冷徹陰陽師は、健気な契約妻を手放せない

 ◇

「う」

 ゆっくりと目を開いた。くらくらする頭で、辺りを見回す。
 古びた木目の天井に、朽ち果てた畳。障子戸もボロボロで、空いた穴からは外の光が差し込んでいた。

 ──ここは……。

 はっきりしない意識のまま、紗樹は懸命に記憶を辿った。
 そこは裏寂れた廃屋のようだった。昼間だと言うのに薄暗く、ひんやりとした冷気を漂わせている。

 ──わたしは、確か、お夕飯の買い物をしていて。それで。

 荷物は、擦り切れた畳の上に転がっていた。籐籠の中から、買ったばかりの大根と、魚を包んだ袋が覗いている。

 ──……お魚が傷んでしまう。

 ずりずりと這うように荷物へと手を伸ばす。
 そのときようやく紗樹は部屋の隅に座っていた人影に気が付いた。
 ぞくりとした。
 影はあぐらをかき、うっとりとこちらを見ていた。真っ黒なはずなのに、どうしてか『笑っている』とわかる。背筋を冷たいものが走る。この感覚は、あやかしだ。
 あやかしに拐かされたのだ。〝やっと〟──。

 恐怖と共に、安堵が胸に広がっていく。

 これで千早の役に立てる。

 紗樹は懐に忍ばせた護符を探った。千早の強力な念が込められた護符は、千切るだけで彼へと居場所を伝えられるはずだった。

「……す……ず」

 あやかしが身じろぐと、影もゆらりと不気味に動いた。

「きょ……のごは……んは?」

 目を凝らす。あやかしは、不明瞭な言葉で、辿々しく話しかけてきた。幽鬼となってまだ間もないのかもしれない。あやかしは男のようだった。

「お、れ……なんでも、食べる」

 あやかしが目を細める。嬉しそうな表情に、もしかしたら、と思った。
 彼が花嫁を攫ったのは、夫婦の真似事をしたかったからなのかもしれない。でも、なぜ?
 紗樹は身体に力を込め、ゆっくりと身を起こした。
 攫われた時のことをはっきりと思い出していた。
 それは買い物の最中だった。このあやかしは白昼堂々正面から現れ、紗樹に話しかけてきたのだ。
「仕事が早めに終わったから、いっしょに帰ろう」と──千早に化けて。
 だから紗樹は返事をしてしまった。
 その手を取ってしまった。

 ほかの花嫁たちもおそらくは同じ手口で攫われたに違いない。

 あやかしはゆらゆらと揺れ続けたまま、紗樹をじっと見つめていた。
 早く千早たちに知らせなくては。
 護符を強く握りしめる。瞬間、あやかしは立ち上がったかと思うと、紗樹の腕をぐっと掴んできた。

「っ!」
「何、を、している」

 ぎりりと音のなるほど腕を握られ、紗樹は痛みに顔を歪めた。突然態度を一変させたあやかしは、匂いを嗅ぐように紗樹が握りしめた護符に黒々とした鼻を近づける。

「男の、匂い」

 地を這うような声に、びくりと肩を震わせる。あやかしの血走った瞳と目があった。哀しみのこもった眼差しは、しかしすぐに怒りへと移り変わる。

「あ……」
「おまえも、俺を裏切るのか」

 気付けばあやかしは、もう一方の手に、錆び、ところどころが欠けて使い物にならなくなった包丁を握りしめていた。鉄と血の匂いがした。

「おまえも、俺を裏切るのか!」

 涙を流し始めたあやかしは繰り返し叫ぶと、包丁を握りしめた腕を高々と振り上げた。

「いやっ!」
「紗樹ぅ!」

 紗樹が目を瞑るのと、悟があやかしに体当たりするのは同時だった。掴まれていた腕が離れ、痛みは遠のいていく。

「大丈夫か⁈」
「悟くん!」
「紗樹の香袋の匂いが変な場所に移ったから、慌てて追いかけてきたんだ」

 確かに紗樹は、肌身離さずお守りのように香袋を持ち歩いていた。

「ありがとう、おかげで助かったわ」
「へへっ」

 しかし、巨体を持つあやかしには、悟の体当たりなど少しも効いてはいなかった。邪魔されたことに怒り、また襲いかかろうとしてくる。紗樹は今しかないと護符を破った。

 あとは千早が来てくれるまで、なんとか逃げ回るしかない。そう身構えた瞬間だった。後ろから強い力で抱きよせられる。

「紗樹……‼︎」
「……っ!」

 よく知る匂いとあたたかなぬくもりに、不意に泣きそうになる。紗樹の腰にしっかりと腕を巻きつけたまま、千早は背後に飛びずさった。

「大丈夫か、怪我は」

 くるりと向きを反転させられ、額が触れそうなほど顔を近づけられる。
 助かった。
 紗樹は子供のように顔を歪ませた。

「……ちはや、さん」
「遅くなって悪かった、怖かったな」

 ほっとして泣き出してしまった紗樹を、千早はそっと胸の中に入れ抱きしめてくれた。大きな手に頭を撫でられ、身体中の力が抜けていく。慣れ親しんだ匂いがした。

「ちょ、もう演技はいいからこっち手伝えって!」
「ああ」

 振り向けば、幸弥があやかしに応戦しているところだった。紗樹を奪われたことに激怒したあやかしは、影を倍にも膨らませ包丁を振り回している。幸弥は必死にサーベルでその攻撃を受け止めていた。

「妻を返せ‼︎ 返せ返せ返せ‼︎」
「紗樹の夫は俺だ」

 ぎゅっと肩を掴まれ、引き寄せられる。すぐそばから響いた低い声に、紗樹は驚いて顔を上げた。
 あやかしを冷たく見据えたまま、千早はゆっくりと立ち上がる。

「っ。千早、さん」
「……すぐに終わる。絶対に動くなよ、紗樹」

 離れる刹那、紗樹は千早に、そっと髪を撫でられた。慈愛のこもった眼差して見つめられ、戸惑ってしまう。
 どうして。もう、そんなことをする必要はないのに。

 問いかける暇はなかった。

 帯刀していたサーベルを引き抜いた千早は、刀身に何事かの術をかける。
 あやかしは見るからに目の色を変えた。

「や、やめろ、来るな」
「もう遅い」

 逃げようとしたのか、薄くなりかけたあやかしの影を幸弥の呪符が引きとらえた。

「千早! 早く!」
「ああ」

 千早は剣を構え、流麗な動きであやかしをたすきに切り裂いた。
 断末魔が響き、影はゆっくりと霧散していく。

「ど……して」

 好きだったのに。
 そばにいてほしいだけだったのに。

 影が散り切る一瞬、きらりと光ったのは彼の涙だったのか。知る術は、もうこの世のどこにも残されていないのだった。