(な、なになになに、今の……!?)
耳たぶに残る温かい感触と、耳元で聞こえた低く甘い声。
俺の心臓は、さっきまでとは比べものにならないスピードで鐘を打っていた。ドクドクと重い脈打ちが全身に響き渡り、自分の顔がリンゴみたいに赤くなっているのが自分でもわかる。
高城は、茫然と立ち尽くす俺からゆっくりと手を離した。
そして、何事もなかったかのように自分のポケットからスマートフォンを取り出すと、画面の時刻を確認してフッと息を吐く。
「よし、そろそろ戻るぞ。一次会、あと二十分くらいで終わりそうだからな」
「えっ、あ、うん……! そ、そうだね……!」
急に素っ気なくなった高城の態度に拍子抜けしつつ、俺は慌ててペコペコと頷いた。
高城はベランダのドアノブに手をかけたが、ふと足を止めて振り返る。
「あ、それと瀬名」
「は、はいっ!」
「座敷に戻ったら、俺の隣に座れ。お前、さっきサークルの先輩方に捕まりかけてただろ。あの人たち、ノリで一気飲みさせようとするから危険なんだよ」
「え……でも、急に席替えしたら不自然じゃ……」
「大丈夫だ。俺が適当に理由つけるから。お前はただ、俺の横で静かにコンポタージュでも飲んでろ」
「……う、うん」
(なにこの手際の良さ……スパダリすぎるだろ……)
高城の言動がいちいちイケメンすぎて、俺の脳内処理が追いつかない。
だけど、彼が先行してドアを開け、居酒屋の店内へ戻っていく背中を追いかけながら、俺の胸の奥はふんわりと温かくなっていた。
さっきまでの「逃げ出したい」「消えてしまいたい」という絶望的な孤独感が、綺麗に消え去っていたのだ。
座敷に戻ると、相変わらず店内は黄色い悲鳴とコールで大盛り上がりだった。
「あ、瀬名くーん! どこ行ってたの〜? 一緒に飲も〜!」
「高城も戻った! こっちこっちー!」
案の定、酔っ払った先輩たちが俺たちを見つけて手を振ってくる。
俺が思わず身構えた瞬間、高城が自然な動作で俺の前に出た。
「すみません、瀬名、ちょっと酒回っちゃったみたいで。風に当たってきたんですけど、顔赤いんで俺の隣で休みませますね」
「えー! 高城、瀬名くんのことめっちゃ心配するじゃん! 過保護〜!」
「ま、高城が言うならしゃーないか! 瀬名、無理すんなよ〜!」
高城のあまりにも堂々とした言い訳に、先輩たちはあっさりと納得して笑い声をあげた。
高城は俺の腕をそっと引くと、壁際の少し落ち着いた席へと俺を誘導してくれる。
「ほら、座れ」
「あ、ありがとう……高城……」
言われるがままに高城の隣に腰を下ろす。
高城の体温と、ほのかにつけている柑橘系の香水の匂いがふわりと漂ってきて、それだけで急に安心感が広がっていく。
高城は手際よくテーブルの上のウーロン茶のグラスを引き寄せると、俺の手に握らせた。
「これ飲んで落ち着け。ご飯、全然食べてなかったろ。これ食えるか?」
そう言って、高城が取り皿に盛ってくれたのは、出汁巻き卵と焼き鳥だった。
どれも俺が「食べたいな」と遠目から指を咥えて見ていた食べ物ばかりだった。
「え、これ……」
「お前、さっきからそればっかり見てただろ。声かけづらそうにしてたから、俺が確保しておいた」
「っ……! 高城、エスパーなの……?」
「違う。お前が分かりやすすぎるだけだ」
高城は呆れたように肩をすくめたが、その口元はわずかに緩んでいた。
(うぅ……優しい……。高城って、クールで冷たい人だと思ってたのに、めちゃくちゃ周りを見てて優しいじゃん……!)
一口食べた出汁巻き卵は、出汁がじゅわっと口の中に広がって、思わず「おいしい……」と吐息が漏れた。
その瞬間、横から視線を感じて振り向くと、高城が頬杖をつきながら、愛おしいものでも見るような優しい目で俺を見つめていた。
「な、なに……? 俺の顔、なんか付いてる……?」
「ううん。美味そうに食うなと思って」
「だって、本当に美味しいし……それに、高城が取ってくれたから……」
口走ってから、恥ずかしさで自分で自分の首を絞めたくなった。
何だその乙女ゲームみたいなセリフ! キモがられたらどうするんだ!
慌てて補足しようと「あ、いや、そういう意味じゃなくて……!」と手を振ると、高城はフッと低く笑った。
「そ。なら良かった」
高城の手が伸びてきて、俺の頭をぽんぽんと優しく撫でる。
その手つきがあまりにも慣れていて、そして温かくて、俺は身動きが取れなくなってしまう。
(やばい……心臓がもたない……! なんでこんなに甘やかされてるの俺……!?)
その後も、高城は徹底して俺を守り抜いてくれた。
他のサークルメンバーが話しかけてくれば、俺が困らないように間に入って会話を繋いでくれ、お酒を勧められそうになると「瀬名は俺の連れなんで」とスマートに断ってくれた。
気づけば、あんなに地獄だと思っていた飲み会の時間が、あっという間に過ぎ去っていた。
「じゃあみんな、一次会お疲れ様でした〜! 二次会行く奴はカラオケ集合ね〜!」
部長の掛け声で、居酒屋の前で解散となった。
ぞろぞろと夜の街へ消えていくサークルメンバーたちを見送りながら、俺は大きく息を吐き出した。
「ふぅ……なんとか生き残った……」
「お疲れ。ほら、ジャケット着ろ。夜は冷えるぞ」
高城が自分の上着を羽織りながら、俺の肩にポンと手を置く。
「高城、今日は本当にありがとう……! 高城がいなかったら、俺絶対に途中で倒れてたか、気まずくて逃げ出してたと思う」
心からの感謝を込めて深々と頭を下げると、高城は少しだけ眉を下げて、困ったように笑った。
「別に。俺が勝手にやったことだし」
「でも! すごく助かったよ。俺、やっぱりノリのいい陽キャにはなれないかもしれないけど……高城のおかげで、ちょっとだけ大学生活やっていけそうな気がした」
必死に言葉を紡ぐ俺を、高城は黙って見つめていた。
街灯の光が彼の美しい顔立ちを照らし出し、その瞳に妖しいまでの熱が宿っているのが見える。
高城はゆっくりと歩み寄ると、俺の耳元に顔を近づけて、他の誰にも聞こえない低い声で囁いた。
「瀬名」
「は、はい……!」
「明日からの大学、一人で無理して周りに合わせようとするなよ」
「え……?」
「朝、講義棟の前で待ってるから。昼飯も俺と一緒に食うぞ」
「へっ!? い、良いの……? 俺なんかと一緒で……」
高城はサークル内でも一二を争う人気者だ。俺みたいな陰キャ上がりがいつも一緒にいたら、高城の評判に傷がつかないか心配になってしまう。
だが、高城は俺のそんな不安を吹き飛ばすように、力強い手で俺の髪をぐしゃっと撫でまわした。
「『俺なんか』って言うな。俺がお前と一緒にいたいんだよ」
「〜〜〜っ!?」
「じゃ、気をつけて帰れよ。着いたら連絡しろ」
高城はポンポンと俺の肩を叩くと、背を向けて駅の方へと歩き出した。
片手をひらひらと振る後ろ姿は、どこまでも絵になっていて、格好良かった。
俺はその場に突っ立ったまま、赤くなった顔を両手で覆うことしかできなかった。
(『俺がお前と一緒にいたい』って……そんなの、勘違いしちゃうだろ……!)
胸の奥がキュンと締め付けられるような、甘くて苦しい痛み。
大学デビューに失敗して途方に暮れていた俺のキャンパスライフは、この夜を境に、想像もしなかった方向へと動き始めていたのだった。


