分かれ身の乙女と孤高の水神様の贄婚 〜煩わしき君に恋煩うまで、あと×日〜

「千香お嬢様、わたくしなどのために泣かないでくださいませ」

 目の前にいる乳母は、粗末な寝台に横たわり穏やかに微笑んでいる。
 ああ、知っている。これは乳母の最期の時だ。

「お嬢様、笑って……そして、何があっても、生きて、生きて、生き抜くの、で、す……『武士(もののふ)の娘』としての、誇り、を、胸に……」

 ……ああ、どうか! 私を置いて行かないで!!

「乳母っ!!」

 自分の声で、私ははっと目を覚ました。

「……夢、か。まあ、そうよね」

 そういえば私は、水底から上がるどころか逆に沈んでしまったはずだ。
 それなのに、私は水中ではなく空気に囲まれた普通の部屋で目を覚ましたのだった。
 まあ、「普通」の部屋というには目に入る調度のいずれもが豪華すぎるような気がするが。
 とにかく一体何が起こったのだろうと首を(かし)げた、その瞬間――。

「……起きたか」

 低く響く声が聞こえ、私はばっと勢いよく音のした先へ目を向けた。
 そこは部屋の入口で、声を発したのは白銀の長髪をなびかせた美丈夫だ。
 鋭く光る金の瞳を細め、腕を組んで無表情でこちらを見つめながら立っていた。
 その神秘的な雰囲気は、明らかに只者ではない。
 誰に言われずとも、私は本能的に理解した。

 ――いたのだ。「水神様」は本当にこの世に存在していたのだ。

 ということは、生まれてこの方ずっと言い聞かされてきたこともまさか本当のことだったのだろうか。
 本当に私は「生贄」として溺死するのではなく、「水神様の花嫁」として生きる運命(さだめ)を負っていた……?

「まったく……『地の上からやってきた女』はなぜこうも愚かなものか」

 ……わけではないようだ。
 水神様は心底面倒だという空気を隠すこともなくこちらを見遣っていた。

「女、何があれば満足だ? (かね)か? 宝玉か? それとも『(ちょう)』か? まあ、何でも良い。くれてやるから、お前は大人しく……」
「いいえ、何も」
「は?」
「何もいりません。おそらく貴方様は、水底に沈みゆく私を見て助けてくださったのでしょう。そのことには心より感謝申し上げます。しかしこれ以上高貴なお手を煩わせることは望みません。願わくば、どうぞ私のことなどお構いなきように」

 状況から推測するに、私の足を掴み水底に引き込んだのはこの水神様なのだろう。
 だから、その善意にはきちんと礼を返すのが礼儀だ。
 一方で、水神様の行動は私にとってはありがた迷惑だったのもまた事実である。
 だってあのまま問題なく「分かれ身の術」さえ解除できていれば、今頃は元の体に意識が戻って地上で目覚めていたはずだったのだ。
 なぜかは知らないが私のことをそうまで嫌うなら、変に正義感を発揮して手出ししないでいてくれたなら良かったのに。
 しかし今からでも決して遅くはない。
 お互いに益がないなら、こんな会話など早く切り上げて、さっさと術を解除してしまえば良いのだ。

「……好きにしろ」

 私の発言にふんと鼻を鳴らした水神様はそれだけ吐き捨てるとすぐに去っていった。
 部屋の外で響く衣擦れの音が完全に消えてから、私は再び全身に意識を巡らせる。
 これまでに何度も練習したし、水底に沈みゆく時にも成功したし、私は自信を持って自分の「分かれ身」へと続く道を探した。
 それなのに――。

「……えっ? どうして見つからないの!?」

 そもそも自分の中にある異能が、どういうわけだかきちんと力を発揮できている気がしない。

「このままでは……まさか私、地上に戻れない……?」

 絶望的な状況に、私はただ呆然とすることしかできなかった。