禍津神の最愛なる生贄 〜復讐の刃を抱く花嫁は、死霊の王に情愛で溶かされる〜


静寂を破り、鉄扉が大きな音を立てて吹き飛んだ。

「紗和ァ!! お前の血を、俺によこせェ!!」

鼓膜を劈くような咆哮と共に現れたのは、もはや人間とは呼べないおぞましい肉の塊だった。
辛うじて佐伯飛雄の面影を残したその顔には、無数の不気味な眼球が蠢き、四肢は獣のように異様に肥大化している。

最前線へと送られ死を悟った飛雄は、生き延びるために軍が秘密裏に研究していた禁忌――『あやかしの肉』を喰らった。
しかし、強欲な人間の器でその力に耐えきれるはずもなく、自我を失った醜い異形のものへと成り果てていた。

「ひゅ、うぅ……っ!」

紗和の特異な血の匂いを嗅ぎつけ、異形と化した叔父が涎を垂らしながら襲いかかってくる。
だが、その鋭い爪が紗和に届くよりも早く。

「――私の庭で、随分とけたたましく吠える犬だな」

酷薄な声が響き渡ると共に、紗和の前に漆黒の外套が舞い降りた。
永火である。
彼は一歩も動くことなく、ただ冷ややかに赤い瞳で一瞥した。
それだけで、無数の紅い蝶が猛吹雪のように巻き起こり、異形の巨体をあっという間に石畳へと縫い付けたのだ。

「ぐぁぁッ!? ぐ、がアァぁッ!!」

『死霊の王』の圧倒的な力の前に、異形は身動き一つとれず、無様に地べたを這いずり回る。
永火はつまらなそうに鼻を鳴らすと、懐から「ある物」を取り出し、背後に立つ紗和へと放り投げた。

カラン、と。
石畳に落ちたのは、あの日、飛雄が紗和に持たせた『永火を暗殺するための短刀』だった。
永火は、地べたで醜く藻掻く飛雄を見下ろしながら、紗和へ向かって唇を釣り上げた。

「さあ、お前の獲物だ。好きにしろ」

紗和は静かに頷き、短刀を拾い上げた。
ゆっくりと、確かな足取りで叔父へと近づいていく。

「紗和……! ワしはあああぁ……私はお前の、肉親っダっ……!」

死の恐怖を前に、叔父の狂った自我が一時的に引き戻されたのか、彼は醜い顔を涙と鼻水で濡らしながら命乞いを始めた。

「もし、ワシを、殺せばァァァ、お前はっ、ヒ、ヒト、殺しになるッッ!」

他者を蹴落とし、搾取し続けてきた人間の、あまりにも見苦しい末路。

かつての紗和なら、その醜悪さに恐怖して足がすくんでいたかもしれない。
だが、今の彼女の心は、冬の湖のように静かに澄み切っていた。

「……ええ。おじ様は、本当に可哀想な人です」

紗和は感情の乗らない声で呟くと、短刀を両手でしっかりと握り直し、高く振り上げた。

「私の優しいお父様とお母様を殺して、あやかしの命まで貪って。……その強欲な魂、この『常夜』の底で永遠に苦しんでください」

「ひっ……やめ、やめろォォォッ!!」

迷いはなかった筈、だった。
紗和は、刃を思い切り突き立てた。

グチャリ、という鈍い音と共に、異形の悲鳴がピタリと刹那止む。
そして、けたたましい笑い声。

「コロ、殺セない! 殺せないだろうッッおマエにはっ! オマエは、ただの……い、いひイヒヒひ」

笑い転げる叔父を前にして、紗和は放心している。
突き立てたはずの刃は、地の土を抉っているだけだ。

目の前にいるモノは、両親の仇。
自分の人生を滅茶苦茶にした憎い相手。

頭では分かっているのに、いざ命を奪う瞬間に、紗和の震える両手は無意識に標的を外してしまっていた。
のろのろと、短刀を拾い上げる。

(どうして……私は、復讐のためにここまで来たのに……っ!)

「ヒゃはははっ! そうだ、お前はただの無力な、小ムスメだッ! お前の親と同じように、俺にオトナシクウゥ――コロされ」

「――ただの、何だ?」

地を這うような低い声が、飛雄の狂った笑い声を一瞬にして凍らせた。