狐神様との契約婚は、一年で終わるはずでした

 狐堂家の使いの者が文を運んできたのは、陸生の来訪予定日の朝のことだった。

『すまない。今日は、都合が悪くなった』

 何でも、明日に控えていた大口の商談が、先方の都合で今朝に早まったらしい。

 致し方のない事情だ。陸生に非はなく、理由としては十分だ。
 ……しかし、芽衣は自分がひどく気を落としていることに気づいた。

 たかが、月一の顔合わせが一度中止になった。……それだけなのに。

(そもそも近頃は、月に一度どころではない頻度で顔を合わせているのだし。今更、一度くらい会えなくとも……)

 理性では、そう判断できている。
 それなのに、朝から支度していた茶菓子を前に、芽衣はしばらく座り込んだまま動けずにいた。



 翌日、芽衣は自分でも予想していなかった行動に出た。
 文の返事も出さずに、狐堂屋を訪ねたのである。

「──芽衣?」

 出迎えた陸生は、明らかに驚いていた。

 それもそうだろう。
 陸生が前触れなく芽衣の元を訪れることはあっても、逆はこれまでなかったのだから。

「……ご迷惑でしたか」
「いや……まったく」

 家の者が周囲にいる中、陸生は表情は引き締めてはいるが、口の端がわずかに緩んでいる。

 陸生は、見合いの席の時から一度も、偽った表情を浮かべていない。
 退屈なら退屈な顔。驚いたら、驚いた顔。

 そして今は──。

 (……喜ばれている)

 芽衣も思わず、微笑んだ。

 座敷には、いつもより明らかに多い茶菓子が並んでいた。

「随分と、豪華な茶菓子ですね」

 思わず指摘すると、陸生はあからさまに目を泳がせた。
 数度言葉に詰まり、結局いつものように「たまたまだ」と言った。

 芽衣は敢えていつものようには頷かず、じっと陸生を見つめた。
 ──すると観念したのか、陸生が唇を尖らせた。

「……本当は、今日、こちらから出向くつもりだったんだ」

 つまりこの茶菓子は、芽衣への贈り物だったのだ。

「こんなにたくさん……ありがたいですけれど」
「けれど?」
「食べきれませんね」

 どう考えても、二人で食べるには多すぎる。
 極めつけに芽衣も、昨日渡せなかった白露堂の茶菓子を持参している。

「……好みが、わからなかった」

 陸生は、ばつが悪そうにそう零した。
 どうやら、迷った末にあれもこれもと見繕っているうちに、この量になってしまったらしい。

 芽衣は思わず頬を緩めた。

「では、私はいただける分だけ頂戴いたします。陸生様も、いただける分だけ召し上がってください」

 芽衣がそう言うと、陸生は目に見えて動揺した。

「……芽衣。俺は、結構食べる方だ」
「存じております」

 陸生は、本当にわかっているのか、と言いたげに、不安げな顔になった。

「食べきってしまうかもしれない」
「美味しく食べ終える──それが一番ではありませんか?」
「……いいのか?」
「貴方が美味しそうに召し上がるところを見るのは、嫌いではありませんので」

 陸生は、耳の先までほんのりと赤くして、そっぽを向いた。
 ……何というか、少し前から思っていたことだが、

(陸生様は──結構可愛いところがある)



 次に顔を合わせたのは、それから、まだ三日と経たないうちのことだった。

「お前は、最初から本当に物怖じしないな」

 沈黙の合間に、陸生がぽつりと零した。

「今更、何の話です」
「見合いの席で、俺にはっきり物を言ったのは、お前が初めてだった」

 その口ぶりには、心底不思議そうな色が滲んでいた。
 芽衣は、少し考えてから答えた。

「無理もないでしょう」
「ん?」
「陸生様は神の血筋。しかも、生気まで取られるかもしれない。となれば、誰だって下手なことは言えません。機嫌を損ねれば何をされるかわからない──そう思われていても、おかしくはないかと」

 陸生は、何か言い返そうとして、口を噤んだ。
 考えたこともなかった、というような顔だった。

 実際のところ、見合いの席で陸生が言った『皆、媚びてばかり』という認識自体は、間違ってはいないのだろう。陸生の容姿や地位に惹かれて媚びた人もいたはずだ。彼はそれほどのものを持っている。

 その媚びる理由も、様々だっただろう。
 見合い相手自身が陸生に惹かれてのこともあれば、家のためにと打算で振る舞う者もいたに違いない。

 芽衣は、そのどちらを責める気もなかった。

 陸生は、しばらく思案を続けていた。
 彼にはっきりと物申す者がいなかったのは、神相手故の恐怖だったのかもしれない──その可能性に、この時初めて行き当たったようだった。



 そうしているうちに、契約の期限である一年が、もう半分を切ろうとしていた。

「あと半年か」

 ある日の顔合わせで、陸生がぽつりと呟いた。

「早いものですね」

 芽衣は、茶を注ぎながら、努めて何でもないふうに答えた。だが内心では、その半年という数字に、思いのほか動揺している自分がいた。

「──なあ」

 陸生が、ふと問うた。

「お前は、俺が、怖くなかったのか?」

 芽衣は、一瞬だけ迷って、結局本音を伝えた。
 
「怖くなかったと言えば、嘘になります」

 芽衣とて、狐神の血筋が怖くなかったわけではない。
 けれど、その怖さを取り繕って、当たり障りのない笑みで誤魔化すより、正直でいる方がずっとマシだった。

「……そうか」

 陸生は、視線を庭先へと落とした。

「狐堂の血は、代を経るごとに、力を増していく。俺は、その中でも殊更強いと言われて育った」

 長年言い聞かされてきたことを、そのまま繰り返しているような口ぶりだった。

「生気を吸ったことは、一度もない。……だが、それを己の意思だけで、完全に御しきれているかと言われれば──正直、自信はない」

 力が強すぎるということは、それだけ、抑えが利かなくなる瞬間がある、ということでもあるらしい。

 生け贄めいた役目は御免だ。今でも、その気持ちは変わらない。
 しかしそれは、知らぬ相手という前提の元での話だ。

(……けれど、陸生様なら)

 最早、陸生は知らぬ相手ではない。
 彼がどういう人なのかを、芽衣なりに理解していた。

 だから──陸生にならば、構わない。
 芽衣は、そこまで思っている自分を自覚していた。

「まぁ、人間いつか死ぬのですし。生気の一つや二つ、差し出したところで、大した違いはないですよ」

 次の瞬間、湯呑みを持つ陸生の手が止まった。

「──良くない」

 声が、明らかに低くなっていた。

「良くない。死ぬな」
「え……」
「軽々しく、そういうことを言うな」

 陸生は、それまで見せたことのない真剣な顔で、芽衣をまっすぐ見ていた。淡々とした商談のような口ぶりも、投げやりな諦観も、そこにはなかった。

 芽衣は、その剣幕に、思わず言葉を失った。

 それからというもの、陸生は不自然なほど、芽衣に触れることを避けるようになった。

 茶菓子を渡す時も、貝合わせに興じる時も、指先が触れそうになると、さり気なく手を引く。
 何気ない仕草のはずなのに、それが積み重なるほど、避けられていることは嫌でも分かった。