徒花妃の開花録

「種 咲華。花を一輪見繕ってくれ」

 ある夜、にわかに咲華の部屋に足音が近づいてきた。
 桃鈴は隣の部屋で休んでいる。ひとりになった咲華の元を訪れたのは熾栄だった。
 熾栄が咲華の元を訪れたことにも驚いたが、その内容もまた予想外だ。咲華は礼をもって迎えることも忘れて素っ頓狂な声を出した。

「へ、陛下? なぜここに」
「この後宮は我のものだ。自分の庭に立ち入るのに許可が必要か?」

 熾栄の言い分は正しいものの、入宮初日のやりとり以来、彼が寄り付かなかったのも事実だ。
 部屋の外で交わした会話など、かの牡丹にまつわるものしかしていない。

「早くしろ。時間が惜しい」

 つっけんどんな物言いに戸惑いつつ、咲華は部屋にある花瓶を見渡す。
 埃まみれの殺風景な部屋だったが、丹念な掃除と咲華の手によって活けられた花々によって、すっかり見違えて華やかな佇まいになっていた。
 その中で目についたのは——やはり牡丹の花だった。
 一輪を抜き取り、手近な紙で包む。

「こちらをお納めください。あの枯れてしまった牡丹を堆肥として育てました」
「……あの牡丹か」

 熾栄の瞳がきゅっと細められる。
 熾栄があのように花を悼み、花に心を寄せる人だったことを知って以来、咲華は熾栄をはじめのように嫌うことができなくなっている。
 今のまなざしとて、かつて自分のために咲いて散っていった花を悼む心が透けて見えた。
 熾栄は花を受け取ると、くるりと回して花を見ている。

「お気に召しましたか?」
「……ああ」

 どこか上の空の返事だ。もっと話を聞ければ好みに添った花を用意できるのに。
 そう思ってしまったことに気づいて、咲華はどこか悔しい気持ちを飲み下した。
 そんな咲華の前に、牡丹の花が向けられる。
 もちろん、熾栄が手にしたものだった。
 ぽかんと口を開けた咲華の手を取ったのは熾栄だ。はじめて彼に触れられたことへ驚いている間に、熾栄は手にした牡丹を咲華に握らせる。
 
「へ、陛下?」
 
 熾栄の手は大きく、分厚い。咲華の手など片手で握りこまれてしまう。
 ぐ、と上から包み込むように力を入れて持たされた牡丹の包みが歪む。
 
「これは、その……」
 
 いきなり花を渡せと言ったり、かと思いきや渡した花を贈ってきたり。
 熾栄の考えていることがわからない。
 咲華が戸惑いのまなざしで見上げた先で、熾栄は片眉を上げて笑っていた。
 
「……っ」

 これは、どういう——。

 熾栄の手が離れる。ぬくもりが失われた肌に落ちたのは、更に凍てつく言葉だった。

「これを別れの挨拶とする。さっさと後宮を出ていけ」
 
「……どういう、おつもりですか」

 どうにかそれだけを口にすることができた。だが、熾栄は取り付くしまもなく、傲然と言い放つ。
 
「説明する義理はない。これは命令だ。種咲華。後宮を去れ」
 
 青天の霹靂だ。
 自分の感情以上に制御できない現実が、咲華の脳内を駆け巡る。

「い……一年のお約束でした」
 
 口走った言葉が熾栄に追いすがるようで、居心地が悪い。
 これではまるで、もっとここに居たいように思われる。
 いや、咲華は種家の役目を背負って後宮に来たのだ。ここで為すべきことは終わっていない。
 だから、こう願ってしまっても仕方ない——こんな言い訳じみたことを考えることが、咲華らしくない。
 しかし咲華の戸惑いを、熾栄は「話が変わった」とひと言で切り捨てた。

「お前が約束だと主張するのは最もだ。ゆえに後からお前の家に詫びの品は贈る。それで終いだ。さっさと荷物をまとめろ」

 熾栄は出会った日のように外套をひらめかせて踵を返す。

「……や」

 咲華の声がひとひら、零れ落ちた。

「嫌です! 納得いく説明をしてくださらなければ出ていきません!」

 熾栄がぴたりと足を止めた。咲華は大股で部屋を突っ切り、熾栄の前に立ち塞がるべく回り込む。
 燃えるような隻眼が咲華を射抜く。だが、退くつもりはなかった。
 
「実態はどうあれ、わたくしはあなたの正妃です。それをこのような扱いをするとは、いかなるご了見ですか」
「妃が皇帝に逆らうと? 斬られても文句は言えぬぞ」

 まなざしよりも冷え切り、研ぎ澄まされた声音の刃が咲華の喉元に突き付けられる。
 しかし、咲華はその刃をしっかりと握りしめた。

「陛下は、今も昔もご自分が間違ったことをしていないと仰っていましたね。これも——間違いではないのですか」
 
 熾栄の肩が一瞬強張る。しかしすぐにそれを感じさせぬようにと呼吸を戻した。

「ああ、そうだ。もともとお前は飾り物。正妃という名の花瓶に坐した徒花よ。我の妃は——蒼鳴ただひとり」

 蒼鳴。
 その名を聞いて、咲華の中で何かが爆ぜた。

「それは嘘です」
「……お前が蒼鳴の何を知っているというのだ。これ以上戯言を申すなら」
「戯言を仰っているのは陛下です。側妃、鴆蒼鳴。そのような方は、はじめから存在しません」
 
 咲華は勢いで言い切った。
 心の臓がどくどくと体を突き動かしている。
 いつだったか、胸に秘めていたことを明かしてくれた女官の肩を抱いたことを思い出す。
 彼女もこのように小刻みに震えていた。
 けれど、咲華は震えを悟られてはならない。
 足に力を入れて立ち向かう。

「おかしいと思っていたのです。亡き妃に一途であることなど、一国の帝には許されることではありません。しかも正統たる若君を追放してまでついた帝位。世継ぎに無頓着なはずがありません。なのに陛下は蒼鳴様を言い訳に、形ばかりの妃であるわたくしには今日の今日まで指一本触れませんでした」

 咲華は胸の前で両の手をきつく握る。
 はじめて触れられたぬくもりが今だ肌に残っている。
 別れを告げるためのものとは思えぬほどに、熱い手のひら。
 これを知っている女人が他にいると考えると、なぜか胸が苦しくなる。

「なのに、陛下をそこまで捉えている方のことを……誰も知らない、それは」
「待て」
 
 熾栄の声が立ち塞がる。
 
「それは……昔の話だ。男と女の話。誰にでも話すことではない」

 だめだ。これではどこまで行っても蚊帳の外に置かれてしまう。
 咲華は意を決した。
 
「では、なぜ弟君まで彼女を知らないのです」

 切り込んだひと言に、熾栄の口がかすかに開く。その隙に咲華は畳み掛ける。
 
「陛下が誰よりも大切になさっているのは弟君でしょう。その方をもってしても知らぬ女人とは誰なのです。思案した結果、ひとつの仮説を得ました。そんな方は——はじめから存在しないのだと」
「待て、なぜお前は弟のことを」
「文を——出しました。陛下が出される文に混ぜて」

 思い切ってそこまで言うと、咲華は唇を噛み締めた。この唇をわななかせるのは恐怖なのか。その恐怖は何に対するものなのか。
 失うことだ、とはわかっている。
 では何を?
 自分の生命なのか、はたまた熾栄からの信頼か。
 後者に至っては愚問だ。
 元より失われる信頼など、熾栄は咲華に持ち得ていない。
 だから、自分の身の心配だけしていればいいはずだ。
 熾栄にどう思われようと関係ない。
 そう、胸を張れるはずなのに——咲華は熾栄の目を見られなくなる。視線が下がっていく。

「実態はどうあろうとわたくしは正妃。その権限を濫用したことは事実です。罰なら……いかようにもお受けします」

 熾栄が深くため息をついた。ぐしゃりと髪を掻き上げ、苛立ちを露わにする。
 
「ことの是非はともかくとして……なぜだ? そんなことをした理由がわからん」
「それは……」

 咲華はすうと息を吸う。
 
「陛下が……あなたが、花を悼んでくださったから。花が癒したあなたを、放っておきたくなかったのです」

 手にした牡丹がふわりと香る。王者の証たる大輪の花。これを育んだかつての花は、今はもう無い。
 だが、その心は——目の前の王者に寄り添ったのだ。

「だから……文を出しました。宛先が弟君だという確証はございませんでした。ただ、陛下がとみに頼るお方ならば、この疑念を晴らしてくださるのではと賭けに出たのです。結果はご存知の通りです」

 咲華は牡丹に勇気づけられて言葉を紡ぐ。そのたびに、花びらがひとひら、咲華の声に応じるように色を鮮やかに咲き誇る。

「陛下が成したこと……帝位にまつわる醜聞も後宮の有り様も、そして……わたくしの扱いも、すべてはあなたのお目を蝕む呪いから皆を守るためだったのですね。巻き添えとなる人物を遠ざけるために。
 陛下は——玉座の呪いをご自分で終わらせるため、わざと呪いを受けたのですね」

 凛と顔を上げた咲華のまなざしを受けて、熾栄はゆるゆると首を振る。なにかを諦めるように固く目をつむると、勢いよく眼帯をむしり取った。

「……!」
 
 咲華は咄嗟に口を覆う。牡丹がぱさりと床に落ちた。
 眼帯の下には、焼け爛れたどす黒い痣が広がっていた。

「昔、都を脅かす鴆という鳥のあやかしがいた」
 
 鴆。それは蒼鳴の家名ではなかったか。
 咲華の声にならない疑問を置いて熾栄は語り出す。

「その蒼い羽根は毒を持ち、羽ばたきひとつで山を枯らす。ひと鳴きすれば人の生命すら奪っていく。それを時の皇帝が退治した。だが、呪いはそこから始まった——鴆は死してなお、毒を帝位に撒き散らす。玉座に着くものに、己と同じ苦しみと死を。それに先帝が——父が侵され始めたのを見て、なんとしても阻止せねばと思い、譲位させた。頑強な父でも弱音を吐いた呪いだ。体の弱い弟が帝位を継いだらひとたまりもない。だから——我が代わりに呪いを受けることにした」
 
 淡々と語られる内容は、弟からの文の内容と相違ない。だが、呪いの痣を目の当たりにしている今となっては、そう簡単に割り切れる内容ではなかった。

「恐ろしくは……なかったのですか」
「呪いがか? 恐ろしくないといえば嘘にはなろうが……それよりも己の眼前で生命が潰える方が恐ろしい」

 熾栄は装束の前をぐいと寛げる。あらわになった胸板から腹にかけても同じ痣が一直線に現れていた。

「この痣は鴆が討たれた時の傷だそうだ。体を袈裟斬りにされ、それでも抵抗した鴆は左目を矢で射られ絶命した。この痣が増えるごとに呪いは我が身を侵食していく。そして——この目だ」

 どす黒い痣が、飛び散った血のように熾栄の左目を覆っている。眼帯の帯で見えにくかったが、それは鼻筋にまで広がっていた。

「じきに呪いは成就する。歴代の皇帝は呪いを恐れ、痣が広がりきらぬうちに位を退いたが俺は違う。この身そのものを呪いの封として命を終わらせる。そののちに弟を呼び戻し、まっさらな玉座に座らせるよう手筈は整えてある。お前に知られるとは思わなかったが——お前が望むのなら、弟の正妃として推薦しておく。あいつは俺と違って血筋も性格も真っ当だ。きっと素晴らしい伴侶になる」

 醜い痣をその身に宿しているとは思えないほどに、爽やかで澱みない語り口だ。
 聞けば聞くほどに目の前の熾栄が透き通っていきそうなのは、咲華の瞳に涙が浮かんでいるからなのか。

「どうして……そんなにも、ご自分を蔑ろにされるのですか」
「蔑ろにしているつもりはないな。これが役割というものだ」

 ——役割。
 咲華はかつての牡丹に思いを馳せる。
 熾栄の清らかな志を汲み取って目覚め、呪いを浄め、散っていったあの日の牡丹。
 あの牡丹は熾栄が王者ゆえに咲いたのではない。熾栄そのものの生き様を感じとって咲いたのだ。
 
「知っての通り、俺は皇位にふさわしくない血筋だ。父も弟も分け隔てなく接してくれたが、どこかで遠慮があった。だから——こうして己の生命の使い道に気づいたのは僥倖ですらある。一時とはいえ国の頂に立つことができた。それだけで儲けものよ」

 熾栄はからからと笑った。
 はじめて目にする笑顔が、こんな哀しい告白の真っ只中になるとは、咲華は想像もしなかった。
 咲華は自分を恥じる。
 己のことばかり考えて、どうして熾栄がこのような境遇に至ったのかに思いも馳せず、ただ父から託された花の種のことばかりにうつつを抜かしていた。
 お飾りだろうと正妃なのだ。
 妃は帝に寄り添い、支え合い、苦楽を共にするもの。
 その立場を自分から手放した咲華は大馬鹿者だ。
 
 ちりん、と耳元で澄んだ音色が鳴った。
 耳飾りが揺れている。
 鼓膜の奥を揺らすのは、自分の鼓動か、それとも。

 無言になった咲華を見遣り、熾栄は落ちた牡丹を拾い上げる。指先でくるくると回して埃を払った。

「……口答えせぬということは納得したか。ならば侍女も引き連れさっさと宮を出ろ。女官たちにも一時の間暇を出す。万が一にもこの呪いが散っては我の計画が水の泡だからな」
「……計画、ですか」
「ああ。弟のように頭が回る方ではないが、それでも継ぎはぎだらけでどうにかしてみせた。我ながら上出来だと自負している」
 
 指で回す勢いが強すぎたのか、牡丹の花びらがぷつりと散った。勢いのままにそれは咲華の元へと舞い落ちる。そのひとひらを握りこんだ咲華は——きっと、前を向いた。
 
「恐れながら、その計画には致命的な穴がございます」
「なに?」
「その計画に、陛下ご自身が救われることが入っていないではありませんか」
 
 咲華は一歩踏み出す。熾栄の痣がよりくっきりと見るために。
 己が伴侶の覚悟を目に焼きつけるように。
 
「花をうつくしく咲かせるのが花匠の役割です。なのに、あなたはそのお命たる花をむざむざ散らそうとしていらっしゃる。花匠たるわたくしが正妃である限り、途中で花の生命を散らそうだなんて見過ごす訳には参りません」
 
 堂々巡りになることはわかっていても、咲華は言葉を重ねる。しかし熾栄は咲華の肩をぐいと掴んで押しやった。
 
「己の散り際は己で決める。お前も言っていただろう。散ることすら役割のひとつだと」
「……ッ!」

 ぱん、と乾いた音がした。
 咲華が熾栄の頬を打ったのだ。
 呆気にとられた熾栄の手を上からぎゅうと握り込む。牡丹を見せつけるように彼の目の高さまで掲げた。
 
「この牡丹は、かつて陛下が悼んだ花から咲きました。陛下は花一輪にもお心を寄せてくださる優しいお方と知りました。なのに、どうしてあなたご自身に心を寄せるものがいるとわからないのです!」

 熾栄が痙攣する。この距離ならば痣に覆われたまなこの奥の光に届く。
 
「お優しい弟君が、己のために兄が生命を散らしたとなれば深く悲しみ、ご自分を責めるでしょう。どんなに聡明な方でも、大切な方を喪えばお心が弱ります。元よりお身体の弱い弟君にとどめを刺すのが陛下ご自身になるかもしれない——どうしてそんなこともわからないのですか!」

 咲華の激情が熾栄を貫く。
 ぶわりと湧き出た涙が咲華の視界を白く濁らせる。
 この手を離せば熾栄の体までもが朽ち果てそうで、咲華は必死に繋ぎ止めようと力を込める。

「……お前は、なぜ、そんなにも」
「……わたくしにも、わかりません。ですが、陛下が背負っているものを共に分かち合いたいと思うのです。これはわたくしの勝手な願いです。花匠としての役割ではなく、種咲華としての心です。その心が……実を結ばずとも、側に咲くことで慰められるものがあるなら……徒花とて咲いた甲斐があるというものではありませんか……!?」
 
 りん。
 耳元で、種が鳴った。
 耳が——熱い。
 
「……っう、あっ!」
「おい、どうし——」

 耳に火がついたように熱い。
 咲華は思いっきり身を捩るが熱さは消えない。
 熾栄の手が耳を掠める。
 耳飾りが外れて——ふたりの間にぽとりと落ちた。
 
 その拍子に、嵌め込まれていた種が、耳飾りを弾き飛ばす。
 つるりとした表面は、黒と白の雲が蠢き、入り混じるように渦を描いて動き出す。
 それを割るようにヒビが入って、芽が顔を出した。
 解放されたことを喜ぶように種が芽吹く。その生長は止まらない。
 太くなる茎、厚くなる葉。
 そしてみるみるうちに小指の爪ほどの大きさから、手のひらを超えて広がっていく。
 
「おい、これはどういう——」
「待ってくださ、これが、わたくしの」

 咲華はどうにかして種を拾い上げる。すっぽりと咲華の手を覆い尽くしていく葉の奥に蕾が見えた。
 咲華の手からこぼれた葉を熾栄が受け止める。
 
 そして——ふたりの手の中で、花が、咲いた。
 
 幾重にも花びらが重なった大ぶりな姿は牡丹によく似ているが、その花芯までもが白いのは牡丹とは違うところだ。
 純白の大輪が、咲華と熾栄の手の中でとくんとくんと息づいている。
 ふたりは息を詰めてその姿を見守っていたが、やがて、熾栄が小さく呻き声をあげた。

「う、っ」

 左目を押さえて熾栄がうずくまる。咲華も花を抱えたまま膝をついた。
 
「陛下、お目が——」
「う、あ、あ……っ!」

 熾栄の低い苦悶の叫びの中に、咲華は聞いたことのない声を聞いた。
 甲高い鳥の鳴き声。
 脳天を刺すような鋭い音が体中を突き抜ける。
 熱い。この熱は耳飾りの時の比ではない。
 焼けそうな痛みに悲鳴を上げかけたその時、抱えた花が熱を覆うようにふわりと香った。 

「……え…………?」
 
 この香りは、牡丹ではない。
 今まで育ててきたどの花の香りとも異なる。
 清廉で、瑞々しい。
 香りだというのに、それは雪解け水を思わせるような清らかさで咲華の体を流れていく。 
 痛みが——熱が、引いていく。
 明滅する視界の中、くずおれた熾栄がかぶりを振りながら起き上がろうとしていたので咲華は急いで手を貸した。

「おい、今のは……」
「父に託された種です。悪いものではないは……ず」
 
 熾栄と向き合った咲華は息を呑む。
 熾栄の痣が、消えていた。

「陛下……お目の、痛みは」
「あ、ああ……?」

 熾栄は信じられないとばかりに瞬きを繰り返す。

「あの牡丹の時と同じ……いや、違う。あの時は芯に燻るものが残っていたが……これは」

 そこで熾栄ははっと顔を上げる。乱れた前髪がばらりと彼の顔にかかるが、それを構うことなく咲華の肩を掴んだ。
 
「痣……痣は消えているのか。痛みは感じぬが、痣はわからぬ。鏡を……」

 熾栄の声が止む。
 咲華はそっと彼の頬に触れて、瞳を合わせるように覗き込んだ。

「鏡なら、こちらにございます」
 
 熾栄の瞳が大きく開かれる。
 咲華のまなこに映るのは、鮮やかに燃える緋色の瞳が——ふたつ。

「ご覧に、なれましたか」
「……ああ」

 咲華が膝に抱えた花に、雫が落ちる。
 その一滴がふるりと揺れて花びらにしみていく。

 強い願いに応じて花開くとされる、秘された種。
 自分に託された種の役割を見届けた咲華は、その香りを味わうように深く息を吸い込んだ。

 もうじき、夜が明ける。