二人の祝言は、つつがなく終わった。
神域とされる奥の院で執り行われた式は、狐堂家に仕える者たちの佇まいや、焚かれた香の匂いにまで、どこか浮世離れした厳粛さが漂っていた。
黒紋付に身を包んだ陸生は、香の煙の向こうで、人ならざるものらしい、底の見えない静けさをまとっていた。怜悧な顔立ちも、凛とした佇まいも、あまりに整いすぎている。
……美しいとは思う。
けれど、それは芽衣にとって、絵画や月を眺めているのに近い感覚だった。
掟通りの──しかし形だけの婚姻関係は、こうして確かに結ばれた。
そうして迎えた、祝言後、初めての「月一の顔合わせ」。
通された座敷で茶を出され、当たり障りのない世間話を二言三言交わし、陸生は「では、また来月」とだけ言って切り上げた。
契約通りの、利害のみの関係。
これでいい。これがちょうどいい距離感なのだと、芽衣も──おそらく陸生も満足していた。
小さな綻びが出始めたのは、二度目の顔合わせでのことだった。
芽衣が手土産に持参した「白露堂」の練り切り。
陸生は、芽衣が茶に口をつけている僅かな間に、自分の分をきれいに平らげてしまっていた。
そこまではいい。
話の間、陸生の目が、芽衣の皿の上の菓子を熱心に見つめている。
そのあまりにあからさまな視線に、気づかないふりを続ける方が難しかった。
「お好きなんですか、甘い物」
芽衣の問いに、陸生はわかりやすく狼狽えた。
「……さ、作法として確認しているだけだ」
不思議な言い訳に、芽衣は咄嗟に吹き出しそうになるのを抑えた。
「お茶菓子を凝視する作法はなかったはずですが」
「っ……」
陸生は黙ってそっぽを向いてしまう。
芽衣が皿を差し出すと、彼は数秒の間迷った末に、結局黙って手に取った。
「『白露堂』のお茶菓子、美味しいですよね。また持ってきます」
「──『白露堂』……」
陸生は、自身の記憶を辿るように視線を上向けた。
知らないのも無理はない。
「表立って商いをしている店ではありませんから。柊木が代々贔屓にしている店で、新しい馴染みは、もう何十年も取っていないとか」
陸生は、得心したように小さく頷いた。
一気に口に含んだ茶菓子で、頬が膨らみモゴモゴとしている。
その様は、無作法としか言いようがない。
しかし、それを追求する気にもなれないほど、陸生の子供じみた横顔が妙に微笑ましかった。
(まぁ、今は私的な時間なのだし)
芽衣はそう結論づけて、咎めることはしなかった。
三度目の顔合わせでは、貝合わせの道具が座敷に置かれていた。
向かい合って座り、対になる貝を探し当てていくだけの単純な遊びだ。陸生が「暇つぶしだ」と言って始めたその遊びに、芽衣は特に気負わず応じた。
芽衣はこういう遊びに、めっぽう強かった。
当然のように連戦連勝していくと、陸生の顔つきが、目に見えて変わっていった。
同じ貝に、同時に手を伸ばしたことも、一度や二度ではない。
初めのうちこそ、指先が触れるたびに小さく詫び合っていたが、勝負に夢中になるうちに、そんな遠慮はどこかへ消えていた。
陸生の手はいつも、驚くほど涼しかった。人ではないのだと、そのたびに思い出す。
けれど、ムキになる彼を見ていると、そんなことどうでも良くなってしまった。
「……もう一局」
「もう三局目ですが」
「次で最後にする」
「往生際が悪いですよ」
からかうように言うと、陸生はあからさまに顔をしかめた。
そして、拗ねたように「いいだろ。あと一局」と、唇を尖らせた。
……結局、日が暮れるまで「次で最後」を繰り返した。
由緒ある狐神の当主が、遊びにここまで本気になるとは、誰が想像しただろうか。
見合いの席で退屈しきっていた、あの美しく尊大な男と同一人物とは思えない。
芽衣は込み上げてくる笑いを堪えながら、次の貝を並べ直した。
「月に一度」という約束は、そう経たずに崩れ始めた。
「近くまで来たついでだ」
そう言って陸生が芽衣の屋敷を訪れたのは、前回の顔合わせからまだ二週間も経っていない頃だった。
狐堂屋のある通りから柊木の屋敷までは、決して近くはない。
……芽衣はそれを指摘しようとして、やめた。
別に、陸生を毛嫌いしているわけではない。会いたくないわけではないのだ。
次は十日後。その次は一週間後。
「たまたま」
「少し話したいことがあって」
「今日は──」
理由は毎回変わったが、どれも似たり寄ったりだった。
芽衣はそのたびに、「そうですか」とだけ返し、茶を出した。
──二人の婚姻は、愛のない契約である。
けれど、芽衣の手帳に記された「陸生様、来訪」の文字は、気づけば数えるのも面倒なほどの頻度になっていた。
神域とされる奥の院で執り行われた式は、狐堂家に仕える者たちの佇まいや、焚かれた香の匂いにまで、どこか浮世離れした厳粛さが漂っていた。
黒紋付に身を包んだ陸生は、香の煙の向こうで、人ならざるものらしい、底の見えない静けさをまとっていた。怜悧な顔立ちも、凛とした佇まいも、あまりに整いすぎている。
……美しいとは思う。
けれど、それは芽衣にとって、絵画や月を眺めているのに近い感覚だった。
掟通りの──しかし形だけの婚姻関係は、こうして確かに結ばれた。
そうして迎えた、祝言後、初めての「月一の顔合わせ」。
通された座敷で茶を出され、当たり障りのない世間話を二言三言交わし、陸生は「では、また来月」とだけ言って切り上げた。
契約通りの、利害のみの関係。
これでいい。これがちょうどいい距離感なのだと、芽衣も──おそらく陸生も満足していた。
小さな綻びが出始めたのは、二度目の顔合わせでのことだった。
芽衣が手土産に持参した「白露堂」の練り切り。
陸生は、芽衣が茶に口をつけている僅かな間に、自分の分をきれいに平らげてしまっていた。
そこまではいい。
話の間、陸生の目が、芽衣の皿の上の菓子を熱心に見つめている。
そのあまりにあからさまな視線に、気づかないふりを続ける方が難しかった。
「お好きなんですか、甘い物」
芽衣の問いに、陸生はわかりやすく狼狽えた。
「……さ、作法として確認しているだけだ」
不思議な言い訳に、芽衣は咄嗟に吹き出しそうになるのを抑えた。
「お茶菓子を凝視する作法はなかったはずですが」
「っ……」
陸生は黙ってそっぽを向いてしまう。
芽衣が皿を差し出すと、彼は数秒の間迷った末に、結局黙って手に取った。
「『白露堂』のお茶菓子、美味しいですよね。また持ってきます」
「──『白露堂』……」
陸生は、自身の記憶を辿るように視線を上向けた。
知らないのも無理はない。
「表立って商いをしている店ではありませんから。柊木が代々贔屓にしている店で、新しい馴染みは、もう何十年も取っていないとか」
陸生は、得心したように小さく頷いた。
一気に口に含んだ茶菓子で、頬が膨らみモゴモゴとしている。
その様は、無作法としか言いようがない。
しかし、それを追求する気にもなれないほど、陸生の子供じみた横顔が妙に微笑ましかった。
(まぁ、今は私的な時間なのだし)
芽衣はそう結論づけて、咎めることはしなかった。
三度目の顔合わせでは、貝合わせの道具が座敷に置かれていた。
向かい合って座り、対になる貝を探し当てていくだけの単純な遊びだ。陸生が「暇つぶしだ」と言って始めたその遊びに、芽衣は特に気負わず応じた。
芽衣はこういう遊びに、めっぽう強かった。
当然のように連戦連勝していくと、陸生の顔つきが、目に見えて変わっていった。
同じ貝に、同時に手を伸ばしたことも、一度や二度ではない。
初めのうちこそ、指先が触れるたびに小さく詫び合っていたが、勝負に夢中になるうちに、そんな遠慮はどこかへ消えていた。
陸生の手はいつも、驚くほど涼しかった。人ではないのだと、そのたびに思い出す。
けれど、ムキになる彼を見ていると、そんなことどうでも良くなってしまった。
「……もう一局」
「もう三局目ですが」
「次で最後にする」
「往生際が悪いですよ」
からかうように言うと、陸生はあからさまに顔をしかめた。
そして、拗ねたように「いいだろ。あと一局」と、唇を尖らせた。
……結局、日が暮れるまで「次で最後」を繰り返した。
由緒ある狐神の当主が、遊びにここまで本気になるとは、誰が想像しただろうか。
見合いの席で退屈しきっていた、あの美しく尊大な男と同一人物とは思えない。
芽衣は込み上げてくる笑いを堪えながら、次の貝を並べ直した。
「月に一度」という約束は、そう経たずに崩れ始めた。
「近くまで来たついでだ」
そう言って陸生が芽衣の屋敷を訪れたのは、前回の顔合わせからまだ二週間も経っていない頃だった。
狐堂屋のある通りから柊木の屋敷までは、決して近くはない。
……芽衣はそれを指摘しようとして、やめた。
別に、陸生を毛嫌いしているわけではない。会いたくないわけではないのだ。
次は十日後。その次は一週間後。
「たまたま」
「少し話したいことがあって」
「今日は──」
理由は毎回変わったが、どれも似たり寄ったりだった。
芽衣はそのたびに、「そうですか」とだけ返し、茶を出した。
──二人の婚姻は、愛のない契約である。
けれど、芽衣の手帳に記された「陸生様、来訪」の文字は、気づけば数えるのも面倒なほどの頻度になっていた。


