眠る巨獣の背中で町づくり――夢の景色は消せないので、仲間と動かせる暮らしを始めます

 保存食を噛みながら、レントは皿代わりの布に残った実を数えた。

 二つ。しかも、どちらも小さい。

「今日も暮らせる。だが、人を迎える食卓には足りないな」

「昨日まで、今日も暮らせるかを試していた方の言葉とは思えません」

 向かいのセラフィナは、熟した実を半分に割った。切り口を確かめてから、片方をレントへ戻す。

「進歩したから次を考えてるんだ」

「一晩で町を増築しそうな言い方ですね」

「住居は増やさない。食べる人数を増やしたい」

 仮設拠点の外では、巨獣の毛が朝の呼吸に合わせて緩やかに波打っていた。その間から伸びる草へ目を向ける。地上で見慣れたものに似ていても、色も艶も少し違う。

「この草を家畜が食べられるなら、実を探し回るより早い」

「家畜を連れてくるつもりですか」

「まずは牧畜民に話をする。飼料になるか、判断できるのは俺じゃない」

 セラフィナはすぐには答えず、自然採水点へ続く道と、仮設拠点の留め具を順に見た。

「私は残ります。採水点と巨獣の様子を見ます」

「助かる」

「ただし、成功するとも安全だとも約束しないでください」

「俺を何だと思ってる」

「泉を出した翌日に、その水で暮らせると思った方です」

「今回は草だ」

「対象が変わっただけです」

 レントは反論を飲み込み、携行水と保存食を包んだ。試しに刈った草も少量だけ束ねる。

「モフル、留守番を頼む」

 少し離れた毛の高みで丸くなっていたモフルが、片耳だけを上げた。

「同行する返事には見えませんね」

「分かってる。言ってみただけだ」

 レントが手のひらを見せても、モフルは動かなかった。呼びかけが自分へ向けられたことは理解している。だが、それに従う理由まではないらしい。

「セラフィナの近くにいるんだぞ」

「本人が決めます」

「俺の頼みを一つくらい肯定してくれ」

「無理な約束をするなと申し上げたばかりです」

 モフルは「ふる」と短く鳴き、そのまま巨獣の背へ伏せ直した。

 朝のうちに地上へ下りたレントは、既存の道をたどって牧畜地へ向かった。

 家畜の鳴き声が聞こえ始めた頃には、太陽は頭上へ近づいていた。柵のそばで飼料を確かめていた大柄な牧畜民が、近づくレントへ顔を上げる。

「巨獣の背にいる異邦人か」

「レント・アシュベルです。飼料のことで相談があります」

「俺はガルド・ネイヴァだ。相談だけなら聞く」

 そこで初めて、レントは目の前の相手をガルドとして認識した。歓迎されているわけではない。名乗ったのも、話の責任者を明らかにするためだろう。

「巨獣の背に、まとまって草が生えている場所があります。家畜の飼料に使えれば、こちらにも向こうにも利がある」

「どれだけある」

「区画ごとの差はありますが——」

「一頭が一日に食う量で答えろ」

 レントの言葉が止まった。

 ガルドは腕を組み、続きを待つ。夢の草が珍しいことにも、巨獣の背で育つことにも、表情を変えなかった。

「正確には出せません」

「なら、何頭を何日養えるかも分からん」

「そこを調べるための試験です」

「家畜を使ってか」

 ガルドの声が低くなる。

「お前の試験が外れたとき、腹を壊すのも乳が止まるのも、俺の家畜だ。草が今日あっても、明日なくなるなら意味がない。珍しい草を見たという話だけでは、一頭も出せん」

 レントは口を開きかけ、閉じた。

 巨獣の背で水を飲み、夜を越えた。それはレント自身が危険を引き受けた結果だ。だが家畜を連れていけば、失敗の損失を負うのはガルドになる。

「まず、刈った草を見てもらえませんか。少量なら持ってきています」

「出せ」

 レントは束を差し出した。

 刈ったときは、もっと鮮やかな色をしていた。葉には柔らかな艶があり、指先へかすかな温かさすら残っていたはずだ。

 今は違う。

 包みを開いた途端、レントにも分かった。葉は乾いたわけではないのに鈍く、巨獣の背で見た色より薄い。

 ガルドは一本を取り、通常の草と並べた。指で折り、匂いを嗅ぐ。しばらく黙ってから、レントへ突き返した。

「これが、お前の言う草か」

「刈ったときはもっと艶があった」

「言い訳は聞いていない」

 レントは草を握った。わずかに残っていた独特の感触も、急速に消えている。

「場所を離れたせいか」

「俺に聞くな。持ってきたのはお前だ」

「……そうですね」

 安全な地上へ運び、少量ずつ与える。その案は、最初の一歩にすらならなかった。

「持ち帰って試すのは無理です」

「なら話は終わりだ」

 ガルドが柵へ戻ろうとする。

「待ってください、ガルドさん」

「家畜を巨獣の背へ連れていけと言うなら、なおさら断る」

「大量には連れていかない」

「一頭でも失えば損だ」

「だから、失わないと約束する案はやめます」

 ガルドが足を止めた。

 レントは手元の色褪せた草を見た。失敗した証拠を隠しても、次の判断を誤るだけだ。

「少数だけ。短時間。通常の飼料を持参する。草を食べない、様子がおかしい、巨獣の状態が変わる。そのどれかがあれば、すぐ地上へ戻す」

「誰が異常を決める」

「家畜についてはガルドさんが決める。俺は草の場所と退避路を示します。巨獣側の状態は、背に残っている祭守と確認する」

「お前が大丈夫だと思っても、俺が戻すと言えば戻すのか」

「戻します」

「草を食べ始めてもか」

「止めると判断したなら」

 ガルドはレントの顔を見た。見通しの甘さを探すような目だった。

「何頭も連れていけば、うまくいったときの成果は大きい」

「その代わり、失敗したときの損失も大きい」

「ようやく数え方を覚えたか」

「今日、教わりました」

「胸を張るな」

 レントは苦笑した。

「成功を保証できないなら、失敗の範囲を狭めるしかない。草の価値を証明するのも俺じゃない。家畜の状態を見て、ガルドさんが判断する」

「期間は」

「最初は日中だけ。日没前に戻せる時間で」

「通常飼料は俺が決めた量を持たせる。草を食べなくても残さない」

「分かりました」

「背へ上げる頭数も俺が決める」

「それも」

「お前の都合で延長しない」

「しません」

 ガルドはなおも黙っていた。柵の向こうでは、家畜が地面の草を噛み、何事もないように尾を振っている。その一頭一頭が、彼にとって暮らしそのものなのだろう。

「現地は俺が見る」

 やがてガルドが言った。

「草の量、足場、退路を確かめる。今決めた条件が守れるなら、少数だけ連れていく。異常があれば、その場で引き返す」

「それで十分です」

「十分かどうかは俺が決める。試す時間も頭数も、勝手に増やすな」

「増やしません。最初の試験は、その条件でお願いします」

「言葉だけは大きいな、レント」

 全面的な信頼ではない。家畜を預けてもらったわけでもない。それでも、ガルドは話を打ち切らず、自分の目で現地を確かめるところまでは認めた。

 草の束を包み直す頃には、日は西へ傾き始めていた。

 レントが仮設拠点へ戻ったのは、毛並みが夕日に染まり始めた頃だった。

 セラフィナは自然採水点から戻ったところで、携えていた器を低い場所へ置く。モフルは彼女の少し後ろから現れたが、レントへ駆け寄ることはなかった。

「お帰りなさい。無理な約束は?」

「してない。むしろ保証を全部捨ててきた」

「それは交渉に成功したと言えるのですか」

「草を持ち出す案は失敗した。背を離れたら、色も感触も急に弱くなった」

 セラフィナは包みの草へ触れ、眉を寄せた。

「ここにある草とは違いますね」

「ああ。安全な地上で試すつもりだったが、それは無理だ」

「では、家畜をこちらへ?」

「少数だけ。短時間。通常の飼料を持って、異常があれば即座に戻す。家畜の判断は牧畜側に任せる」

「巨獣の状態によっては、試験そのものを止めます」

「それも条件に入れる」

「まだ先方は、巨獣を見ていません」

「だから次は現地確認からだ。家畜を連れてくるかは、その後に決めてもらう」

 セラフィナはレントの返事を待つように見つめた。

「食料問題は、解決していませんね」

「分かってる。家畜はまだ草を一口も食べてない。乳も出てない。今日増えたのは、条件と協力者候補だけだ」

「ずいぶん控えめになりました」

「現実へ戻す役が二人に増えたからな」

「私は牧畜民とお会いしていません」

「会わなくても効いてる」

 モフルが色褪せた草の匂いを嗅ぎ、すぐに顔を背けた。レントが差し出しても近づかず、巨獣の背に生えている草の方へ歩いていく。

「お前まで、持ち出した草は駄目だと言うのか」

「モフルの好みを試験結果にしないでください」

「分かってる。今日は誰も簡単には肯定してくれないな」

 だが、レントの口元は緩んでいた。

 朝には一人の思いつきだった。今は、失敗した方法が一つ消え、試す範囲と止める条件が決まり、その条件を引き受ける協力者もいる。大きな成功を約束しなかったからこそ、次に進める。

 夕暮れの仮設拠点には、二人分の保存食と少量の実しかない。複数人で囲む食卓には、まだ遠かった。

 それでも、その食卓へ向かう最初の席だけは、今日、空想ではなくなった。