それからは、何事もない一週間が過ぎ去った。
紗樹は家事に精を出し、千早たちは情報収集に奔走する。
攫われた花嫁たちの夫は、一刻も早く救い出してくれと白陵路の屋敷まで懇願してきた。その悲壮な姿に、紗樹の胸もつきりと痛む。
「伴侶が突然いなくなるなんて、どれだけ辛いことでしょう」
ある晩。夕食の席で、紗樹はぽつりとそう言った。千早も箸を止め、考えるように間を開ける。
外からは、夏夜の虫の音が聞こえていた。
「どうだろうな。きみにとっては、あの小鬼がいなくなるような感覚じゃないか」
悟くんが、いなくなる。
それは想像するだけで寂しいことだった。
食事をする手が遅くなったことに気付いたのか、千早が迷うように口を開いた。
「彼とは、長いのか」
まるで男女の仲のような言い方をされ、紗樹はおかしくなって笑った。
「紗樹」
「すみません。あんまり真剣なお顔をされるものですから」
なんとか笑いを収めて、紗樹は千早を見つめ直す。
最初に会ったときにも思ったけれど、やっぱり彼は綺麗な男性だった。
凛と伸ばされた背筋も、通った鼻筋も、切れ長の瞳も。ああ、そうだ。低く静かな声も好きだと、紗樹は思う。それから、夕食の感想を言葉に変えてくれるところも、熱心に仕事に打ち込む姿も。
彼の本当の花嫁になる娘は、幸せになるだろう。
「悟くんは、わたしが七つの頃からの付き合いです。両親が亡くなり、伯父に引き取られたのですが、伯父は、この目がどうしても嫌いなようで。わたしは厳しく躾けられました」
そんな折だった。悟が現れたのは。
「悟くんは、折檻されて、泣いてばかりいるわたしを不思議そうに見ていました。わたしは、悟くんを怖がる余裕もなくて……伯父が恐ろしいと、助けてほしいと、泣きつきました」
『お父さんとお母さんに会いたい。こんなところにいたくない』
悟は、童のような形をしているが、あれで三百年は生きている鬼の一族だ。彼はにっと笑い、紗樹の願いを聞き入れた。
『なにか美味いもんくれたら仕返ししてきてやるよ』
紗樹は夕飯の握り飯を彼にあげた。
それから悟は、伯父の髪の毛を引き抜いたり、行く手に小石を置いて転ばせたりした。小さく素早い悟は身を隠すのも上手で、伯父はわけのわからないといった、不可解そうな顔をしていた。
「性格が悪いと思われるかもしれませんが、悟くんのおかげで、胸がすっきりしたのを覚えています。わたしは悟くんに食べ物をわけ続けて、それから友人になりました」
現れたり消えたりする気まぐれなあやかし。
けれど彼はまぎれもない、紗樹の友だちだった。
「……俺は」
千早の瞳はまっすぐに紗樹に向けられていた。やさしい夜のような色はいつ見てもほっとしてしまう。
「きみの目を恐ろしいと感じたことはない。むしろ」
と、彼は続けた。
「初めて見たときは、あんまり綺麗で、驚いた」
「…………」
「不吉だとは思わなかった」
『気味が悪い』
『変な色』
『あやかしみたい』
好き勝手に言われてきたこの瞳を、綺麗だと言ってくれる人は、千早が初めてだった。
だから紗樹は、泣きそうになってしまう。たとえ夫婦の演技だとしても。
この人が好きだと、思った。
瞬間──一際強い風が吹いて、屋敷の窓をガタリと鳴らした。
千早は言った。
「きみはあやかしを惹き寄せると言ったな」
「……はい」
「だから伯父上は、きみを推したのだったな」
確認するように言われる。
「今回だけじゃないんだろう?」
見透かされたように言われて、紗樹はこくりと頷く。何度も何度も、あやかし討伐に駆り出された記憶が蘇る。
「そうか。家業とはいえ、難儀だな。この事件が解決したら、またあの家に戻るのか?」
「……ほかに行く当てはありませんから」
紗樹は自覚した恋心を振り払うように笑う。
「近いうちに、独り立ちか、本当の嫁ぎ先を見つけたいとは思っているのですが」
「……だったら」
「?」
何か言いかけた千早は、けれどすぐに口を閉ざした。
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
そう言って、食事を再開してしまう。
──だったら、このままここにいればいい。
そう言ってもらえるのではないかと、一瞬でも期待した自分は愚かだった。
紗樹はぬるくなった味噌汁に手をつける。味が薄い。味噌の加減を、間違えてしまっていた。
◇ ◇ ◇
俺は。何を言おうとした?
食事を終え書斎に籠った千早は、今し方の出来事を反芻し自分でも驚いてた。
紗樹の境遇を聞き、情けが生まれてしまったのかもしれない。仕事上の関係でしかない彼女を引き止めようだなんて。紗樹だって困るに決まっていた。
けれど、とも思う。
毎日帰る頃に用意されているあたたかな夕餉。
丁寧に掃除された邸宅。
悟を見つめるやさしい青。
そんな一つひとつが、彼女の誠実さと本質を物語っていて、もはや源一郎の言う『不吉な娘』という心象はすっかり消え去っていた。
囮の役目も自分にできるならばと身を差し出し、千早の要求も聞いてくれて。そんな中、たった一つした抵抗と言えば悟を祓わないでほしいというあまりにささやかなものだった。
──あやかしだけが友人か。
街に出かけたとき、紗樹は見る物すべてに目を輝かせていた。うまく嫁役をこなし、自分に気に入られようとする魂胆かとも思ったが、違った。あの子は真実、心から外出を楽しんでいたのだ。
彼女の擦り切れた着物や聞いた境遇から察するに、紗樹は幼い頃から外へ出ることも、自由に買い物することも許されていなかったのだろう。
幸弥につつかれるように買った香袋も、彼女は心から喜んでいた。『大切にします』と向けられた笑顔は痛いほどに儚くて、思わず、着物やかんざし、草履まで買い揃えてしまったのは、果たして本当に仕事からだったのか。
白陵路家の嫡男として自分も厳しく躾けられた自負はある。けれど、紗樹のそれとは本質がまったく違っていた。
(一人きりの食事にも慣れていたが)
二人で会話をする食卓も悪くはなかった。
窓の外、更けていく夜を見つめる。紗樹を憎からず思いはじめている自分に、気付いてしまっていた。
翌日も、つつがなく日常は過ぎた。
早起きの紗樹は、千早が目覚める頃にはいつもベッドにはいなかった。微かなぬくもりを追うように階下へ降り、そこに用意されたあたたかな朝食を彼女といただく。身なりを整え、紗樹に見送られながら屋敷を出る。そんな毎日にも、自然と慣れてきてしまった。
「まーだ愛妻弁当作ってもらってねぇのかよ?」
幸弥のそんな小言も、聞き飽きていた。
昼時の対策課は閑散としている。そもそもあやかしを相手どる千早たちは、外での仕事が多く、ほとんど外食となる。
千早が紗樹に弁当を頼まない理由もそこにあった。急な外出が多いため、無駄になるかもしれない。そう思うと、容易には言い出せなかったのだ。
「……千早あ」
別件の調査報告書に目を通していると、幸弥がそっと身を寄せてきた。
彼らしからぬ抑えたような声に、千早は「どうした」と顔を上げた。真面目な話をしようとするとき、こいつはいつもそうだった。
「そろそろ次の段階に移ったほうがいいかもしれない。紗樹ちゃんには、悪いけど」
なかなか現れようとしないあやかしに、千早自身も焦りは感じていた。もしかしたら、身体の関係をもたねば騙すことができないのかもしれないと。しかし迷ってしまう。
「……わかっている」
離婚を前提とした婚姻なのに、紗樹にそこまでの負担を強いていいものだろうか。万が一子供が出来でもしたら本物の嫁になってもらうしか──。そのときだった。
「白陵路隊長!」
妖対策課の扉が乱暴に開かれ、部下の一人が飛び込んでくる。
「ああ! いた! 良かった……っ!」
汗だくの彼は、敬礼も敬語も忘れ、千早に駆け寄ってくる。
「どうした」
立ち上がり問えば、部下はひどく険しい顔で言った。数少ない事情を知る側の部下は、千早と幸弥にだけ聞こえる声量で耳打ちする。
「奥様が、あやかしに連れ去られました」
「なっ」
朗報に幸弥は口の端をあげたが、千早を見て、苦笑する。
「なんて顔してんだよ」
ぐらりとする。目の前が、暗く染まっていた。
紗樹は家事に精を出し、千早たちは情報収集に奔走する。
攫われた花嫁たちの夫は、一刻も早く救い出してくれと白陵路の屋敷まで懇願してきた。その悲壮な姿に、紗樹の胸もつきりと痛む。
「伴侶が突然いなくなるなんて、どれだけ辛いことでしょう」
ある晩。夕食の席で、紗樹はぽつりとそう言った。千早も箸を止め、考えるように間を開ける。
外からは、夏夜の虫の音が聞こえていた。
「どうだろうな。きみにとっては、あの小鬼がいなくなるような感覚じゃないか」
悟くんが、いなくなる。
それは想像するだけで寂しいことだった。
食事をする手が遅くなったことに気付いたのか、千早が迷うように口を開いた。
「彼とは、長いのか」
まるで男女の仲のような言い方をされ、紗樹はおかしくなって笑った。
「紗樹」
「すみません。あんまり真剣なお顔をされるものですから」
なんとか笑いを収めて、紗樹は千早を見つめ直す。
最初に会ったときにも思ったけれど、やっぱり彼は綺麗な男性だった。
凛と伸ばされた背筋も、通った鼻筋も、切れ長の瞳も。ああ、そうだ。低く静かな声も好きだと、紗樹は思う。それから、夕食の感想を言葉に変えてくれるところも、熱心に仕事に打ち込む姿も。
彼の本当の花嫁になる娘は、幸せになるだろう。
「悟くんは、わたしが七つの頃からの付き合いです。両親が亡くなり、伯父に引き取られたのですが、伯父は、この目がどうしても嫌いなようで。わたしは厳しく躾けられました」
そんな折だった。悟が現れたのは。
「悟くんは、折檻されて、泣いてばかりいるわたしを不思議そうに見ていました。わたしは、悟くんを怖がる余裕もなくて……伯父が恐ろしいと、助けてほしいと、泣きつきました」
『お父さんとお母さんに会いたい。こんなところにいたくない』
悟は、童のような形をしているが、あれで三百年は生きている鬼の一族だ。彼はにっと笑い、紗樹の願いを聞き入れた。
『なにか美味いもんくれたら仕返ししてきてやるよ』
紗樹は夕飯の握り飯を彼にあげた。
それから悟は、伯父の髪の毛を引き抜いたり、行く手に小石を置いて転ばせたりした。小さく素早い悟は身を隠すのも上手で、伯父はわけのわからないといった、不可解そうな顔をしていた。
「性格が悪いと思われるかもしれませんが、悟くんのおかげで、胸がすっきりしたのを覚えています。わたしは悟くんに食べ物をわけ続けて、それから友人になりました」
現れたり消えたりする気まぐれなあやかし。
けれど彼はまぎれもない、紗樹の友だちだった。
「……俺は」
千早の瞳はまっすぐに紗樹に向けられていた。やさしい夜のような色はいつ見てもほっとしてしまう。
「きみの目を恐ろしいと感じたことはない。むしろ」
と、彼は続けた。
「初めて見たときは、あんまり綺麗で、驚いた」
「…………」
「不吉だとは思わなかった」
『気味が悪い』
『変な色』
『あやかしみたい』
好き勝手に言われてきたこの瞳を、綺麗だと言ってくれる人は、千早が初めてだった。
だから紗樹は、泣きそうになってしまう。たとえ夫婦の演技だとしても。
この人が好きだと、思った。
瞬間──一際強い風が吹いて、屋敷の窓をガタリと鳴らした。
千早は言った。
「きみはあやかしを惹き寄せると言ったな」
「……はい」
「だから伯父上は、きみを推したのだったな」
確認するように言われる。
「今回だけじゃないんだろう?」
見透かされたように言われて、紗樹はこくりと頷く。何度も何度も、あやかし討伐に駆り出された記憶が蘇る。
「そうか。家業とはいえ、難儀だな。この事件が解決したら、またあの家に戻るのか?」
「……ほかに行く当てはありませんから」
紗樹は自覚した恋心を振り払うように笑う。
「近いうちに、独り立ちか、本当の嫁ぎ先を見つけたいとは思っているのですが」
「……だったら」
「?」
何か言いかけた千早は、けれどすぐに口を閉ざした。
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
そう言って、食事を再開してしまう。
──だったら、このままここにいればいい。
そう言ってもらえるのではないかと、一瞬でも期待した自分は愚かだった。
紗樹はぬるくなった味噌汁に手をつける。味が薄い。味噌の加減を、間違えてしまっていた。
◇ ◇ ◇
俺は。何を言おうとした?
食事を終え書斎に籠った千早は、今し方の出来事を反芻し自分でも驚いてた。
紗樹の境遇を聞き、情けが生まれてしまったのかもしれない。仕事上の関係でしかない彼女を引き止めようだなんて。紗樹だって困るに決まっていた。
けれど、とも思う。
毎日帰る頃に用意されているあたたかな夕餉。
丁寧に掃除された邸宅。
悟を見つめるやさしい青。
そんな一つひとつが、彼女の誠実さと本質を物語っていて、もはや源一郎の言う『不吉な娘』という心象はすっかり消え去っていた。
囮の役目も自分にできるならばと身を差し出し、千早の要求も聞いてくれて。そんな中、たった一つした抵抗と言えば悟を祓わないでほしいというあまりにささやかなものだった。
──あやかしだけが友人か。
街に出かけたとき、紗樹は見る物すべてに目を輝かせていた。うまく嫁役をこなし、自分に気に入られようとする魂胆かとも思ったが、違った。あの子は真実、心から外出を楽しんでいたのだ。
彼女の擦り切れた着物や聞いた境遇から察するに、紗樹は幼い頃から外へ出ることも、自由に買い物することも許されていなかったのだろう。
幸弥につつかれるように買った香袋も、彼女は心から喜んでいた。『大切にします』と向けられた笑顔は痛いほどに儚くて、思わず、着物やかんざし、草履まで買い揃えてしまったのは、果たして本当に仕事からだったのか。
白陵路家の嫡男として自分も厳しく躾けられた自負はある。けれど、紗樹のそれとは本質がまったく違っていた。
(一人きりの食事にも慣れていたが)
二人で会話をする食卓も悪くはなかった。
窓の外、更けていく夜を見つめる。紗樹を憎からず思いはじめている自分に、気付いてしまっていた。
翌日も、つつがなく日常は過ぎた。
早起きの紗樹は、千早が目覚める頃にはいつもベッドにはいなかった。微かなぬくもりを追うように階下へ降り、そこに用意されたあたたかな朝食を彼女といただく。身なりを整え、紗樹に見送られながら屋敷を出る。そんな毎日にも、自然と慣れてきてしまった。
「まーだ愛妻弁当作ってもらってねぇのかよ?」
幸弥のそんな小言も、聞き飽きていた。
昼時の対策課は閑散としている。そもそもあやかしを相手どる千早たちは、外での仕事が多く、ほとんど外食となる。
千早が紗樹に弁当を頼まない理由もそこにあった。急な外出が多いため、無駄になるかもしれない。そう思うと、容易には言い出せなかったのだ。
「……千早あ」
別件の調査報告書に目を通していると、幸弥がそっと身を寄せてきた。
彼らしからぬ抑えたような声に、千早は「どうした」と顔を上げた。真面目な話をしようとするとき、こいつはいつもそうだった。
「そろそろ次の段階に移ったほうがいいかもしれない。紗樹ちゃんには、悪いけど」
なかなか現れようとしないあやかしに、千早自身も焦りは感じていた。もしかしたら、身体の関係をもたねば騙すことができないのかもしれないと。しかし迷ってしまう。
「……わかっている」
離婚を前提とした婚姻なのに、紗樹にそこまでの負担を強いていいものだろうか。万が一子供が出来でもしたら本物の嫁になってもらうしか──。そのときだった。
「白陵路隊長!」
妖対策課の扉が乱暴に開かれ、部下の一人が飛び込んでくる。
「ああ! いた! 良かった……っ!」
汗だくの彼は、敬礼も敬語も忘れ、千早に駆け寄ってくる。
「どうした」
立ち上がり問えば、部下はひどく険しい顔で言った。数少ない事情を知る側の部下は、千早と幸弥にだけ聞こえる声量で耳打ちする。
「奥様が、あやかしに連れ去られました」
「なっ」
朗報に幸弥は口の端をあげたが、千早を見て、苦笑する。
「なんて顔してんだよ」
ぐらりとする。目の前が、暗く染まっていた。


