分かれ身の乙女と孤高の水神様の贄婚 〜煩わしき君に恋煩うまで、あと×日〜

「千香お嬢様……本当に行ってしまわれるのですね」

 水神湖のほとりにいた私にそっと近づいてきたのは、加須良家に仕える女中の一人である志賀(しが)だった。
 すでに赤くなった目元にさらに涙をにじませた彼女は、心底悔しげに唇を噛んだ。

「私ではお嬢様をお助けできず……母にあわせる顔もございません」

 彼女の母は「加須良千香(やっかいもの)の乳母」という誰もがやりたがらない仕事に率先して手を上げ、産後の肥立ちが悪く早逝した私の実母に代わって私を育ててくれた人だ。
 つまり私もろとも家内で冷遇された人であり、無駄に苦労をかけてしまった志賀には恨まれても仕方がないと思っていた。
 だが私を娘のように可愛がってくれた乳母と同様に、志賀も私を妹のように可愛がってくれた。
 乳母が亡くなり、もう一人で全てできる年齢だろうと私の周りからそもそもほとんどいなかった人が完全に遠ざけられた後も、隙を見ては食べ物の差し入れなどをしに来てくれた。
 それが私の心身にとってどれほど救いになっていたかなど、言葉では言い表せない。

「志賀、あなたと乳母には本当に感謝しているのです。だからそんなことは言わないで」
「お嬢様……」
「それに、あなたには任せたいことがあります。これはあなたにしかできない大切な仕事です」
「っ! 何なりと! 私に出来ることがあるならば、何なりと仰ってください! とはいえ、加須良のお屋敷勤めから外され、湖の管理小屋に左遷された私にできることなど限られていましょうが……」
「いいえ、それだから良いのです」

 はっきりと言い切ると、志賀は不思議そうに首を傾げた。

「と仰いますと?」
「私はあなたに、『()を預けたい(・・・・・)のです」

 それだけで、志賀は私の言いたいことをなんとなく理解したようだった。

「まさか、ついにあれ(・・)が完成したのですか!?」
「ええ、私は確かに乳母の言う通り『武士(もののふ)の娘』であったようです。そうでなければ『異能』など使えませんからね」

 「異能」――それはかつて武家が公家から国の実権を奪う原動力となった、稀有な力だ。
 武家の象徴の一つとして尊ばれ、特に「将軍」となる人は類まれなる異能の力を持つことが必須とまでされてきた。
 しかし時代の流れとともに、どういうわけかほとんど使える者がいなくなってしまった。
 そうしているうちに西洋の技術を取り入れた公家――今の華族が立ち上がり、武家は敗北。
 現在では前時代の象徴のように扱われる、ほとんど失われた技術(ロストテクノロジー)である。
 実際、乳母も武家の血を引いていたが、異能は使えなかった。
 だが知識だけは実家で座学で学んだらしく、幼い私に知りうる限りの情報を教えてくれたのだ。

 どうやら私の亡き実母も武家の娘だったらしく、もしかしたら私に何かの力があるかもしれないから、と。
 たとえ力がなくても、何事も知っていればいつかどこかで役に立つこともあるかもしれないから、と。

 そう言って微笑む乳母の「武家の女」としての凛々しく誇りに満ちた姿は、模範とすべき生き方として今なお脳裏にこびりついている。
 そして時を経て、今。

 ――乳母の「予感」は現実のものとなるのだ。

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