静寂が下りた。
紅い蝶たちすら羽ばたきを止め、張り詰めた空気が二人を包み込む。
永火は、目の前の血を流す少女から目が離せなかった。
人間など、強欲で臆病で、自己保身しか頭にない下等な生き物のはずだ。
だというのに、このちっぽけな小娘は、神たる自分を前にしても一切怯まず、自らの肉体を切り刻む痛みすら顔に出さず、狂気的なまでの覚悟で『牙を貸せ』と取引を持ちかけてきた。
ぽたぽたと落ちる血の匂いよりも、その氷のように冷たく、ひどく危うい魂の輝きに。
何百年も凍りついていた朧月の奥底で、奇妙な高鳴りが跳ねた。
「…………ふっ」
やがて、永火の端正な唇から、堪えきれないような笑い声が漏れた。
「くくっ……ははははっ! これは驚いた。生贄の分際で、この私を使いこなすと言うのか」
「駄目で、しょうか?」
「いや? ただの餌にしておくには、ひどく勿体ない」
永火はゆっくりと歩み寄り、紗和の血まみれの左手を、手袋越しにそっと握りしめた。
その赤い瞳には、先ほどまでの退屈そうな冷たさは微塵もなく、獲物を見つけた捕食者のような、熱を帯びた愉悦が怪しく光っていた。
「いいだろう。お前のそのイカれた復讐、最後まで付き合ってやろうじゃないか」
永火は紗和の傷ついた手のひらに顔を寄せ、溢れ出る赤い雫を、自らの舌でゆっくりと舐め取った。
ゾクッとするような冷たい感触と、相反する熱い吐息が傷口を撫でる。
「契約成立だ。せいぜい私を楽しませろ、私の妻よ」
月すら見えない濃霧の夜。
復讐の刃を抱く没落令嬢と、人間を蔑む冷徹な死霊の王による、愛なき狂気の契約が結ばれた瞬間だった。


![[シナリオ]朧廻国 心を繋ぐ双命の符](https://novema.jp/img/member/1393403/5pedue7kco-thumb.jpg)
