眠る巨獣の背中で町づくり――夢の景色は消せないので、仲間と動かせる暮らしを始めます

「温泉が出せるかもしれない」

 共用区画でレントがそう告げると、予想どおり、誰より先にミレイが食いついた。

「温度は?」

「まだ夢の中で見ただけだ」

「湧く量は?」

「だから、まだ出してない」

「加工に回せるくらいあれば、工房の熱源を――」

「工房は修理中でしょう」

 セラフィナに遮られ、ミレイは不満そうに腕を組んだ。

「修理中だからこそ、次を考えるの」

 試験居住者たちからも声が上がる。

「暖房に使えれば、寒い時期の負担が減りませんか」

「入浴にも使えるなら、地上へ戻る回数を減らせそうです」

「湯で道具を洗うのは?」

 期待が次々に増えていく。レント自身も、夢で見た光景を思い返すだけで胸が弾んでいた。

 岩の隙間から湧く温水。白い湯気。浅い窪みへ満ち、そこから細い流れとなって下る湯。

 あれが町に加われば、できることは一気に増える。

「最初に決めておく」

 レントは浮き立つ気持ちを押さえ、皆を見回した。

「現れたからといって、そのまま使い始めない。出すのは生活区画から離れた場所に、ごく小さな範囲だけだ。湧出口と、その周辺まで。広げない」

「用途試験も、観察の後です」

 セラフィナが続ける。

「巨獣の呼吸、皮膚、周囲の魔力、温度、水の流れを確認します。異変があれば利用以前に中止です」

「異変がなければ使う?」

 ミレイが問う。

「異変が見つからないことと、安全だと分かることは同じではありません」

「最初から保留する気じゃないでしょうね」

「使えるなら使いたいさ」

 レントは即答した。

「だから、使いたい俺たちだけで決めない。見たことと分からないことを、全員で共有してから決める」

 数日前、試験居住者たちは日常作業の優先順位を自分たちで選んだ。だが今回は、巨獣の背へ新しいものを残す話だ。

 同じ判断ではない。

 それでも、最初からレントとセラフィナだけで結論を抱えるつもりはなかった。

 未利用区画へ着くと、モフルは落ち着かない様子で周囲を歩き回った。

「夢の中では、この辺りだった」

 レントが地面へ手を向けると、モフルは鼻先を近づけ、短く鳴いた。

「ふる」

 耳は立っている。警戒というより、見慣れない変化を待っているように見えた。

「そこから先だけだ」

 セラフィナが確認する。

「ああ。湧出口を一つ。周りは足場が崩れない程度に留める」

 レントは目を閉じた。

 意識が沈み、巨獣の夢へ触れる。

 広い夢景色の中から、温かな水が湧く一角だけを選ぶ。周囲の岩場も、遠くへ続く流れもいらない。欲を出せば、いくらでも広げられそうだった。

 だからこそ、切り取る。

 湧出口と、その水を受ける浅い窪みだけ。

 夢の輪郭を現実へ引き寄せた瞬間、足元から低い振動が伝わった。

 乾いていた地面が緩やかに盛り上がり、岩の隙間が生まれる。そこから透明な水が滲み出し、すぐに細い流れとなった。

 白い湯気が立つ。

「出た……」

 誰かが息を呑んだ。

 レントはしゃがみ込み、手をかざした。触れなくても熱が分かる。冷たい風の中で、湯気だけが柔らかく揺れていた。

「これ、もう少し広げれば浴槽に――」

「広げない」

 自分へ言い聞かせるように、レントは口にした。

「事前に決めた範囲で止める」

 ミレイが湧出口の周囲を覗き込む。

「流量は少なくない。加工用に分けても――」

 その時、甲高い声が響いた。

「むぅ!」

 モフルが足を止めていた。

 湧出口までまだ距離がある。さっきまでは興味深そうに近づいていたのに、今は四肢を踏ん張り、全身の毛を大きく逆立てている。

「モフル?」

 レントが呼ぶと、モフルは湧出口を避けるように横へ走った。レントの足元まで来て、すぐにセラフィナの側へ移る。

 また湧出口を見る。

「むぅ、ふるっ」

 低い声を重ね、二人の間を往復する。

 レントが手のひらを見せて止まる合図を出すと、モフルはその場で足を止めた。だが毛は戻らない。

「近づけて確かめますか」

 試験居住者の一人が言った。

「いいえ」

 セラフィナは即座に退けた。

「本人が避けている場所へ、確認のために近づけません」

「でも、何に反応しているか分からないでしょう」

「分からないからです」

 セラフィナはモフルの前にしゃがんだ。手は伸ばさず、祈り声に似た穏やかな調子で短く呼びかける。

 モフルはしばらく湧出口を睨んだ後、彼女の衣服へ脇腹だけを触れさせた。

「今日は利用しない」

 レントは湯気の向こうを見た。

 せっかく現れた温泉だ。目の前にあるのに、指先すら浸さない。

 それでも、最初の約束は観察だった。

「全員、区画の外へ戻る。温水には触れない。流れだけ確認して、今日は終わりだ」

 翌日も、その次の日も、温泉は湧き続けた。

 レントが能力を使わなくても、湧出口は消えない。温水は浅い窪みを満たし、低い側へ流れていく。

 セラフィナは巨獣の呼吸と皮膚の様子を見た。周囲の魔力を確かめ、湯の温度と流れの変化を追った。

 目立った異変はない。

 だが、モフルの反応も変わらなかった。

 区画へ向かう途中までは同行する。それ以上は進まない。湧出口が見える位置で毛を逆立て、レントたちを振り返る。

 三日目には、モフルはセラフィナの足元へ体を寄せたまま、湧出口へ低く唸った。

「怖いのか?」

 レントが問うても、答えは鳴き声だけだ。

「むぅ」

 危険なのか。巨獣が嫌がっているのか。温度か、匂いか、魔力か、それとも別の何かなのか。

 どれも断定できない。

 レントは方向を示す合図を出しかけ、手を下ろした。

 確かめるために行けと命じるのは違う。

「俺たちに何とかしろってことか」

 モフルはレントの足元を一度回り、またセラフィナの側へ戻った。

「少なくとも、一頭で確認しに行くつもりはないようです」

「それを進歩と喜んでいい場面かな」

「助けを求められているのですから、応えるべき場面です」

 数日分の観察結果を持ち帰り、共用区画で判断を開いた。

「温度は安定してる」

 ミレイは真っ先に言った。

「流れも調整できる。工房へ直接引かなくても、道具を温める用途はある。暖房だって、区画を分ければ試せる」

「既存の燃料や作業負担を減らせるなら、使う価値はあります」

 試験居住者も頷く。

「入浴を後回しにして、加工だけ試す方法は?」

 期待は消えていなかった。レントにも同じ案が浮かんでいた。

 一つずつなら試せる。範囲を絞れば、危険も抑えられるかもしれない。

 セラフィナが皆の顔を見渡す。

「数日間、即時の異常は見つかりませんでした」

 ミレイが口を開きかける。

「ただし、それは安全を確認できたという意味ではありません」

 先回りされ、ミレイは黙った。

「モフルの拒否も、危険の証明ではありません。巨獣の意思だと断定することもできません。本人が何かを嫌い、私たちへ対応を求めている。それ以上は分かりません」

「分からない反応だけで、全部使わないのか」

 ミレイの声には苛立ちがあった。

「それを決めるために集まっている」

 レントは湯気の光景を思い浮かべた。

 夢から出せた。温水は湧いた。能力は成功した。

 だが、成功したことと、町へ組み込むことは別だ。

「俺は利用開始案を取り下げる」

 共用区画が静まった。

「入浴も、加工も、暖房も試さない。追加で広げることもしない」

「全部?」

「ああ」

「理由が分からないまま?」

「分からないからだ。しかも、もう出した温泉は消せない。ここで利用を始めて、後から問題が分かっても、元には戻せない」

 レントは試験居住者たちへ向き直った。

「温泉がなくても、今の町は暮らせる。水も食料も住居もある。便利になるために、分からないものへ賭ける必要はない」

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて一人が言った。

「使わないなら、残った温水が町へ流れないようにする必要があります」

「立ち入りも止めた方がいいです。誰かが勝手に試さないように」

「保留に賛成します」

 別の者が続く。

「便利だからこそ、使い始めた後では止めにくくなります」

 ミレイは深く息を吐いた。

「納得はしてない」

「知ってる」

「でも、使わないなら使わないで、半端な放置は許さない。工房はまだ本修理できてないから、大きなものは組めない。軽い柵にする。地面へ強く固定もしない」

「排水は?」

「既存の傾斜を使う。町と反対側へ流して、水位が上がらないようにする」

「頼む」

「封鎖を頼まれて喜ぶ職人はいないからね」

「温泉設備を頼むより安全だ」

「次に言ったら、柵の内側へ入れる」

 軽口を返しながらも、ミレイの手は早かった。

 作業可能な範囲で軽い部材を組み、湧出口から十分に離れた位置へ柵を置く。温水は低い地形へ流れるよう調整され、生活区画へ向かう筋は塞がれた。

 数日後、封鎖は形になった。

「ここは危険と決まった場所じゃない」

 柵の外で、レントは集まった者たちへ言う。

「理由が分かるまで、利用範囲から外した場所だ。勝手に入らない。温水も使わない。何か変化があれば、見つけた者が知らせる」

 柵の向こうでは、温泉が変わらず湯気を上げている。

 使おうと思えば、使える距離にある。

 それでも誰も越えなかった。

「ふる」

 モフルがレントの足元へ近づき、前脚のあたりへ体を触れさせた。

 すぐに離れるかと思ったが、そのまま一呼吸ぶん留まる。それからセラフィナの側へ行き、今度は自分から彼女の膝へ肩を寄せた。

 セラフィナは耳の角度を確かめてから、短く毛へ触れた。

「無視しなかった、と受け取ってよいのでしょうか」

「そう思いたいな」

 モフルは湧出口へは近づかない。

 だが、もう二人の間を焦って往復することもなかった。

 温泉は残った。

 入る者も、使う者もいないまま。

 それは失敗ではない。

 町が自分たちで選んだ、使わないという成果だった。