「すみません、アイスコーヒーお持ちしました」
絶妙なタイミングで店員がトレイを持って近づいてきたおかげで、俺の耳元に迫っていた高城の顔がすっと離れた。
「あ、ありがとうごひゃいます……!」
口が盛大にもつれ、俺は逃げるようにアイスコーヒーのグラスに手を伸ばした。
高城は自分のソファーに戻ることもなく、当然のように俺の隣に座ったままだ。長い足を持て余すように少し斜めに組み、涼しい顔でグラスを受け取っている。
(近い……! 肩がずっと触れてるし、高城の体温がダイレクトに伝わってくる……!)
緊張でグラスを持つ手が小刻みに震えていると、高城が横からすっと手を伸ばしてきた。
彼はガムシロップとミルクのパックを手に取ると、手際よくシロップのフタをめくり、俺のグラスの中へ注ぎ入れていく。
「あ、高城、俺シロップ一個で——」
「お前、甘いの好きだろ。昨日の居酒屋でもカシスオレンジのシロップ多めなの頼んでたし」
「っ……そんなところまで見てたの……?」
「言っただろ。お前のことは全部見てるって」
くるくるとストローでアイスコーヒーをかき混ぜてから、高城はそれを俺の手に握らせた。
至れり尽くせりな過保護ぶりに、俺の心臓は休む暇がない。一口飲むと、まろやかな甘さとほろ苦さが広がって、引きつっていた肩の力がふっと抜けた。
「……美味しい」
「だろ」
高城は俺の頭に手を置き、よしよしと撫でるように髪を梳いた。
その触れ方があまりにも優しくて、俺は思わず目を細めて彼の手に頭を預けそうになってしまう。
(ダメだ……高城に甘やかされるのに慣れたら、俺、本当にダメ人間になっちゃう……)
だけど、自分を「イケてる大学生」に見せかけようと張り詰めていた心が、高城の隣にいる時だけは不思議と穏やかに溶けていくのを感じていた。
喫茶店を出て、駅へ向かう並木道を二人で並んで歩く。
午後になり、少しずつ日差しが柔らかくなってきた。隣を歩く高城は、相変わらず俺の少し先を歩きながら、俺が歩道の内側を歩けるようにさりげなく位置を調整してくれている。
(高城って、本当はすごく面倒見が良いんだな……。サークルではクールで一匹狼っぽく見えてるけど……)
そんなことを考えていた、その時だった。
「あ! 瀬名じゃん! こんなところで何してんの?」
前方から、サークルの同期である男子学生ふたり組が歩いてきた。
一軍グループの威勢が良いメンバーで、俺が飲み会で必死にテンションを合わせていた相手だ。
「あ、みんな! お疲れ〜!」
俺は咄嗟に「擬態陽キャモード」のスイッチを入れた。
背筋を伸ばし、明るい笑顔を作り、声のトーンを上げて手を振る。
「瀬名、二限休講だったろ? この後みんなでラウンドワン行かない? ボウリングやってから飲み直そうぜー!」
(えっ……ボウリング……? 俺、球技めちゃくちゃ苦手だし、大人数でワイワイやるの、今の体力だと絶対限界が来る……!)
脳内でアラートが鳴り響く。断りたい。だけど、「ノリが悪い」「付き合いが悪い」と思われるのが怖くて、断りの言葉が喉につかえて出てこない。
「あ、えっと……面白そうだね! 俺、全然——」
引きつった笑顔で「行く」と言いかけたその瞬間。
俺の肩が、強い力で横から抱き寄せられた。
「うわっ!?」
高城の長い腕が俺の首元に回され、俺の体はすっぽりと高城の胸の中に収まる格好になった。
高城は冷ややかな瞳でサークルの男子二人を見据えると、低い声できっぱりと言い放った。
「ダメだ。瀬名はこれから俺と課題やるから」
「えっ……高城!? なんでお前も一緒にいるの?」
「瀬名の時間は、今日はもう俺が買ってるんで」
「か、買ってるって……!? お前ら、なんか怪しくない……? 最近ずっと一緒じゃん」
同期の男子たちが、目を見開いて俺たちを見比べる。
高城は全く悪びれる様子もなく、俺の肩をさらに強く引き寄せた。
「怪しくない。俺がこいつの面倒見てるだけだ。じゃあな」
高城はそれだけ言うと、あっけにとられる同期たちを置き去りにして、俺の肩を抱いたままズカズカと歩き出した。
「た、高城……っ! 離れて……! 周りの目があるから……っ!」
「大人しくしてろ。お前、放っておいたら断れずに連れ回されて、また夜中に一人で泣きそうな顔するだろ」
「泣きそうな顔なんてしてない……っ!」
「してた。俺にはわかる」
高城の腕の力は緩まない。だけど、その腕から伝わってくる高城の体温と、力強い鼓動が、俺の不安を綺麗に拭い去ってくれたのも事実だった。
(断ってくれた……俺が一番言えなかった言葉を、高城が代わりに言ってくれた……)
高城に抱えられるようにして歩きながら、俺は胸の奥が熱く疼くのを感じていた。
ただの過保護なお世話焼きじゃない。高城の瞳に宿るあの強い光は、まるで——俺を誰にも渡したくないと言っているみたいで。
夕方、高城と駅で別れ、俺はアパートの自室へと戻ってきた。
鍵をかけて玄関に倒れ込むように靴を脱ぐ。
カバンを放り出してベッドにダイブすると、一気に全身の緊張が解けてため息が漏れた。
「ふぅぅぅ…………」
天井を見つめながら、自分の胸にそっと手を当てる。
心臓は、まだトクトクと甘い余韻を残して揺れていた。
(高城のこと、ただの『かっこいい同期』だと思ってたのに……)
目を閉じると、高城の顔ばかりが浮かんでくる。
ベランダで缶コンポタージュをくれた時の優しい目。
ノートの端っこに書かれた『好きなもん食わせてやる』の文字。
喫茶店で口元のソースを拭ってくれた、熱い指先。
そして、俺を庇うように抱き寄せてくれた、力強い腕。
(俺……高城のこと……好きになりかけてる……?)
一度芽生えた予感は、あっという間に胸の中で大きくなっていく。
だけど、すぐに現実的な思考がブレーキをかけた。
(ダメだよ。高城は誰にでもモテるハイスペックで、俺はただのダサい擬態陽キャだ。高城が優しくしてくれるのは、不器用な俺が放っておけないだけで……恋愛感情なんかじゃない)
「勘違いしちゃダメだ、俺……」
自分に言い聞かせるように呟いた、その時だった。
ピロリン、と枕元に置いたスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
画面を見ると、発信者の名前に『高城柊真』と表示されている。
(ひやあぁぁぁ指が震える……!?)
心臓が一気に跳ね上がった。通話ボタンを押す手が震える。
呼吸を整えてから、俺はそっと通話をタップした。
「は、はい……! 瀬名です……!」
『なんだその改まった出方は』
受話器から聞こえてきたのは、少し低くて、どこかくぐもった高城の声だった。
耳元から直接脳揺らされるような感覚に、俺は思わずベッドの上で正座した。
「あ、いや……高城から電話なんて珍しいから、びっくりして……どうしたの?」
『……ちゃんと家着いたか?』
「うん、着いたよ! さっき部屋に入ったところ」
『そうか。……体調は? 胃が痛くなったりしてないか』
「全然大丈夫だよ! 高城が美味しいオムライス奢ってくれたし、すごく元気!」
『ならいい』
受話器の向こうで、高城がフッと安堵したように息を吐く音が聞こえた。
たったそれだけの会話なのに、高城がわざわざ俺の無事を確認するために電話をくれたのだと気づいて、胸が苦しいくらい愛おしくなる。
「高城は……? もう家着いた?」
『ああ。今、自分の部屋だ』
「そっか……今日は本当にありがとう。高城のおかげで、すごく楽しかったよ」
『……俺もだ』
沈黙が流れる。だけど、嫌な沈黙じゃない。受話器越しにお互いの吐息が聞こえるような、甘くて静かな時間だった。
『明日も、一限だろ』
「うん。明日も経済学あるよ」
『朝、八時半に講義棟の前な。遅刻すんなよ』
「えっ、明日も待っててくれるの……? 高城、甘やかしかげんが過ぎるよ……! 俺、一人で行けるよ?」
自分でも頑張らなきゃと思い、少し強がってみせると、受話器の向こうで高城が低くくすくすと笑った。
『ダメだ。お前が一人だと、俺が心配で授業に集中できない』
「〜〜〜っ! なにそれ……!」
『だから、大人しく俺に甘やかされてろ』
ずるい。そんな言い方をされたら、断れるはずがないじゃないか。
俺が顔を真っ赤にして黙り込んでいると、高城の声が一段と低く、優しく落ちてきた。
『……じゃあな、葵。ゆっくり休めよ』
「っ……!?」
耳を疑った。
瀬名、ではなく。
高城の口から出たのは、俺の下の名前——『葵』だった。
「た、高城……今……」
『おやすみ』
プツッ、と通話が切れた。
暗転した画面を見つめたまま、俺はそのままベッドの上に崩れ落ちた。
「な……名前……呼ばれた……っ!!」
両手で真っ赤になった顔を覆う。
心臓の音がうるさすぎて、もう自分の気持ちをごまかすことなんてできなかった。
ただの「放っておけない不器用なやつ」への親切じゃない。
高城の甘い過保護と、容赦ない溺愛の波に、俺はもう逃れられないところまで飲み込まれようとしていた。


