ホテルを出ると、波止場が近くの路地に飛び込んだのが見えた。慌てて追いかけるが、路地は細く入り組んでいる。足音も聞こえないため、彼がどこに行ったか分からない。
「ちっ、逃がしたか……」
電話をかけて着信音から探ろうかと思いついたが、やめた。それよりもっと確実な方法がある。
俺は路地の外には聞こえないよう声を潜めつつ、できるだけ緊迫感を出しながら叫んだ。
「うわっ、おい! なんだお前、離せ! やめろ! 助けて!」
すぐ近くの路地からガタガタ! と音が聞こえ、すごい勢いで波止場が飛び出してきた。
「王子くん、大丈夫!?」
そんな彼の腕を掴んで、捕らえた。
「え……?」
当然ここにいるのは俺一人だ。自分が騙されたことに気がついた波止場は、さぁっと顔を青くする。
そして、逃げられないと悟ったのか今度は震え始めた。
「お、王子くん……」
「波止場」
彼の名を呼ぶ。波止場がびくりと肩を震わせ、泣きそうな目で俺を見た。
散々走ったせいか彼の髪は乱れており、両方の目が露出している。
「ごめん」
そう言う波止場の声は肩に負けないほど震えていた。声に滲むのは異常なまでの怯えだ。
だが俺にはそこまで怯える理由がよくわからなかった。三国さんからの告白を見てパニックになって逃げたのだと思ったが、そうとは説明しきれないほど怯えている。そして、苦しげにしている。
「まぁ、とりあえず謝るべきは俺じゃなくて三国さんだな。お前に悪気があったのかは別として覗いたんだから、謝った方がいい」
まず、気楽に接してみた。怒ってないことをアピールするように笑うと、波止場がますます顔をこわばらせた。今にも死んでしまいそうな顔だった。
「悪気……」
はく、と波止場の唇が動いた。顔どころか、唇も真っ白だ。死人みたいに。
「あったんだ、悪気。俺……」
ばらばらになった言葉が紡がれる。俺、悪気、あったんだ。悪気があった?
意味がわからなくて顔を顰めた。告白をわざと盗み聞きした話かと思ったが、悪気があってやる行為としては受動的すぎる。でも、盗み聞き以外に彼がしたことがわからない。
「どういう……意味だ?」
俺の問いかけにまた波止場の肩が揺れる。彼の喉からひゅうと弱々しい笛みたいな音がした。瞳は今にも泣き出しそうに揺れているのに、涙は一滴も出てこない。
波止場は死にそうな顔のまま唾液を飲み込んで、ポケットから何かを取り出した。
「これ……」
「……手紙?」
それはミニファイルに包まれた薄ピンク色の便箋だった。大切にされていたのか、しわも汚れもない。
そして、便箋の隅には華奢な文字で「三国 円より」と書いてあった。
「三国さんからの、手紙……」
半ば呆然としながら呟いた。告白されたこと、そして三国さんが波止場に言った「ごめんね」の意味が繋がり始める。
波止場は死刑台にあがる直前みたいな顔をした。怯える舌を動かし、祈るように言葉を吐き出す。
「王子くんに『一緒にいられない』って言った日、俺、三国さんに呼び出されたでしょ。その時、王子くんに渡して欲しいって渡されたんだ」
言葉が変に上擦っていた。喉の奥から言葉が絞り出される。
「王子くんのこと好きだから、渡して欲しいって」
「……でも、俺に渡さなかったんだな」
波止場が三国さんに呼び出されたのは、もう半月近く前だ。当然俺は手紙をもらっていないし、手紙の話だって聞いていない。
「う、ん」
波止場は手紙に目を落とした。
「きっとこれには王子くんのことが好きって書いてあるんだと思った。だから、渡してって頼まれたのに渡さなかった」
泣きそうな顔で、彼が言う。
「王子くんが告白されるのが嫌で、俺、わざと渡さなかったんだ……」
これが波止場のいう悪気。これがわざとした悪いこと。
「ごめん、王子くん。狡くてごめん。俺、三国さんにも謝らなきゃ」
波止場が背を丸めた。逃げるような動作だ。せっかく見えていた目が髪に隠されてしまう。
彼の声が暗く澱んでいく。薄暗い路地裏に冷たい風が入り込む。
「俺、本当に駄目だ。王子くんに釣り合う人になりたくて頑張ったけど、全部上手くできなくて。運動も勉強も平均くらいだし、たまに自力で起きられる日もあったけど、起こして欲しくて寝たふりしてたし。こんなにずるいのに猫目さんと仲良くしてるの見てて嫉妬してたし、根付だって対抗心で買ったみたいなものだし、俺、本当に全部駄目なんだ」
俺は黙って彼を見ていた。波止場は泣いていた。涙が落ちては、アスファルトを黒く汚していく。
「渡せない自分が嫌で一緒にいるのを止めようとしたのに、離れられなかった。ごめん、王子くん。俺、本当に、こんなので、ごめん。一緒にいられるような男じゃなくてごめん」
ごめん。ひたすらに繰り返されるその言葉が鼓膜にへばりついてくる。
「ごめんね、王子くん」
波止場はそうして、長い長い懺悔を締め括った。
息を吐いた。自分の中にある酸素全部を吐き出すみたいにして吐いた。そして新しい空気を吸い込む。身体の中がすぅと冷えていく。
頭の中は意外と冷静だった。彼の言動と行動の真相がわかって、納得するほどだった。
「……お前がそう言うのって、俺が綺麗で賢くて達者で完璧で、なんでもできるから?」
「うん」
質問に対し、波止場は迷いなく頷く。
「王子くんは完璧な、それこそ本当に王子様だと思う。俺じゃあ、何にも足りないくらいに」
付け足された言葉が馬鹿馬鹿しくて、思わず笑ってしまいそうになった。
多少の鈍感はかわいいで済ませられるが、ここまで行き過ぎた鈍感だと、いや、やっぱりこれはこれでかわいいな。好きだと、どんなあばたもえくぼに見える。
「じゃあお前はなんで俺がこんな完璧王子様やってるか、全然気がついてないし全然知らないし挙句に『王子くんは完璧だから俺なんて』とか言ってるのか。俺の気持ちなんて全然知らないで」
でも、いくら好きでもムカつくなとも思った。だから言葉を並べ立てた。
波止場は困惑しながら後ずさる。ざまぁみろ。
息を吸う。
「俺が初めて王子様になろうと思ったのは、十二年前だ。あれがなかったら王子様になろうなんてきっと思わなかった」
ここまで言ってやった。波止場は陸にあげられた魚みたいに身体を跳ねさせて、俺を見た。
戸惑い、恐怖、怯え、その瞳の奥に疑念が浮かんでいる。疑念かよ。期待とか、喜びじゃなくて。
「それって」
波止場はそう言って、よりによって三歩ほどさらに後ずさった。
しかし狭く曲がりくねったこの路地では三歩後ずさることも難しく、彼の背は路地の壁にぶつかってしまう。
「逃げるな」
そう囁いた。波止場の足はぴたりと止まった。
逃げようとしたくせに俺の言葉には逆らわない。その矛盾っぷりにイライラした。王子様らしさなんてもう保っていられない。
べろりと、被っていたものが剥がれ落ちる。
「大体、最初に俺が言ったんだ。約束なんてなくても、次はお前が言うべきだ! って言うかここまで言わせるな! まず十二年も待たせるな正気か! 俺が、俺がどんな気持ちで王子様やってたと思ってんだ。俺がどれだけ自分の気持ち隠してかっこいいところだけ見せてたと思ってる!」
怒鳴り声が出た。本当にとことん王子様らしくない。髪は走ってきたせいで乱れているし、そもそも今日一日歩いてたせいで肌は汗ばんでるし、最悪だ。
「お前と手を繋いで登校したかった、毎朝起こせるの役得だと思ってた、お前が笑いかける度に死んでもいいと思った、お前に見せるためにメイクしたし、お前の為だけに走ってんだよこっちは」
人生で怒鳴ったことなんてほとんどない。だからこんなので簡単に喉が痛くなってしまった。薄く咳き込むと、波止場が心配そうにこちらを見た。見たくせに、手を伸ばして慰めてくれることもない。
「それなのに逃げるのか。もういい、じゃあもういいよ。俺、もうお前なんて知らない。お前は俺が別のお姫様とハッピーエンドしてもいいんだな。俺が聞きたい言葉なんてくれないんだな。根性なしめ、もう帰ってくるなお前は廊下で寝てろ!!」
彼の隣を通ってホテルに戻ろうとした瞬間、波止場に腕を掴まれた。しかもそれだけでは飽き足らず、壁に押し付けられる。
一気に退路がなくなった。でも逃げられないのは波止場も同じだ。
「や、やだ」
「何が?」
やだ、なんかじゃ分からない。分かってやりたくない。
俺はあの時一番最初に言ったのに、どうして言ってくれないのだろうか。
「他の人と付き合ったりしないで」
「そうじゃないだろ。お前マジでいい加減にしろよ」
彼の首に手を回す。身体と身体が近付く。
「あのさ、これがチャンスだと思わないわけ? 人生で最後のチャンス。それがやだとかごめんなさいで済ませていいのかよ」
波止場はぎゅっと息を止めた。それからとうとうその目から涙をこぼす。頬は真っ赤で、顔はぐちゃぐちゃで、嗚咽の合間に必死で呼吸をしていた。
波止場の手が俺の手を握る。掠れる言葉をかき集めるようにして、彼は言う。
「王子くん、何でもするから俺と結婚して……」
それは俺が何度も夢見ていたものと違い、あまりに情けない告白だった。
だいたい場所が悪い。修学旅行先の路地裏なんて、思い出の場所にもならないだろう。しかも薄暗いし、汚いし、埃っぽい。
それでもこの場所で、俺を見つめる波止場の瞳は輝いていた。握られた手が熱くて、骨ばった指先の感触が心地いい。
「うん」
つられたように涙が出た。波止場が涙を拭ってくれた。
「約束、だもんな」
その手が愛しくて、恋しくて、ようやくあの日の約束が叶ったのだと思えた。
「ちっ、逃がしたか……」
電話をかけて着信音から探ろうかと思いついたが、やめた。それよりもっと確実な方法がある。
俺は路地の外には聞こえないよう声を潜めつつ、できるだけ緊迫感を出しながら叫んだ。
「うわっ、おい! なんだお前、離せ! やめろ! 助けて!」
すぐ近くの路地からガタガタ! と音が聞こえ、すごい勢いで波止場が飛び出してきた。
「王子くん、大丈夫!?」
そんな彼の腕を掴んで、捕らえた。
「え……?」
当然ここにいるのは俺一人だ。自分が騙されたことに気がついた波止場は、さぁっと顔を青くする。
そして、逃げられないと悟ったのか今度は震え始めた。
「お、王子くん……」
「波止場」
彼の名を呼ぶ。波止場がびくりと肩を震わせ、泣きそうな目で俺を見た。
散々走ったせいか彼の髪は乱れており、両方の目が露出している。
「ごめん」
そう言う波止場の声は肩に負けないほど震えていた。声に滲むのは異常なまでの怯えだ。
だが俺にはそこまで怯える理由がよくわからなかった。三国さんからの告白を見てパニックになって逃げたのだと思ったが、そうとは説明しきれないほど怯えている。そして、苦しげにしている。
「まぁ、とりあえず謝るべきは俺じゃなくて三国さんだな。お前に悪気があったのかは別として覗いたんだから、謝った方がいい」
まず、気楽に接してみた。怒ってないことをアピールするように笑うと、波止場がますます顔をこわばらせた。今にも死んでしまいそうな顔だった。
「悪気……」
はく、と波止場の唇が動いた。顔どころか、唇も真っ白だ。死人みたいに。
「あったんだ、悪気。俺……」
ばらばらになった言葉が紡がれる。俺、悪気、あったんだ。悪気があった?
意味がわからなくて顔を顰めた。告白をわざと盗み聞きした話かと思ったが、悪気があってやる行為としては受動的すぎる。でも、盗み聞き以外に彼がしたことがわからない。
「どういう……意味だ?」
俺の問いかけにまた波止場の肩が揺れる。彼の喉からひゅうと弱々しい笛みたいな音がした。瞳は今にも泣き出しそうに揺れているのに、涙は一滴も出てこない。
波止場は死にそうな顔のまま唾液を飲み込んで、ポケットから何かを取り出した。
「これ……」
「……手紙?」
それはミニファイルに包まれた薄ピンク色の便箋だった。大切にされていたのか、しわも汚れもない。
そして、便箋の隅には華奢な文字で「三国 円より」と書いてあった。
「三国さんからの、手紙……」
半ば呆然としながら呟いた。告白されたこと、そして三国さんが波止場に言った「ごめんね」の意味が繋がり始める。
波止場は死刑台にあがる直前みたいな顔をした。怯える舌を動かし、祈るように言葉を吐き出す。
「王子くんに『一緒にいられない』って言った日、俺、三国さんに呼び出されたでしょ。その時、王子くんに渡して欲しいって渡されたんだ」
言葉が変に上擦っていた。喉の奥から言葉が絞り出される。
「王子くんのこと好きだから、渡して欲しいって」
「……でも、俺に渡さなかったんだな」
波止場が三国さんに呼び出されたのは、もう半月近く前だ。当然俺は手紙をもらっていないし、手紙の話だって聞いていない。
「う、ん」
波止場は手紙に目を落とした。
「きっとこれには王子くんのことが好きって書いてあるんだと思った。だから、渡してって頼まれたのに渡さなかった」
泣きそうな顔で、彼が言う。
「王子くんが告白されるのが嫌で、俺、わざと渡さなかったんだ……」
これが波止場のいう悪気。これがわざとした悪いこと。
「ごめん、王子くん。狡くてごめん。俺、三国さんにも謝らなきゃ」
波止場が背を丸めた。逃げるような動作だ。せっかく見えていた目が髪に隠されてしまう。
彼の声が暗く澱んでいく。薄暗い路地裏に冷たい風が入り込む。
「俺、本当に駄目だ。王子くんに釣り合う人になりたくて頑張ったけど、全部上手くできなくて。運動も勉強も平均くらいだし、たまに自力で起きられる日もあったけど、起こして欲しくて寝たふりしてたし。こんなにずるいのに猫目さんと仲良くしてるの見てて嫉妬してたし、根付だって対抗心で買ったみたいなものだし、俺、本当に全部駄目なんだ」
俺は黙って彼を見ていた。波止場は泣いていた。涙が落ちては、アスファルトを黒く汚していく。
「渡せない自分が嫌で一緒にいるのを止めようとしたのに、離れられなかった。ごめん、王子くん。俺、本当に、こんなので、ごめん。一緒にいられるような男じゃなくてごめん」
ごめん。ひたすらに繰り返されるその言葉が鼓膜にへばりついてくる。
「ごめんね、王子くん」
波止場はそうして、長い長い懺悔を締め括った。
息を吐いた。自分の中にある酸素全部を吐き出すみたいにして吐いた。そして新しい空気を吸い込む。身体の中がすぅと冷えていく。
頭の中は意外と冷静だった。彼の言動と行動の真相がわかって、納得するほどだった。
「……お前がそう言うのって、俺が綺麗で賢くて達者で完璧で、なんでもできるから?」
「うん」
質問に対し、波止場は迷いなく頷く。
「王子くんは完璧な、それこそ本当に王子様だと思う。俺じゃあ、何にも足りないくらいに」
付け足された言葉が馬鹿馬鹿しくて、思わず笑ってしまいそうになった。
多少の鈍感はかわいいで済ませられるが、ここまで行き過ぎた鈍感だと、いや、やっぱりこれはこれでかわいいな。好きだと、どんなあばたもえくぼに見える。
「じゃあお前はなんで俺がこんな完璧王子様やってるか、全然気がついてないし全然知らないし挙句に『王子くんは完璧だから俺なんて』とか言ってるのか。俺の気持ちなんて全然知らないで」
でも、いくら好きでもムカつくなとも思った。だから言葉を並べ立てた。
波止場は困惑しながら後ずさる。ざまぁみろ。
息を吸う。
「俺が初めて王子様になろうと思ったのは、十二年前だ。あれがなかったら王子様になろうなんてきっと思わなかった」
ここまで言ってやった。波止場は陸にあげられた魚みたいに身体を跳ねさせて、俺を見た。
戸惑い、恐怖、怯え、その瞳の奥に疑念が浮かんでいる。疑念かよ。期待とか、喜びじゃなくて。
「それって」
波止場はそう言って、よりによって三歩ほどさらに後ずさった。
しかし狭く曲がりくねったこの路地では三歩後ずさることも難しく、彼の背は路地の壁にぶつかってしまう。
「逃げるな」
そう囁いた。波止場の足はぴたりと止まった。
逃げようとしたくせに俺の言葉には逆らわない。その矛盾っぷりにイライラした。王子様らしさなんてもう保っていられない。
べろりと、被っていたものが剥がれ落ちる。
「大体、最初に俺が言ったんだ。約束なんてなくても、次はお前が言うべきだ! って言うかここまで言わせるな! まず十二年も待たせるな正気か! 俺が、俺がどんな気持ちで王子様やってたと思ってんだ。俺がどれだけ自分の気持ち隠してかっこいいところだけ見せてたと思ってる!」
怒鳴り声が出た。本当にとことん王子様らしくない。髪は走ってきたせいで乱れているし、そもそも今日一日歩いてたせいで肌は汗ばんでるし、最悪だ。
「お前と手を繋いで登校したかった、毎朝起こせるの役得だと思ってた、お前が笑いかける度に死んでもいいと思った、お前に見せるためにメイクしたし、お前の為だけに走ってんだよこっちは」
人生で怒鳴ったことなんてほとんどない。だからこんなので簡単に喉が痛くなってしまった。薄く咳き込むと、波止場が心配そうにこちらを見た。見たくせに、手を伸ばして慰めてくれることもない。
「それなのに逃げるのか。もういい、じゃあもういいよ。俺、もうお前なんて知らない。お前は俺が別のお姫様とハッピーエンドしてもいいんだな。俺が聞きたい言葉なんてくれないんだな。根性なしめ、もう帰ってくるなお前は廊下で寝てろ!!」
彼の隣を通ってホテルに戻ろうとした瞬間、波止場に腕を掴まれた。しかもそれだけでは飽き足らず、壁に押し付けられる。
一気に退路がなくなった。でも逃げられないのは波止場も同じだ。
「や、やだ」
「何が?」
やだ、なんかじゃ分からない。分かってやりたくない。
俺はあの時一番最初に言ったのに、どうして言ってくれないのだろうか。
「他の人と付き合ったりしないで」
「そうじゃないだろ。お前マジでいい加減にしろよ」
彼の首に手を回す。身体と身体が近付く。
「あのさ、これがチャンスだと思わないわけ? 人生で最後のチャンス。それがやだとかごめんなさいで済ませていいのかよ」
波止場はぎゅっと息を止めた。それからとうとうその目から涙をこぼす。頬は真っ赤で、顔はぐちゃぐちゃで、嗚咽の合間に必死で呼吸をしていた。
波止場の手が俺の手を握る。掠れる言葉をかき集めるようにして、彼は言う。
「王子くん、何でもするから俺と結婚して……」
それは俺が何度も夢見ていたものと違い、あまりに情けない告白だった。
だいたい場所が悪い。修学旅行先の路地裏なんて、思い出の場所にもならないだろう。しかも薄暗いし、汚いし、埃っぽい。
それでもこの場所で、俺を見つめる波止場の瞳は輝いていた。握られた手が熱くて、骨ばった指先の感触が心地いい。
「うん」
つられたように涙が出た。波止場が涙を拭ってくれた。
「約束、だもんな」
その手が愛しくて、恋しくて、ようやくあの日の約束が叶ったのだと思えた。

