翌朝。
帝都の空には、目の覚めるような青が広がっていた。
千早の運転する自動車で街中へと連れられた紗樹は、人の多さと活気に圧倒されてしまう。
今日の外出はあくまで「囮」としての示威行動だ。仲睦まじい新婚夫婦として街を歩き、潜伏しているあやかしにその存在を誇示しなければならない。
けれど。
「紗樹、腕を」
「……失礼します」
千早に促され、紗樹はそっと彼の腕に手を添えた。休日だからと、千早は着流し姿だった。濃紺色のやわらかな生地越しに、彼の体温が伝わってくる。対して紗樹は、伯父から下げ渡された檸檬色の小袖を身につけていた。白陵路の嫡男に恥をかかせるわけにはいかないと、急ぎ見繕われたそれはよくよく見ると縫い目も荒い。紗樹は気付かれませんようにとそっと祈った。
千早は相変わらずの無表情だったが、歩幅を心持ち小さくし、紗樹の歩調に合わせてくれていた。夫婦に、見えるように。
「紗樹。あやかしは幸福な花嫁を好む。……不本意だろうが、なるべく楽しそうにしていてくれ」
「はい」
そう答えたものの、紗樹にとってこれほど華やかな街を歩くのは初めてのことだった。軒を連ねる煉瓦造りの建物に、最新の流行に身を包んだモダンガールたち。見るものすべてが新鮮で、意識せずともその瞳は輝きを帯びてしまう。
「……ほう、あれが噂の白陵路様の奥方か」
「なんと睦まじい。お似合いのご夫婦だこと」
道ゆく人々から向けられる言葉に、紗樹は頬を赤らめて俯いた。千早はそれを「演技」として受け取っているようだったが、紗樹にとっては生まれて初めて受ける肯定的な視線だった。
やがて二人は、老舗の香道具店が並ぶ通りへと差し掛かった。
ふわりと漂ってきたのは、白檀や沈香のどこか懐かしく落ち着く香りだ。紗樹は思わず、一軒の店の前で足を止めてしまう。
開いた硝子戸の向こうには、色とりどりの縮緬で作られた香袋が並んでいた。
「…………」
じっと見つめる紗樹の視線に気づき、千早も足を止めた。
「欲しいのか?」
「……いえ。ただ、あまりに綺麗な色だったので」
紗樹はすぐに微笑んで、未練を断ち切るように歩き出した。
伯父の屋敷にいた頃、何かを欲しがることは禁じられていた。その癖が抜けず、新妻らしく夫にねだるという考えさえ及ばなかった。
「……」
けれど、千早は歩き出しながら、無意識にその香袋の「色」を脳裏に焼き付けていた。
紗樹が目を留めたのは、彼女の瞳と同じ、透き通るような青い色をしていた。
「よお。ご両人」
そろそろ帰ろうかという道中、ふいにかけられた声に二人は足を止めた。吊り気味の目に、黒衣の詰襟軍服。
明るい表情の青年は、親しげに紗樹たちに歩み寄ってきた。
「幸弥」
千早が、驚いたように声を上げる。紗樹はそっと首を傾けた。
「お知り合いですか?」
「……同僚だ。きみとのことも知っている」
言われて、改めて青年に目を向ける。同僚。では、どこかにやけた顔をした彼も、あやかしを祓えるのだ。
「どうも。千早くんの右腕を担当している歌根幸弥です。幸弥でいいよ」
片手を差し出され、反射的に握手する。千早の呆れたような声がした。
「どうして出てきた。影から見守る手筈だろう」
「だーってあんまりよそよそしいからさ。もっとはっぴぃな感じださなきゃ」
「だしてるだろう」
「はぁ? それで?」
甘い甘い、と幸弥は首を横に振った。そうして、「もっとくっつかなきゃ」と熱心に助言してくる。
「あやかしさんが、どこから見てるかもわかんないんだしさ」
小声で言われて確かにそうだと思った。
報告書の内容を思い起こす。
悲鳴もなく血痕も残さず忽然と姿を消してしまった花嫁たち。
千早たちは、被害者の屋敷や道に残る微かな痕跡を辿り、あやかしの仕業だと突き止めたらしいのだが、しかしそこから先の捜査が進まない。
帝都では結婚を延期する者が増え、それと比例して、千早たちへの圧力も強まっていった。
そう。恥ずかしがっている場合ではないのだ。
「……っ紗樹?」
──だからといって、突然身体を寄せるのはやりすぎだったろうか。
擦り寄った半身に千早の高い熱を感じ、紗樹は耳まで顔を赤くした。
「おお、いいねぇ。紗樹ちゃん」
「積極的な女の子って俺、好きだわ」と幸弥が笑う。紗樹は赤い顔のまま、勇気を振り絞って千早の手を握りしめた。
「だ、旦那様」
「……なんだ……?」
紗樹は意を決して夫を見上げる。
「やっぱりさきほどの香袋、欲しいです。買ってはいただけませんか」
(お金はあとでお返しします)と、心の中で念じる。
「わかった。戻ろう」
あやかしがどこかで見てくれているといいのだけれど。
羞恥心に耐えながら、紗樹は千早と手を繋ぎ続けた。
──しかしそこまで身を削っても、あやかしは現れてくれなかった。
「疲れた……」
屋敷の当てがわれた部屋に戻るなりベッドに倒れこんだ紗樹を、留守番してくれていた悟が心配そうに覗き込む。
「大丈夫だったか? 変なことされなかったか?」
「ええ。なあんにも」
言いながら、買ってもらったばかりの香袋を巾着から取り出す。
「なんだそれ、綺麗だな」
「でしょ? いい匂いもするの」
行儀悪くベッドに寝転んだまま、「ほら」と、悟の鼻先に近づける。
「本当だ。やさしい匂いがするな」
悟につられて、紗樹も微笑む。
あの後。呉服屋にも行って、いいと言ったのに着物を数着とかんざしや草履まで買われ、帰りははじめての外食もした。
おむらいす、という味ご飯を薄く焼いた卵でくるんだ食べ物は美味しすぎて、変な顔をしてしまった気がする。
しかも帰りの自動車の中で、今日買ってもらったものは全て払いますと伝えたが、「経費」だと取り合ってもらえなかった。
「離縁するときに持って帰らなかったらいいのよね……?」
独り言に、悟が不思議そうにきょとんとする。その頭を撫でながら、思う。
──千早さん、あったたかったな。
繋いだ手も、何度か触れ合った肩も。
でも、それだけではなくて。
彼は紗樹を怯えたような目で見ない。
そのことが、嬉しくてならなかった。
帝都の空には、目の覚めるような青が広がっていた。
千早の運転する自動車で街中へと連れられた紗樹は、人の多さと活気に圧倒されてしまう。
今日の外出はあくまで「囮」としての示威行動だ。仲睦まじい新婚夫婦として街を歩き、潜伏しているあやかしにその存在を誇示しなければならない。
けれど。
「紗樹、腕を」
「……失礼します」
千早に促され、紗樹はそっと彼の腕に手を添えた。休日だからと、千早は着流し姿だった。濃紺色のやわらかな生地越しに、彼の体温が伝わってくる。対して紗樹は、伯父から下げ渡された檸檬色の小袖を身につけていた。白陵路の嫡男に恥をかかせるわけにはいかないと、急ぎ見繕われたそれはよくよく見ると縫い目も荒い。紗樹は気付かれませんようにとそっと祈った。
千早は相変わらずの無表情だったが、歩幅を心持ち小さくし、紗樹の歩調に合わせてくれていた。夫婦に、見えるように。
「紗樹。あやかしは幸福な花嫁を好む。……不本意だろうが、なるべく楽しそうにしていてくれ」
「はい」
そう答えたものの、紗樹にとってこれほど華やかな街を歩くのは初めてのことだった。軒を連ねる煉瓦造りの建物に、最新の流行に身を包んだモダンガールたち。見るものすべてが新鮮で、意識せずともその瞳は輝きを帯びてしまう。
「……ほう、あれが噂の白陵路様の奥方か」
「なんと睦まじい。お似合いのご夫婦だこと」
道ゆく人々から向けられる言葉に、紗樹は頬を赤らめて俯いた。千早はそれを「演技」として受け取っているようだったが、紗樹にとっては生まれて初めて受ける肯定的な視線だった。
やがて二人は、老舗の香道具店が並ぶ通りへと差し掛かった。
ふわりと漂ってきたのは、白檀や沈香のどこか懐かしく落ち着く香りだ。紗樹は思わず、一軒の店の前で足を止めてしまう。
開いた硝子戸の向こうには、色とりどりの縮緬で作られた香袋が並んでいた。
「…………」
じっと見つめる紗樹の視線に気づき、千早も足を止めた。
「欲しいのか?」
「……いえ。ただ、あまりに綺麗な色だったので」
紗樹はすぐに微笑んで、未練を断ち切るように歩き出した。
伯父の屋敷にいた頃、何かを欲しがることは禁じられていた。その癖が抜けず、新妻らしく夫にねだるという考えさえ及ばなかった。
「……」
けれど、千早は歩き出しながら、無意識にその香袋の「色」を脳裏に焼き付けていた。
紗樹が目を留めたのは、彼女の瞳と同じ、透き通るような青い色をしていた。
「よお。ご両人」
そろそろ帰ろうかという道中、ふいにかけられた声に二人は足を止めた。吊り気味の目に、黒衣の詰襟軍服。
明るい表情の青年は、親しげに紗樹たちに歩み寄ってきた。
「幸弥」
千早が、驚いたように声を上げる。紗樹はそっと首を傾けた。
「お知り合いですか?」
「……同僚だ。きみとのことも知っている」
言われて、改めて青年に目を向ける。同僚。では、どこかにやけた顔をした彼も、あやかしを祓えるのだ。
「どうも。千早くんの右腕を担当している歌根幸弥です。幸弥でいいよ」
片手を差し出され、反射的に握手する。千早の呆れたような声がした。
「どうして出てきた。影から見守る手筈だろう」
「だーってあんまりよそよそしいからさ。もっとはっぴぃな感じださなきゃ」
「だしてるだろう」
「はぁ? それで?」
甘い甘い、と幸弥は首を横に振った。そうして、「もっとくっつかなきゃ」と熱心に助言してくる。
「あやかしさんが、どこから見てるかもわかんないんだしさ」
小声で言われて確かにそうだと思った。
報告書の内容を思い起こす。
悲鳴もなく血痕も残さず忽然と姿を消してしまった花嫁たち。
千早たちは、被害者の屋敷や道に残る微かな痕跡を辿り、あやかしの仕業だと突き止めたらしいのだが、しかしそこから先の捜査が進まない。
帝都では結婚を延期する者が増え、それと比例して、千早たちへの圧力も強まっていった。
そう。恥ずかしがっている場合ではないのだ。
「……っ紗樹?」
──だからといって、突然身体を寄せるのはやりすぎだったろうか。
擦り寄った半身に千早の高い熱を感じ、紗樹は耳まで顔を赤くした。
「おお、いいねぇ。紗樹ちゃん」
「積極的な女の子って俺、好きだわ」と幸弥が笑う。紗樹は赤い顔のまま、勇気を振り絞って千早の手を握りしめた。
「だ、旦那様」
「……なんだ……?」
紗樹は意を決して夫を見上げる。
「やっぱりさきほどの香袋、欲しいです。買ってはいただけませんか」
(お金はあとでお返しします)と、心の中で念じる。
「わかった。戻ろう」
あやかしがどこかで見てくれているといいのだけれど。
羞恥心に耐えながら、紗樹は千早と手を繋ぎ続けた。
──しかしそこまで身を削っても、あやかしは現れてくれなかった。
「疲れた……」
屋敷の当てがわれた部屋に戻るなりベッドに倒れこんだ紗樹を、留守番してくれていた悟が心配そうに覗き込む。
「大丈夫だったか? 変なことされなかったか?」
「ええ。なあんにも」
言いながら、買ってもらったばかりの香袋を巾着から取り出す。
「なんだそれ、綺麗だな」
「でしょ? いい匂いもするの」
行儀悪くベッドに寝転んだまま、「ほら」と、悟の鼻先に近づける。
「本当だ。やさしい匂いがするな」
悟につられて、紗樹も微笑む。
あの後。呉服屋にも行って、いいと言ったのに着物を数着とかんざしや草履まで買われ、帰りははじめての外食もした。
おむらいす、という味ご飯を薄く焼いた卵でくるんだ食べ物は美味しすぎて、変な顔をしてしまった気がする。
しかも帰りの自動車の中で、今日買ってもらったものは全て払いますと伝えたが、「経費」だと取り合ってもらえなかった。
「離縁するときに持って帰らなかったらいいのよね……?」
独り言に、悟が不思議そうにきょとんとする。その頭を撫でながら、思う。
──千早さん、あったたかったな。
繋いだ手も、何度か触れ合った肩も。
でも、それだけではなくて。
彼は紗樹を怯えたような目で見ない。
そのことが、嬉しくてならなかった。


