君島准教授、ちょっといいですか。

なんとなく、ここまで来てしまったけど。
その扉をノックするのはあまりにもハードルが高い。
君島先生のゼミ生でもない。
親しいわけでもない。
ただ友達の、
『困ったことがあったら、君島先生いいかも。あの人、大丈夫な人だと思う』
って言葉だけを頼りに、研究室の前にいる。
真面目で優しいあいつが言うんだから、きっといい先生なんだろうな、とは思うけど。
だからって、こんなことを普通、先生に相談するか?
……だけど。
他に、いるか?
唇をきゅっと噛み、うつむく。
廊下は静まり返っている。
小さく息を吐いた。
その扉をノックすると、中から「どうぞ」と声がした。
……いた。
……もう、引き返せない。
僕はゆっくり研究室の扉を開けた。

「失礼します」
遠慮がちに部屋に入ると君島先生は、
「どうしたの?」
と淡々と尋ねた。
「あ、その……」
僕が言葉に詰まっていると、君島先生は少し首を傾げた。
「……相談したいことがあって」
「うん」
「その……友達が、困ったら君島先生に話してみたら、って……」
「へぇ」
自分のことを言われているのに、まるで他人事のように驚いている。
「なんか、先生と一緒に歩きながら話せたのが良かったらしくて……」
「そう」
僕はうつむいた。
これ以上、言葉が出てこなかった。
「コーヒーでも飲む?」
「え?」
「掛けなよ」
そう言うと君島先生は椅子を勧めた。
言われるがまま腰掛けると、
「ブラック、カフェオレ、どっち?」
「あ、えっと、カフェオレ」
「ん。砂糖は?」
「欲しいです」
「いくつ?」
そう言うと君島先生は角砂糖が入った瓶を見せた。
「ひとつで」
「ん」
君島先生は手際良くカフェオレを作り、机の上に置いた。
「ありがとうございます」
君島先生は自分の分にも角砂糖を入れていた。
ほんのり甘いカフェオレの香りが漂う。
君島先生は脚を組み、窓の外を眺めながら静かに口に運んだ。
僕もカフェオレに口をつけた。
先生。
どうしてなんにも聞かないんだろう。
僕は目を伏せた。
ひと口飲むたびに温かさが沁みる。
張り詰めていた肩の力がほんの少し抜けた気がした。
「はぁ……」
ため息が漏れた。
「少し落ち着いた?」
君島先生は外を眺めながらぽつりと言った。
「……はい」
「よかった」
また静かになる。
君島先生は何も聞かない。
僕はカップを両手で包んだ。
「先生」
「ん?」
「もし……」
言葉が喉で止まる。
「誰にも言えないことがあったら」
「うん」
「……先生なら、聞いてくれますか?」
ちらりと先生を見上げた。
「……ここまで来るの、勇気いったでしょ」
君島先生は僕を見た。
その一言で胸が少し熱くなった。
「……はい」
君島先生はかすかに微笑み、
「うん。聞くよ」
と頷いた。
僕は息を吐いた。
「2回目、なんです……」
目を伏せた。
「……好きな人に……彼女ができたの」
ああ。
言ってしまった。
先生、どんな顔してるんだろう。
怖い。
「そう」
……え?
それだけ?
僕は思わず顔を上げた。
君島先生はさっきと何も変わらない顔でカフェオレを飲んでいた。
「ん?」
君島先生は首を傾げた。
「あ、いや、もっと驚かれるかな、って……」
「あー」
あまりに淡々としていて調子が狂ってしまった。
ふっと力が抜けた。
「……そいつ、仲のいい友達なんです」
「うん」
「いつも3人でつるんでて……そいつに彼女ができて、もう一人の連れは『良かったじゃん!』って心から喜んでるのに」
「うん」
「僕は、喜んでる振りしかできなくて」
「……」
「高校生の時にも同じようなことがあって」
「うん」
「なんていうか……」
唇をきゅっと結ぶ。
「また同じだ、って」
「うん」
言葉が続かない。
カフェオレはもうぬるくなっていた。
「……好きになっても」
カップを包んでいる両手に少し力が入る。
「何も言えない」
「……」
「そいつに彼女ができたら、おめでとうって言って」
「……」
「終わる」
大きなため息が出た。
「だからまた、誰かを好きになっても」
言葉が止まる。
君島先生は何も言わない。
僕はカップの中を見つめた。
「……同じなんですよね」
「うん」
「だって」
唇を噛む。
「好きになるの、男なんだから」
苦笑するしかなかった。
「そうか」
君島先生はそれ以上何も言わなかった。
こんな話、されても困るよな。
しかも親しくもない学生に。
「すみません」
「どうして謝るの?」
「あ、こんな話聞かされても、ですよね」
「いや」
君島先生は優しい笑顔を向けた。
「話すの、勇気いったでしょ?」
その言葉に思わず目頭が熱くなってしまった。
「先生」
「ん?」
「僕、この先もずっとこんな感じなんですかね」
君島先生は指を顎に当てたまま黙った。
「どうだろう」
君島先生は少し考えた。
「でも……」
君島先生はふと顔を上げ、
「今日、初めて誰かに話せたよね」
そう言って小さく頷いた。


夜、君島先生は行きつけのバーカウンターにいた。
「まいったね」
「ん?なんかあった?」
君島先生は頬杖をつきながら、グラスの中の氷を指で回す。
「今日ね、学生に相談されてさ」
「うん」
「まるで、昔の僕を見てるようだった」
君島先生は氷を見つめたまま黙っていた。