直後、紗和を背中に庇うようにして歩み出た漆黒の影が、地の泥に塗れた飛雄の頭を、容赦なく軍靴で踏み躙ったのだ。
「ガァッ……!?」
「私の所有物を、その薄汚い口で二度と呼ぶな。塵芥が」
永火は足元で藻掻く異形を一瞥すらせず、膝をつく紗和の前に静かにしゃがみ込んだ。
そして、泥を抉って止まっている彼女の震える手から、ひどく優しい手つきで短刀を抜き取った。
「永火、様……私、刺せなかったです……」
「それでいい。お前の手を、こんな腐肉の血で汚す必要はない」
永火は短刀を無造作に放り捨てると、紗和の泥に汚れた頬を、優しい手付きで撫でた。
先ほどまで異形の頭を踏みつけていた冷酷な死霊の王と同一人物とは到底思えないほどの、狂おしいほどに甘い声だった。
「お前は、私に復讐のための『牙』を所望したはずだ。なれば――後ろでその牙が敵を喰いちぎるのを眺めていればいい」
永火がゆっくりと立ち上がり、赤い瞳を叔父へと向ける。
その瞬間、常夜の城を包み込んでいた霧が晴れ、無数の紅い蝶が猛吹雪のように舞い上がった。
「ガ、アアアァァァッ!!」
紅い光の群れが、悲鳴を上げる異形の巨体をあっという間に包み込む。
それはただの殺戮ではなく、穢れきった魂を跡形もなく浄化する、残酷なまでの『鎮魂』だった。
蝶が舞い去った後には、一欠片の肉片すら残されていない。
紗和の両親を死に追いやり、彼女の人生を狂わせた強欲な男は、死霊の王の力によって完全なる無へと帰したのだった。
「……終わったぞ」
復讐。
その目的は果たされた。
しかし、紗和の胸を満たしたのは歓喜ではなく、底なしの虚無感だ。
紗和には帰る家も、待っている家族もいない。
この先の人生で生きる目的すら、もう何もないのだ。
(ああ、これで本当に……私は、ただの抜け殻ね……けれど……)
ぼんやりと空を見上げる紗和の頭上に、ふわり、と影が落ちた。
「契約は完了した。お前はもう自由だ。どこへなりとも行くがいい」
試すような、残酷な言葉。
紗和は、昏い目を向ける永火を見つめ返すと、やがて、ゆっくりと首を横に振った。
「……行くあてなんて、ありません。それに、私は死ぬまであなたの餌になるという契約を結んだはずでは、無かったのですか」
「……ふっ」
紗和のその言葉を聞いた瞬間、永火の端正な唇から、堪えきれないような低い笑い声が漏れた。
彼は紗和の細い腰を引き寄せると、逃げ場を奪うように、その華奢な身体を己の冷たい腕の中に深く閉じ込めた。
「そうだな。お前は最後まで、私のものだ」
耳元で囁かれる声は、氷のように冷たく、火傷しそうなほどに熱い。
「お前の復讐が終わったのなら、今度は私の『永遠の暇潰し』に付き合え。……二度と、この腕から逃がしてはやらないぞ。私の愛しい花嫁」
それは、利害と狂気から始まった契約が、決して解けることのない絶対的な『呪い』へと変わった瞬間だった。
紅い蝶たちが祝福するように舞い踊る中。
死霊の王と、復讐の刃を抱いた没落令嬢は、どちらからともなく身を寄せ合い、月すら見えない濃霧の夜の中で、深く、甘い口づけを交わした。
<了>



