河西 祥夜、21歳。大学の単位もほぼ取り終わり、卒論を書きながら長期インターンとして、飲料会社の開発部で商品開発を学んでいる。開発という大きな看板を掲げているけれど、実際は成分分析や微調整をしているだけ。
会社ではとにかく目立たない、なるべく穏便にをモットーに、大きな変化を求めず、細々と淡々と仕事をこなしている。まわりの先輩社員は、俺を含めて5人。他のみんなも特に刺激を求めないタイプで、現状で満足している。
気配を消しているという例えが最も合う、大学生とは思えない意欲のなさに自分でも年齢を疑う時がある。
「河西さん、今日飲みに行かない?」
「すみません。今日は寄るとこあって」
卒業したらこのままこの会社に就職しようと思っているのに、将来上司になる人の誘いまで断って寄る場所、毎日の俺の楽しみといえば、猫。定時で会社を出て、猫カフェに向かう。淡々とした人生に張り合いを出せるイベント。俺が毎日通っているのは保護猫カフェで、虐待や放棄が理由で殺処分手前の猫を、このカフェが仲介して主人を探す運営をしているらしい。
それぞれの過去をもってここにいるから、少々難ありな猫が多いけど、俺的にはそのくらいの性格の猫がツボ。
「祥夜くん、今日新しい子猫が仲間入りしたんだけど!抱っこしてあげて!」
馴染みの店員さんにそう言われて振り返ると、ロシアンブルーのオス猫が脇を抱えられていて、下半身が伸びた状態でお腹を見せている。グレーの柔らかい毛は綺麗に整えられているけれど、目元や耳に切り傷や痣が見える。
牙を剥いてシャーっと鳴くと、軟体を捩って店員さんの手から軽く抜け出し、俺の足の間に擦り寄ってきた。
「あれ?その子猫、いつも嫌がるのに。祥夜くんには懐いてる」
先ほどの威嚇はどこへやら。グルグル鳴いていて、初対面の猫にここまで懐かれたのは初めて。
「この猫はどういう経緯でここに?」
「ネグレクトなの。河川敷で保護したんだけど、その時すごく震えてて」
カフェで猫に会って癒されて、それだけで十分だと思っていたけど、今回は違うみたい。頭から背中にかけて毛並みを整えるように撫でると、グルグルと鳴いて足に頬擦りをしてくる猫。妙にこの猫が気になる。
「名前は?あります?」
「まだないの。祥夜くん、付けてくれない?」
俺が名付け親なんて、責任重大すぎる。しかも愛着が湧いてしまいそうで、首を横に振った。
「こんなに懐いてるの、珍しいの。きっと子猫も祥夜くんに付けてほしいんだよ」
まだ足に頬擦りしている猫を抱き上げて、自分の目線の高さまで上げた。このグレーの毛の猫は、本当に俺に懐いているのか。
試しに店員さんに猫の顔を向けてみた。俺の手の中でもがき、シャーッと鳴いた。もう1回、今度は近くにいた別の猫と戯れていた男性に向けてみた。威嚇はしないけど、ジトっとした光のない目で見ていた。俺の方へ向き直してみる。…言わずもがな。
「…自分で自分の首を絞めた気がする」
「命名、お願いします」
店員さんには微笑まれ、猫には甘えた声で鳴かれて。もう断れない。猫を床に下ろすと、俺にお腹を見せて寝転び、伸びをする。その姿が、俺の弟の寝起きの悪さとよく似ていて、ピンときた。
「れお」
「れおくん?良い名前。じゃあ決まりだね」
俺が名前を決めて口にした時、耳をピンと立てて動きが止まり、俺をじっと見つめた猫。目も、瞳孔が一気に縮まるほど大きく開く。今頃弟のれおは、噂されてくしゃみをしているだろう。
名前が〝れお〟になり、すでに浸透しているようで、しっかりと反応を見せている。こちらを見て鳴き声で返し、笑っているようにさえ見えた。思い入れとは怖いものだ。店員さんにまで煽てられ、このままだと、れおから目が離れなくなりそうで、帰ることにして立ち上がる。
「今日は、このくらいにしておきます」
「また、れおくんに会いに来て。何なら保護猫買取りも受け付けてるから」
買取りという言葉を軽くあしらって出口へ向かったけど、れおはその後ろを付いてきて、このまま俺の家まで来てしまいそうな勢い。足でこれ以上外に出てしまわないように抑えても、意味はなかった。
「ちょっと…、来たらだめだって」
言うことを聞かず少しイラッとすると、感情が伝わったのか弱々しくニャッと鳴き、俺の目をじっと見つめてくる。もう一度伝えておこうと、しゃがみ込んでれおの顔を覗き込むと、同じようにれおも首を前に突き出した。
「付いてきたら、だめだからな?ステイ、分かるか?」
「……ニャッ」
何の返事かも分からないけど、鼻と鼻がくっつきそうな距離でステイと伝えたんだから、さすがに分かるだろう。そう思って立ち上がって出ようとしたけど、同じように付いてきたので全く理解してもらえなかったらしい。
「…おい」
確信犯かのように、長く細い尻尾を足首に何度も絡めてきて、連れて帰ってと言われているように感じた。都合の良い解釈は、保護猫にとっても良くない。そう頭では分かっているのに、れおの潤いのある瞳と絡んでくる尻尾が、俺を惑わせる。
「……分かった。連れて帰るから」
俺が折れると、絡めていた尻尾をピンと跳ね上げて、耳も姿勢が良くなった。ステイは伝わらないのに妥協は理解できたということは、分からないふりをしていたと予想できる。れおの罠にハマった俺は、ださい。
「お、れおくん良かったね。ご主人になってくれるって」
店員さんがれおを撫でようと頭に手を近づけると、警戒心むき出しで全身の毛を逆立たせている。
「ごめんごめん」
半分強引ではあったけど、れおの飼い主になってしまった俺。簡単な気持ちでは飼えない。ネグレクトは、懐いてくれている俺でさえも扱いにくい性格。飼うからには、覚悟をもって過ごさないと。



