その日の顔合わせで、陸生は珍しく先に切り出した。
「──この契約婚、少し早いが、終わらせようと思う」
突然のことだった。芽衣は湯呑みを置く手を止めた。
「体裁は、もう十分に整った。これ以上長引かせる必要もない」
十分整っているという陸生の言い分は、間違ってはいない。
同居もせず、それらしい振る舞いも求めない──そういう約束だったはずの二人が、月に一度どころか、数えるのも面倒なほど顔を合わせている。
それは傍から見れば、政略とは思えぬほどの睦まじさだった。
「だから、芽衣。……終わりにしよう」
淡々とした口調だった。
しかし、言葉自体は落ち着いているのに、言い淀むような些細な間が──躊躇があった。
何より陸生の目は、明らかに芽衣を見ていない。
「これはまた随分と、歯切れの悪い態度ですね」
「……何が言いたい」
「終わらせたいなら、もっとさっぱりした顔で仰るはずです。今の貴方、まるで──」
芽衣は、少し言葉を選んでから続けた。
「本当は、終わらせたくないみたいな顔をしています」
陸生は答えなかった。
顔を俯け、深く長い息を吐いた。
しばらくの後、陸生は決心したように顔を上げた。
「……そうだ」
絞り出すように、陸生は言った。
「本当は、終わらせたくない。……一年を過ぎても、別れたくなどない」
「では、なぜ」
「お前が、危ないかもしれないから」
陸生は、この日初めて、真正面から芽衣を見た。
その目には、切実な色があった。
「代々、狐堂の者は、娶った娘の生気を糧に力を保ってきた……確かに、そう言われている。しかし、俺には不要なものだし、これまで奪ったことはない」
迷いのない、はっきりとした口調だった。
それが嘘でないことは、芽衣にもわかる。
けれど、だとしたら何故、目の前の陸生はこんなにも思い詰めた顔をしているのだろう。
陸生は目を僅かに伏せた。
「……だが、完全に御しきれていたのかは、わからない。──気づかぬうちに、お前から奪っているんじゃないか。お前といる時間が増えるほど、そう思うようになった」
それは、これまで誰にも打ち明けたことのないであろう、陸生の恐怖だった。
「だから、今のうちに終わらせようと?」
「そうだ」
陸生の言い分はわかる。神である彼だからこその恐れ。
けれど、このまま黙って頷く気には、どうしてもなれなかった。
「この一年近く、貴方とはずっと会っていました。ですが、私はこの通り、どこも衰えてなどいません」
「……思い込んでいるだけかもしれない」
陸生は納得せず、芽衣の手に自分の手を伸ばしてきた。
それから、いつからか避けていたことを思い出したのだろう。
一瞬だけ躊躇い──それでも、指先を重ねた。目を閉じ、何かを確かめるように押し黙る。
長い沈黙のあと、彼は驚いたように目を開けた。
「──減っていない」
「そうでしょうとも」
「いや……それどころか」
陸生は、言葉に詰まった。
「満ちている」
座敷に、しばしの沈黙が落ちた。
「……なぜ」
陸生が、掠れた声で問う。
「さあ、私にはわかりません。ですが、もし本当に何かを奪われているのだとしても──」
芽衣は、重ねられた手をそっと握り返した。
「私が、何も言わないと思いますか? その時は、ちゃんとお伝えしますよ」
「……そうだった、お前はそういう奴だった」
「それに、私たち二人でなら何かあっても乗り越えられる。そうは思いませんか?」
確証があるわけではない。何より、この世に絶対はない。
──けれど、陸生となら、共に歩んでいける。今の芽衣は、そう信じることができた。
「最初は、断られたいと思っていました。誰にも選ばれたくないと。ですが今は──違います。私が、貴方を選びたいのです」
陸生は、何かに耐えるように目を伏せ、それから、ゆっくりと息を吐いた。
「──お前は、本当に変わらないな」
そう言ってから、陸生は、少し居住まいを正した。
「これから先も、俺の傍にいてくれ。……契約ではなく本物の夫婦として」
それは不器用な、けれど紛れもない、求婚だった。
「はい。ずっと、陸生様のお傍に」
芽衣は、万感の思いで、そう答えた。
陸生は、それだけ聞くと、ようやく肩の力を抜き、不器用に、けれど確かに、笑った。
重ねられた手は、もう離れなかった。
こうして、一年限りのはずだった契約は、期限のない婚姻へと変わった。
芽衣の直感は、これまで外れたことがなかった。
あの日、座敷で抱いた「この見合いは破談になる」という予感さえ、一年で終わる契約という形で、結局は当たっていたはずだった。
……だが、この婚姻に、終わりは見えない。
生まれて初めて、芽衣の直感は外れたのだ。
けれど、そんなことは取るに足らない。
大事なのは、誰に言われたからでも、家のためでもなく、芽衣自身が選んだ、という事実だった。
──甘い物に目がなく、勝負事になると妙にムキになる、由緒ある狐神の当主。
その素顔を、これからは同じ屋根の下で、毎日見ることになる。
人前では決して見せない陸生を、芽衣だけが知っている。
そして芽衣もまた──気づけば、誰にも見せたことのない顔を、陸生の前でだけ見せている。
外れた直感の先にあったのは、こんなにも、穏やかな幸せだった。
「──この契約婚、少し早いが、終わらせようと思う」
突然のことだった。芽衣は湯呑みを置く手を止めた。
「体裁は、もう十分に整った。これ以上長引かせる必要もない」
十分整っているという陸生の言い分は、間違ってはいない。
同居もせず、それらしい振る舞いも求めない──そういう約束だったはずの二人が、月に一度どころか、数えるのも面倒なほど顔を合わせている。
それは傍から見れば、政略とは思えぬほどの睦まじさだった。
「だから、芽衣。……終わりにしよう」
淡々とした口調だった。
しかし、言葉自体は落ち着いているのに、言い淀むような些細な間が──躊躇があった。
何より陸生の目は、明らかに芽衣を見ていない。
「これはまた随分と、歯切れの悪い態度ですね」
「……何が言いたい」
「終わらせたいなら、もっとさっぱりした顔で仰るはずです。今の貴方、まるで──」
芽衣は、少し言葉を選んでから続けた。
「本当は、終わらせたくないみたいな顔をしています」
陸生は答えなかった。
顔を俯け、深く長い息を吐いた。
しばらくの後、陸生は決心したように顔を上げた。
「……そうだ」
絞り出すように、陸生は言った。
「本当は、終わらせたくない。……一年を過ぎても、別れたくなどない」
「では、なぜ」
「お前が、危ないかもしれないから」
陸生は、この日初めて、真正面から芽衣を見た。
その目には、切実な色があった。
「代々、狐堂の者は、娶った娘の生気を糧に力を保ってきた……確かに、そう言われている。しかし、俺には不要なものだし、これまで奪ったことはない」
迷いのない、はっきりとした口調だった。
それが嘘でないことは、芽衣にもわかる。
けれど、だとしたら何故、目の前の陸生はこんなにも思い詰めた顔をしているのだろう。
陸生は目を僅かに伏せた。
「……だが、完全に御しきれていたのかは、わからない。──気づかぬうちに、お前から奪っているんじゃないか。お前といる時間が増えるほど、そう思うようになった」
それは、これまで誰にも打ち明けたことのないであろう、陸生の恐怖だった。
「だから、今のうちに終わらせようと?」
「そうだ」
陸生の言い分はわかる。神である彼だからこその恐れ。
けれど、このまま黙って頷く気には、どうしてもなれなかった。
「この一年近く、貴方とはずっと会っていました。ですが、私はこの通り、どこも衰えてなどいません」
「……思い込んでいるだけかもしれない」
陸生は納得せず、芽衣の手に自分の手を伸ばしてきた。
それから、いつからか避けていたことを思い出したのだろう。
一瞬だけ躊躇い──それでも、指先を重ねた。目を閉じ、何かを確かめるように押し黙る。
長い沈黙のあと、彼は驚いたように目を開けた。
「──減っていない」
「そうでしょうとも」
「いや……それどころか」
陸生は、言葉に詰まった。
「満ちている」
座敷に、しばしの沈黙が落ちた。
「……なぜ」
陸生が、掠れた声で問う。
「さあ、私にはわかりません。ですが、もし本当に何かを奪われているのだとしても──」
芽衣は、重ねられた手をそっと握り返した。
「私が、何も言わないと思いますか? その時は、ちゃんとお伝えしますよ」
「……そうだった、お前はそういう奴だった」
「それに、私たち二人でなら何かあっても乗り越えられる。そうは思いませんか?」
確証があるわけではない。何より、この世に絶対はない。
──けれど、陸生となら、共に歩んでいける。今の芽衣は、そう信じることができた。
「最初は、断られたいと思っていました。誰にも選ばれたくないと。ですが今は──違います。私が、貴方を選びたいのです」
陸生は、何かに耐えるように目を伏せ、それから、ゆっくりと息を吐いた。
「──お前は、本当に変わらないな」
そう言ってから、陸生は、少し居住まいを正した。
「これから先も、俺の傍にいてくれ。……契約ではなく本物の夫婦として」
それは不器用な、けれど紛れもない、求婚だった。
「はい。ずっと、陸生様のお傍に」
芽衣は、万感の思いで、そう答えた。
陸生は、それだけ聞くと、ようやく肩の力を抜き、不器用に、けれど確かに、笑った。
重ねられた手は、もう離れなかった。
こうして、一年限りのはずだった契約は、期限のない婚姻へと変わった。
芽衣の直感は、これまで外れたことがなかった。
あの日、座敷で抱いた「この見合いは破談になる」という予感さえ、一年で終わる契約という形で、結局は当たっていたはずだった。
……だが、この婚姻に、終わりは見えない。
生まれて初めて、芽衣の直感は外れたのだ。
けれど、そんなことは取るに足らない。
大事なのは、誰に言われたからでも、家のためでもなく、芽衣自身が選んだ、という事実だった。
──甘い物に目がなく、勝負事になると妙にムキになる、由緒ある狐神の当主。
その素顔を、これからは同じ屋根の下で、毎日見ることになる。
人前では決して見せない陸生を、芽衣だけが知っている。
そして芽衣もまた──気づけば、誰にも見せたことのない顔を、陸生の前でだけ見せている。
外れた直感の先にあったのは、こんなにも、穏やかな幸せだった。


