禍津神の最愛なる生贄 〜復讐の刃を抱く花嫁は、死霊の王に情愛で溶かされる〜



帝都の喧騒から遠く離れた、その場所――。
鬱蒼とした森の奥深くに佇む広大な洋館は、「常夜(とこよ)の城」と呼ばれていた。

「さあ、行け。あの化け物を殺せば、お前を自由にしてやる」

冷たい霧が立ち込める鉄扉の前で、紗和(さわ)は馬車から無造作に突き落とされた。
逃げるように走り去る馬車の轍の音が、濃い霧に吸い込まれて消えていく。
あとに残されたのは、凍えるような夜の静寂だけだった。

没落した華族の娘である紗和は、両親を亡くして以来、叔父の家で女中以下の扱いを受けてきた。
与えられたのは、すり切れた薄い着物と、素足に履かされた粗末な草履だけ。
そして今、彼女の震える手には、鈍く光る一本の短刀が握らされている。

(……自由にしてやるなんて、嘘に決まっている……)

紗和は自嘲気味に唇を噛んだ。
帝都の中枢に絶大な影響力を持つ名家、朧月家。

現在の当主は帝都軍特殊機関『極夜(きょくや)部隊』将軍を務める、朧月(おぼろづき)永火(えんか)である。

だがしかし、帝都に巣食う禍憑きを討伐する精鋭部隊をまとめ上げている若き将軍こそが、夜な夜な人を喰らう「恐ろしい化け物」だという噂が絶えなかった。

軍の上層部に取り入りたい叔父の狙いは明白だ。

厄介者の姪を化け物の生贄として厄介払いしつつ、あわよくばこの短刀で目障りな当主の寝首を掻かせようという魂胆なのだ。

思えば、彼は昔からそうだった。
紗和の優しい両親に無実の罪を着せて死に追いやり、華族としての地位も財産もすべてを奪い尽くした。
そして、最後の最後まで搾取し尽くした挙句、今度は化け物の餌として紗和を捨てるのだ。

まともな食事すら与えられず、ろくに刀も握ったことのない小娘に、そんな大それた真似ができるはずもないというのに。

どちらに転んでも、紗和が生きて帰れる道など最初から用意されていなかった。

それでも、紗和は足を踏み出した。
逃げ帰る場所などどこにもないから。

ならばせめて、化け物に喰い殺される前に、この呪われた命を自分の手で終わらせよう。

短刀の柄を強く握りしめ、死の気配が漂う敷地内へと足を踏み入れた。

ギーッ……と、軋む音を立てて門扉が開く。

瓦斯灯(ガスとう)の明かりは届かず、視界を塞ぐほどの濃い霧が立ち込めている。
底冷えするような冷たい空気。
ふわりと甘く切ない花の香りが漂ってきた。

真っ白な霧の中に、ぽつり、ぽつりと紅い光が瞬き始める。

それは、無数の紅い蝶だった。

羽音を立てて舞い踊る幻想的な光景の中央から、一つの影がゆっくりと歩み寄ってくる。

現れたのは、暗闇を切り取ったかのような漆黒の軍服に、豪奢な外套を羽織った長身の青年。

色素の薄い銀糸の髪が夜風に揺れ、氷のように冷たい赤い瞳が、見下すように紗和を捉えた。

「――また愚かな人間が迷い込んだか」

――常夜の城の主。朧月永火。

彼が発した声は、美しくも酷薄で、一切の温度を感じさせなかった。

「その手に握ったナマクラで、私を殺すよう命じられてきたのだろう? 哀れなことだ。お前のような小娘が束になったところで、私の外套の裾を揺らすことすらできはしないというのに」

永火は退屈そうに目を伏せると、無慈悲な宣告を下すように言った。

「だが、運が良かったな。『純血』は、この飢えを凌ぐのに丁度いい。……取引をしてやろうか、小娘」