン、これ見てみ?」
新型の掃除機。
「これもすごくない?」
今度は自動調理器。
「見るだけだから」
そう言いながら、直海さんはいちいち楽しそうに立ち止まる。
結局いつも、ひとつひとつ説明を読んでしまう。
「ちょっとで終わった試し、ないよね?」
僕がそう言うと、
「楽しいよね」
と笑っていた。
ひととおり家電をチェックして満足した直海さんは、
「夕飯なに食べる?」
と僕を見た。
「なんでもいいよ」
「それ、一番困るやつ」
「じゃあ、直海さんが決めて」
「責任重大だな」
直海さんは腕を組んで少し考え、
「定食にしよ」
と言った。
「結局いつもの店じゃない」
「落ち着くじゃん」
「まあね」
僕たちは夕暮れの街を並んで歩いた。
いつもの定食屋に入る。
直海さんはおしぼりで手を拭いた。
「今日は魚にしようかな」
「珍しい」
「最近、健康診断引っかかってさ」
「もう若くないね」
「リンには言われたくない」
直海さんは僕を睨んだ。
「そういやあの教育実習の子、どうしたの?」
「あれから話せてないな」
「まあ、不安になるよな」
「そうだね」
「でもその子は多分、大丈夫だと思う、俺」
「僕も」
「俺なんかこの歳になっても、まだ『ああすればよかった』って思う日あるもん」
「わかる」
「今日はあの子元気なかったから、もう少し話聞けばよかったかな、とかさ」
「うん」
「反省ばっかだよ」
僕は直海さんを覗き込み、
「へぇ。ちゃんと先生だね」
「けっこう真面目よ、俺」
「知ってる」
顔を見合わせて笑った。
料理が届くと、ふたりそろって「いただきます」と手を合わせた。
直海さんは味噌汁をすすりながら、
「リンさ」
「ん?」
「今日ちょっと元気なかった?」
相変わらずよく見てるな。
「ちょっと学生のこと考えてただけ」
「そっか」
直海さんはそれ以上何も聞いてこなかった。
「全然関係ないけど、俺、昨日スーパー行ったんだけどさ」
「本当に全然関係ないね」
「だから、全然関係ないけど、って言ったじゃない」
「そうだね」
「3個パックのツナ缶が今までで一番安くてさ。買いだめしておこうと思ってカゴに4つ入れてたら、『ひと家族様2つまでなんです』って言われてさ」
「うん」
「リン呼ぼうかと一瞬本気で思った」
「そんなに安かったの?」
「底値だったんだよ」
直海さんは興奮気味に嬉しそうに言った。
その後も僕たちは、明日には忘れてしまうような話ばかりしていた。
笑って。
食べて。
また笑って。
そんな時間が、僕には何より大切だった。
店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
「じゃあ、また」
「うん、また」
直海さんは手をひらひらと振って、いつものように歩き出す。
僕も反対方向へ歩く。
振り返らない。
また会えると知っているから。
このなんでもない時間が、明日も続けばいい。
来週も。
来月も。
その先も。
それだけでよかった。
店を出て行く彼女の背中を見送った。
『先生……私、何者にもなれませんでした』
さっきの彼女の言葉が、まだ耳に残っていた。
夫。
子ども。
あの子は自分で選んだ人生を歩いている。
それなのに。
「何者にもなれていないのは……僕の方じゃないか」
喫茶店のマスターは何も言わず2杯目をカウンターに置いてくれた。
「ありがとう」
そう言うとマスターは小さく微笑んだ。
マスターは何も聞かない。
ただ、カップが空になる頃になると、いつも静かに次の一杯を置いてくれる。
その距離感が心地よかった。
ーー若い頃の僕は。
恋愛をして、結婚をして。
そんな人生を歩むものだと漠然と思っていた。
だけど。
好きになったのは男だったから。
恋愛は、いつも始まる前に終わっていた。
そんな頃、家庭教師の直海さんと出会った。
直海さんは僕のことをいつも『リン』と呼んだ。
『麟太郎くんなら、リンだね』
家庭教師初日にそう言われた。
距離を詰めるのが早い人だな、と思ったけど、嫌じゃなかった。
問題に正解するとノートいっぱいに大きな花丸を書いてくれた。
あれがけっこう嬉しかったっけ。
問題を解き終えると一緒にカフェオレを飲んで。
どうでもいい話で笑って。
あの人といる時間は心地よかった。
だけど、その時間は長く続かなかった。
直海さんは留学して。
僕は大学生になって。
気づけば連絡は途絶えていた。
大学に入っても、自分がどんな人生を歩むのか見えなかった。
周りは就職や恋愛の話をしているのに、僕だけ時間が止まったような気がしていた。
そんな不器用な時間を、何年も過ごした。
このまま、ひとりで歳を重ねていくんだろう。
そんなことを思い始めていた頃だった。
音信不通になってから十数年経っていた。
僕が講師を依頼された市民講演会の控室に、
「やあ、リン」
と、あの人は何事もなかったようにやって来て笑った。
あの日から、僕たちは時々会うようになった。
喫茶店でカフェオレを飲んで。
本屋をぶらぶら歩いて。
適当な店でご飯を食べる。
特別なことなんて、何ひとつない日々だった。
若い頃の僕は、「普通の幸せ」に憧れていた。
結婚して。
家族がいて。
そういう人生が幸せなんだと思っていた。
でも。
隣で笑ってくれる人がいる。
「またね」と言える人がいる。
今の僕には、それで十分だった。
カフェオレをひと口飲む。
温かさが喉を通っていく。
その時。
カランコロンーー。
「お待たせ」
聞き慣れた声だった。
顔を上げると、直海さんが立っていた。
「待った?」
「今、2杯目」
「好きだね」
「好きだけど」
「なに?」
「別に」
直海さんはさっきまで学生が座っていた席に座り、
「ちょっとさ、あとで電気屋寄ってくんない?」
「いいよ」
「マウスが壊れちゃったんだよ」
「また?使い方が荒いんじゃないの?」
「失礼な」
ふたりで笑った。
直海さんは「待たせたからな」とカフェオレ代を払ってくれた。
なんだかんだ言って直海さんだっていつもカフェオレだった。
「ごちそうさまでした」
マスターは小さく会釈をした。
カランコロン――。
夕方の風が心地よかった。
電気屋に行くといつもちょっとでは済まなかった。
マウスは、
「このくらいのでいいんだよ」
と即決していたけど。
「リン、これ見てみ?」
新型の掃除機。
「これもすごくない?」
今度は自動調理器。
「見るだけだから」
そう言いながら、直海さんはいちいち楽しそうに立ち止まる。
結局いつも、ひとつひとつ説明を読んでしまう。
「ちょっとで終わった試し、ないよね?」
僕がそう言うと、
「楽しいよね」
と笑っていた。
ひととおり家電をチェックして満足した直海さんは、
「夕飯なに食べる?」
と僕を見た。
「なんでもいいよ」
「それ、一番困るやつ」
「じゃあ、直海さんが決めて」
「責任重大だな」
直海さんは腕を組んで少し考え、
「定食にしよ」
と言った。
「結局いつもの店じゃない」
「落ち着くじゃん」
「まあね」
僕たちは夕暮れの街を並んで歩いた。
いつもの定食屋に入る。
直海さんはおしぼりで手を拭いた。
「今日は魚にしようかな」
「珍しい」
「最近、健康診断引っかかってさ」
「もう若くないね」
「リンには言われたくない」
直海さんは僕を睨んだ。
「そういやあの教育実習の子、どうしたの?」
「あれから話せてないな」
「まあ、不安になるよな」
「そうだね」
「でもその子は多分、大丈夫だと思う、俺」
「僕も」
「俺なんかこの歳になっても、まだ『ああすればよかった』って思う日あるもん」
「わかる」
「今日はあの子元気なかったから、もう少し話聞けばよかったかな、とかさ」
「うん」
「反省ばっかだよ」
僕は直海さんを覗き込み、
「へぇ。ちゃんと先生だね」
「けっこう真面目よ、俺」
「知ってる」
顔を見合わせて笑った。
料理が届くと、ふたりそろって「いただきます」と手を合わせた。
直海さんは味噌汁をすすりながら、
「リンさ」
「ん?」
「今日ちょっと元気なかった?」
相変わらずよく見てるな。
「ちょっと学生のこと考えてただけ」
「そっか」
直海さんはそれ以上何も聞いてこなかった。
「全然関係ないけど、俺、昨日スーパー行ったんだけどさ」
「本当に全然関係ないね」
「だから、全然関係ないけど、って言ったじゃない」
「そうだね」
「3個パックのツナ缶が今までで一番安くてさ。買いだめしておこうと思ってカゴに4つ入れてたら、『ひと家族様2つまでなんです』って言われてさ」
「うん」
「リン呼ぼうかと一瞬本気で思った」
「そんなに安かったの?」
「底値だったんだよ」
直海さんは興奮気味に嬉しそうに言った。
その後も僕たちは、明日には忘れてしまうような話ばかりしていた。
笑って。
食べて。
また笑って。
そんな時間が、僕には何より大切だった。
店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
「じゃあ、また」
「うん、また」
直海さんは手をひらひらと振って、いつものように歩き出す。
僕も反対方向へ歩く。
振り返らない。
また会えると知っているから。
このなんでもない時間が、明日も続けばいい。
来週も。
来月も。
その先も。
それだけでよかった。



