はあぁ。
外の空気を吸って深呼吸をした。
生き返る。
……やっと、ひとりになれた。
どこに行こう。
自分の気分で行きたいところを決められるって、なんて贅沢なの。
子どもが生まれるまでは当たり前のことだったのに。
今じゃ思いどおりになることなんてない。
もはや、何かをしたいと思わない方がラクなんだ、という境地にさえいる。
今日は夫が子どもを見てくれると言ってくれた。
突然できた私の午後の半休。
ふいに自由になれるとどう動けばいいのかわからない。
とりあえず。
子連れでは行けないところに行こう。
思い浮かんだのは、大学近くの喫茶店だった。
大学生の頃、よく行ってたあのお店。
ふとあの頃の景色が蘇る。
その景色の中に、たまに君島先生がいた。
久しぶりに思い出した。
初めて君島先生を見た時、「かっこいい先生だな」と思ったこと。
ゼミのみんなで先生を誘ってご飯を食べに行き、どうでもいい話で笑ったこと。
研究室で淹れてもらったコーヒーを飲みながら、将来のことを話したこと。
あの頃の私は、未来を疑っていなかった。
その眩しさが、今の私には少しちくりとした。
喫茶店の前に立つ。
何年ぶりだろう。
扉を開けると、カランコロンとドアベルが鳴った。
店内はあの頃のまま何も変わっていなかった。
ここだけ時間が止まっているようだった。
「あ」
その声は私の声と重なった。
カウンター席に君島先生がいた。
その姿に胸がきゅっとした。
思い出が一気に色鮮やかになる。
「隣、いいですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「久しぶりだね」
「はい」
「家、この辺なの?」
「少し離れてます」
「そうなんだ」
「今日は夫が子どもを見てくれてて。子連れじゃ行けないところに行きたくて」
「お子さんがいるんだね」
「はい」
私は一瞬目を伏せた。
「なに飲む?」
「え?あぁ」
君島先生は私にメニューを手渡した。
コーヒーの銘柄が書いてあるメニューを見て、自分が大人の女性だったことを思い出す。
急いで決めなくていいんだ、今日は。
結局、当時よく飲んでいたオリジナルブレンドにした。
「元気にしてた?」
君島先生の何気ない問いに即答できず、
「ぼちぼちですかね」
と少し笑った。
「お子さん、いくつなの?」
「1歳です」
「そう」
私は小さく息を吐いた。
「子育てって思ってたより全然ハードですね。毎日気が抜けないです」
「そっか」
「夫は遅くまで仕事してるから、ワンオペで。深呼吸できるの、子どもが寝てる時だけです」
「大変そうだね」
「大変ですね」
変な謙遜をせず素直に言えた。
「先生は?」
「え?」
「毎日どんな感じですか?」
「僕?僕はあの頃となんにも変わらない」
そう言って君島先生は笑った。
「どうぞ」
喫茶店のマスターは君島先生の前にカフェオレを置いた。
「ありがとう」
「こちらはオリジナルブレンドです」
そして私の前にもそっと置いてくれた。
「ありがとうございます」
ああ、懐かしい。
一人ひとり違うコーヒーカップがおしゃれだなぁ、って思ったんだよね。
お店の食器って、揃ってるものって思ってたから。
ゆっくりと大人の味を口に含む。
体に染み渡った。
「……いいな」
先生は充実してそうで。
「え?」
「あ、いえなんでも。先生、お元気そうで良かった」
コーヒーに目を落として、少し笑ってごまかした。
「うん、元気」
君島先生はカフェオレをひと口飲んだ。
その穏やかな横顔を見ていると、胸の奥に押し込めていたものが少しずつ溢れてきた。
「……先生」
「ん?」
「私……何者にもなれませんでした」
そう言って苦笑した。
「え?」
「友達はみんなキャリア積み上げて毎日充実してるのに。私は、妊娠して体調悪くなってしまって、結局仕事辞めて」
「……」
「毎日アパートの中で子どもとふたりきりで、1日が終わっていく」
「うん」
「毎日残業の夫すら羨ましい」
「え?」
「夫は社会と繋がってるから」
「……」
「かと言って、私は体力があるタイプでもないから、この状況で正社員やる自信もないし」
「うん」
「だから……」
私は息を吐いた。
「あ、私、何者にもなれなかったんだ、って」
カップを両手で包んだ。
君島先生は何も言わなかった。
しばらくカップを見つめ、
「……そうなの?」
とだけ言った。
「自分で選んだ人生だから、まあ、仕方ないんですけど」
私は苦笑するしかなかった。
君島先生はカップに視線を落としたまま、
「……子どもは、かわいい?」
思いがけない質問だった。
「え?」
「かわいい?」
「……はい」
私は少し笑った。
「もちろん、かわいいです」
「そう」
「でも、それとこれとは別なんです」
「うん」
「妻にもなれたし、母親にもなれたけど」
私は目を伏せた。
「……私自身は、どこに行っちゃったんだろうって思う時があるんです」
君島先生は黙ったままカップを見つめていた。
「友達は今日だって働いてる子がいるのに」
「うん」
「私は今日、久しぶりにひとりでコーヒーを飲めただけで嬉しくて」
「うん」
「あ、なんか、かけ離れちゃったな、って」
君島先生は何も答えなかった。
頬杖をついたまましばらく考え込んでしまった。
「ごめんなさい、なんか暗い話になっちゃいました」
「あ、いや」
私はその後、
「そういえば先生の研究室、あのままですか」
なんて言いながら、敢えて思い出話ばかりをした。
君島先生は何も言わなかった。
ただ、何事もなかったように思い出話に付き合ってくれた。
私はぬるくなった最後のひと口を飲み干した。
「先生、そろそろ行きますね」
「うん」
「ここに来てよかった。先生にも会えたし」
「光栄です」
そう言って君島先生は胸に手を当てた。
「先生」
「ん?」
「お元気で」
「君も、元気で」
外の空気を吸って深呼吸をした。
生き返る。
……やっと、ひとりになれた。
どこに行こう。
自分の気分で行きたいところを決められるって、なんて贅沢なの。
子どもが生まれるまでは当たり前のことだったのに。
今じゃ思いどおりになることなんてない。
もはや、何かをしたいと思わない方がラクなんだ、という境地にさえいる。
今日は夫が子どもを見てくれると言ってくれた。
突然できた私の午後の半休。
ふいに自由になれるとどう動けばいいのかわからない。
とりあえず。
子連れでは行けないところに行こう。
思い浮かんだのは、大学近くの喫茶店だった。
大学生の頃、よく行ってたあのお店。
ふとあの頃の景色が蘇る。
その景色の中に、たまに君島先生がいた。
久しぶりに思い出した。
初めて君島先生を見た時、「かっこいい先生だな」と思ったこと。
ゼミのみんなで先生を誘ってご飯を食べに行き、どうでもいい話で笑ったこと。
研究室で淹れてもらったコーヒーを飲みながら、将来のことを話したこと。
あの頃の私は、未来を疑っていなかった。
その眩しさが、今の私には少しちくりとした。
喫茶店の前に立つ。
何年ぶりだろう。
扉を開けると、カランコロンとドアベルが鳴った。
店内はあの頃のまま何も変わっていなかった。
ここだけ時間が止まっているようだった。
「あ」
その声は私の声と重なった。
カウンター席に君島先生がいた。
その姿に胸がきゅっとした。
思い出が一気に色鮮やかになる。
「隣、いいですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「久しぶりだね」
「はい」
「家、この辺なの?」
「少し離れてます」
「そうなんだ」
「今日は夫が子どもを見てくれてて。子連れじゃ行けないところに行きたくて」
「お子さんがいるんだね」
「はい」
私は一瞬目を伏せた。
「なに飲む?」
「え?あぁ」
君島先生は私にメニューを手渡した。
コーヒーの銘柄が書いてあるメニューを見て、自分が大人の女性だったことを思い出す。
急いで決めなくていいんだ、今日は。
結局、当時よく飲んでいたオリジナルブレンドにした。
「元気にしてた?」
君島先生の何気ない問いに即答できず、
「ぼちぼちですかね」
と少し笑った。
「お子さん、いくつなの?」
「1歳です」
「そう」
私は小さく息を吐いた。
「子育てって思ってたより全然ハードですね。毎日気が抜けないです」
「そっか」
「夫は遅くまで仕事してるから、ワンオペで。深呼吸できるの、子どもが寝てる時だけです」
「大変そうだね」
「大変ですね」
変な謙遜をせず素直に言えた。
「先生は?」
「え?」
「毎日どんな感じですか?」
「僕?僕はあの頃となんにも変わらない」
そう言って君島先生は笑った。
「どうぞ」
喫茶店のマスターは君島先生の前にカフェオレを置いた。
「ありがとう」
「こちらはオリジナルブレンドです」
そして私の前にもそっと置いてくれた。
「ありがとうございます」
ああ、懐かしい。
一人ひとり違うコーヒーカップがおしゃれだなぁ、って思ったんだよね。
お店の食器って、揃ってるものって思ってたから。
ゆっくりと大人の味を口に含む。
体に染み渡った。
「……いいな」
先生は充実してそうで。
「え?」
「あ、いえなんでも。先生、お元気そうで良かった」
コーヒーに目を落として、少し笑ってごまかした。
「うん、元気」
君島先生はカフェオレをひと口飲んだ。
その穏やかな横顔を見ていると、胸の奥に押し込めていたものが少しずつ溢れてきた。
「……先生」
「ん?」
「私……何者にもなれませんでした」
そう言って苦笑した。
「え?」
「友達はみんなキャリア積み上げて毎日充実してるのに。私は、妊娠して体調悪くなってしまって、結局仕事辞めて」
「……」
「毎日アパートの中で子どもとふたりきりで、1日が終わっていく」
「うん」
「毎日残業の夫すら羨ましい」
「え?」
「夫は社会と繋がってるから」
「……」
「かと言って、私は体力があるタイプでもないから、この状況で正社員やる自信もないし」
「うん」
「だから……」
私は息を吐いた。
「あ、私、何者にもなれなかったんだ、って」
カップを両手で包んだ。
君島先生は何も言わなかった。
しばらくカップを見つめ、
「……そうなの?」
とだけ言った。
「自分で選んだ人生だから、まあ、仕方ないんですけど」
私は苦笑するしかなかった。
君島先生はカップに視線を落としたまま、
「……子どもは、かわいい?」
思いがけない質問だった。
「え?」
「かわいい?」
「……はい」
私は少し笑った。
「もちろん、かわいいです」
「そう」
「でも、それとこれとは別なんです」
「うん」
「妻にもなれたし、母親にもなれたけど」
私は目を伏せた。
「……私自身は、どこに行っちゃったんだろうって思う時があるんです」
君島先生は黙ったままカップを見つめていた。
「友達は今日だって働いてる子がいるのに」
「うん」
「私は今日、久しぶりにひとりでコーヒーを飲めただけで嬉しくて」
「うん」
「あ、なんか、かけ離れちゃったな、って」
君島先生は何も答えなかった。
頬杖をついたまましばらく考え込んでしまった。
「ごめんなさい、なんか暗い話になっちゃいました」
「あ、いや」
私はその後、
「そういえば先生の研究室、あのままですか」
なんて言いながら、敢えて思い出話ばかりをした。
君島先生は何も言わなかった。
ただ、何事もなかったように思い出話に付き合ってくれた。
私はぬるくなった最後のひと口を飲み干した。
「先生、そろそろ行きますね」
「うん」
「ここに来てよかった。先生にも会えたし」
「光栄です」
そう言って君島先生は胸に手を当てた。
「先生」
「ん?」
「お元気で」
「君も、元気で」



