「要は、あやかしを騙せさえすればいいんだ」
婚姻を告げられてから二日後。
簡素な式を終えたあと、千早はそう言って、白無垢姿の紗樹を振り向いた。彼自身は軍の式典用だという、白地に金縁飾りのついた、立派な軍服を身につけていた。
すらりとした体躯にとてもよく似合っていて、紗樹は思わず見惚れてしまう。
綺麗な人。
並んで歩くと、随分と背も高い方なのだと気がついた──。
今朝、紗樹は急ぎ用意された花嫁衣装を纏い、倉掛宮の門をくぐった。その足で、千早が手配した神社へと向かい、隠れるような式を挙げる。
出席者はごくわずかだった。
花嫁と婿、白竜時の縁者が片手で数えられるほどと、神主とその手伝いが数名。ただそれだけの、もの寂しい結婚式。
件のあやかしを誘き寄せるため、体裁として祝言は挙げなければならないが、偽りと知られるわけにもいかない。
そのため、内情を知る者は少数に限定し、式は内々に執り行われることとなったのだ。
神社からは、白陵路家が所有するという四輪自動車で移動した。
初めて乗る機械式の乗り物に、紗樹はわずかに高揚した。悟が見たら、どんなに驚くだろう。反応を想像するだけで笑みが落ちそうになってしまい、遊びではないのだと、慌てて気を引き締める。幸い、隣に座る千早には気づかれていないようだった。
ほどなくして自動車は細い鉄柵で囲われた、西洋屋敷の前で停まった。
紗樹たちは、門の前で待ち構えていた執事風の男性に出迎えられる。
「お待ちしておりました。旦那様、奥様」
自動車から降りた紗樹に、ほかの使用人も駆け寄ってくる。執事らしき男性が言った。
「この度はご結婚、誠におめでとうございます。お荷物お運びいたしますね」
手を伸ばされたところを、千早が身体で遮った。
「俺が運ぶ。茶もいいから、おまえたちは下がっていろ」
「……は」
彼ら使用人たちは、これが偽りの結婚だと知らされていないようだった。
千早の態度に狼狽えながらも、指示に従い引き下がる。
「紗樹。こちらへ」
「っ、は、はい」
慌てて、紗樹の荷物を片手にした千早のあとを追いかける。門扉から邸宅までの石畳を小走りで駆け、広いエントランスに目を丸くし、赤い絨毯の敷かれた階段を登る。そうして紗樹は、手前の一室に案内された。
「きみの部屋だ。契約の間、自由に使っていい」
「……わたしの、部屋」
先に入っていた千早が押し開きの窓を開ける。
途端、涼やかな風が舞いこみ、紗樹の顔をやさしく撫でた。清涼な樹々の匂いに、締め付けられていた胸がすっとする。
屋敷の中は、壁も柱も、こっくりとした飴色の木材を使われていた。
通された部屋も、息を呑むほどに広い。
両開きの窓が二つ。天蓋付きのベッドが一つ。西洋風のチェストや、千早より背の高い洋服箪笥まである。
なんて立派なお屋敷だろう。
緊張したまま、紗樹は訊ねた。
「あの、ご家族の方に挨拶を」
「ここは別邸だ、親族はいない。職場に近いから、俺ひとりで住んでいるんだ」
白陵路の本邸は別にあるそうだが、紗樹が知る必要もないと告げられた。仮初の結婚なのだから、それもそうか、と引き下がる。
それにしても──。改めて瀟洒な室内を見回す。
あやかしを捉えるまでとはいえ、こんな部屋に住めるなんて。不謹慎にも、少しだけ嬉しくなってしまう。
しかし、千早の冷たい瞳と目が合い、すぐに気持ちは引き締められた。白無垢姿のまま、背筋を伸ばす。
「──要は、あやかしを騙せさえすればいいんだ」
言われて、紗樹はしっかりと頷いた。
「はい」
「……緊張するだろうが、夜もなるべく共寝を願いたい。もちろん睡眠を取るだけだ。夫婦としての寝室は隣にあるから。俺が夜勤でいない日は、ここで休んでもらって構わない」
「はい、わかりました」
契約結婚。その生活のための決まりを告げられていた。紗樹は千早の一言ひとことに肯首する。
夫婦らしさを出すため、週に一度は街へ外出すること。
できる限り同じ空間にいること。
身体的接触も許容すること、などだった。
「生活費はこちらで負担する。なにかあれば、遠慮なく言ってくれ」
「何から何まで、ありがとうございます」
「仕事だからだ。いちいち感謝される謂れはない。ところで、きみから要望は? 服でも装飾品でも、好きなものを用意できるが」
紗樹は慌てて首を振った。
「いえ、何も。持ってきたものだけで十分生活は出来ますから」
離縁が始めから決まっている以上、新たに揃える必要はないと思った。
「そうか。わかった」
千早は事務的に頷き、興味をなくしたかのように窓の外に目を向ける。
「早く現れてくれるといいんだが」
独り言のように呟き、そっと切れ長の目を細める。
まだ結婚した実感が湧かず、紗樹も爽やかな空を見やった。
突然の縁談話から二日。昨日も今朝も輿入れの準備で忙しなかったためか、ふっと疲れが襲ってくる。
(……ああ、悟くんに会いたいな)
そうしてあの、無邪気な笑顔で癒してほしい。
そう願ったからだろうか。
「ああ、紗樹いたー!」
目を瞬いた。
窓の外から、今思い描いたばかりの悟がひょっこりと姿を見せたからだ。
悟はよじよじと飴色の窓枠を掴み、室内へ上がり込んでくる。
「この家、どこもかしこも札の匂いがして最悪だよ〜紗樹〜!」
「悟くん……!」
駆けてきた悟を、思わず抱き上げる。
「どうしてここに?」
「匂いを追ってきたんだ! やっぱりさあ、紗樹が心配でさぁ。一人にしてごめんよお」
言いながら、悟が三白眼で見上げてくる。
「で、仕事は終わったか? 酷い目に遭ってないか?」
「酷い目になんて遭ってない……け……ど」
瞬間。ひたと冷たい風を感じて、紗樹は恐る恐る顔を上げた。
千早が渋い顔付きでこちらを睨んでいた。
怖い。
「そのあやかしは……? 知り合いのようだが」
「……あ、えと」
口ごもる紗樹に、千早は、小さく眉根を寄せた。
「伯父上が懸念されていたが。物の怪に取り憑かれているという話は本当だったのか」
「な」
取り憑かれてなんかいない。
けれど、伯父からそうと聞かされているらしい千早は、胸元から呪符を取り出していた。悟を祓う気だ。紗樹は庇うように悟を胸に抱きしめる。
「おやめください! この子は無害な小鬼です」
「小鬼が無害? そんな話、聞いたことがない」
音もなく歩み寄られる。
「あやかしはあやかしだ。こちらに渡せ」
手を差し伸べられ、紗樹は思わず後ずさる。苛立たしげに顔を顰められた。
「紗樹」
「紗樹う」
腕の中で悟が、心配そうにこちらを見上げてきた。
「ごめんよお、おいら、紗樹を困らせているかい?」
「……そんなことない。大丈夫よ」
そっと囁く。
悟は、幼い紗樹が離れに閉じ込められたときからそばにいてくれる、大切な友人だった。
狭い扉の隙間から現れては、紗樹の孤独と空腹を紛らせ、心をあたためてくれた。絶対に祓わせたりしない。
「千早様」
「なんだ」
「先ほど、要望はないかと訊いてくださいましたね」
少しの間のあと、千早は頷く。
「…………ああ、だが」
「では、わたしがここにいる間、悟を祓わないとお約束ください。この子の面倒は、全てわたしが見ますから」
千早の片眉がぴくりと動いた。
「使役するでもなくあやかしをそばに置くと? 正気か?」
「もちろん。悟はわたしの友人ですもの」
友人、と唇だけで千早が繰り返したのがわかった。
そうしてしばらく悟を睨みつけたあと、「勝手にしろ」と札を下ろした。
「小鬼一匹、確かに、大した害になるとも思えない」
「な、なんだとおま」
「ただし」
騒ぐ悟から視線を上げ、千早はまっすぐに紗樹を見つめてきた。
「〝役目〟は必ず果たしてもらう。いいな、紗樹」
挑発するように言われ、紗樹も受けて立つように頷くのだった。


