眠る巨獣の背中で町づくり――夢の景色は消せないので、仲間と動かせる暮らしを始めます

「今夜は、ここで寝る」

 レントが寝具を新しい住居へ運び込むと、ミレイは入口代わりの幕を持ち上げたまま眉を寄せた。

「言い方だけ聞くと、ただの宿泊だね」

「完成した家で寝るんだから、ただの宿泊でいいだろう」

「試験項目は?」

「朝まで壊れない。俺たちも壊れない。それで十分だ」

「雑」

 ミレイはそう言いながら、持ち込まれた予備幕と水、保存食を壁際ではなく寝床の端へ寄せた。三方向を開けられるよう、出口の前には何も置かない。

 セラフィナは住居の外で、巨獣の皮膚と骨組みの支持位置を見比べていた。

「通常の呼吸なら、昼の試験と大きな違いはありません。ただ、夜は冷えます。無理だと思ったら旧拠点へ戻りましょう」

「新居で最初に決めることが、退去条件か」

「戻れる場所を残したから、試せるのです」

「分かってる。滑動式の仮設拠点もそのままだ。意地を張って凍えるつもりはない」

 少し離れた場所では、モフルが風の当たりにくい骨組みの陰へ丸くなっていた。住居の中へ入る余地は空けてあるが、レントが呼んでも耳を一度向けただけで動かない。

「参加者は三人か」

「本人がそこを選んだなら、それでいいでしょう」

 セラフィナが答えると、モフルは背を向けたまま毛を少し膨らませた。追ってくるな、という意思表示に見える。

 夕食は保存食と乳製品で簡単に済ませた。日が落ちてからしばらくは、試験は驚くほど順調だった。

 巨獣が息を吸うたび、床がゆっくり持ち上がる。骨組みは軋まず、幕壁だけがかすかに揺れた。寝床へ横になっていれば、傾きも仮設幕の頃より穏やかに感じられる。

「家だな」

 レントが天井を見上げて言う。

「屋根と寝床しかないけどね」

「昨日までは、ここで眠ってはいなかった」

「棚を外したこと、まだ根に持ってる?」

「少しだけ」

「出口に足を取られて転ぶよりはいいでしょう」

 セラフィナの声が暗がりから返る。

「分かってる。だが、寝ながら手を伸ばして物を取れる暮らしにも憧れはある」

「そのうち、家を動かす前に荷物を全部拾うことになりますよ」

「夢が現実に負けた」

「いつものことです」

 ミレイが小さく笑った。

 その余裕が消えたのは、夜が深まってからだった。

 首筋を撫でた冷気に、レントは目を開けた。幕の裾が持ち上がり、細い風が床を這っている。

「寒い」

「起きてる」

 反対側からミレイの声がした。

「私もです」

 セラフィナもすでに身を起こしていた。

 レントが幕の隙間を押さえる。すると風向きが変わり、今度は後方の接続部から冷気が入った。三方向を同じ手順で開けられる構造は、風にとっても三方向の入口になる。

「破損ではありません」

 セラフィナが留め具へ触れる。

「幕も接続部も正常です。ただ、冷気を防ぐには開きすぎています」

「予備幕を重ねる」

 ミレイは待っていたように布をつかんだ。

「内側へもう一枚。裾も長くする。空気の層を作れば冷えは減る」

「重くならないか」

「幕一枚なら骨組みは耐える」

「出口は?」

「開けられるようにはする」

「今と同じ速さで?」

 ミレイは答えず、予備幕を接続部へ仮留めした。

 三人で一面を重ねると、そこからの風は弱まった。だが、布が増えた分だけ持ち上げる動作が重い。さらに巨獣の呼吸で床が傾くと、重ねた幕が片側へ寄り、隣の出口へかかった。

「これは駄目ですね」

 セラフィナが即座に言う。

「まだ調整できる」

「夜中に調整し続ける住居は、眠るための場所ではない」

「祭守殿、構造は一度で完成しない」

「ですが、出口を犠牲にして暖かくするなら、昨日削った壁を戻すのと同じです」

 レントは別の面にも予備幕を当ててみた。冷気は確かに減る。代わりに内部は狭くなり、三人が同時に動けば布と寝具が絡んだ。

 巨獣の呼吸が沈む。

 今度は反対側の隙間から、冷たい風が入り込んだ。

「壁を追いかけてるな」

 レントは予備幕を外した。

「風向きが変わるたび、厚くする場所も変わる。一棟だけで全部に耐えようとするのが間違いだ」

「壁を諦めるの?」

 ミレイの声には、あからさまな不満が混じった。

「万能な壁を諦める」

「それで寒さは消えない」

「ここにいる限りはな」

 レントは幕を持ち上げ、外へ出た。

 夜気は冷たかったが、少し離れた場所では空気の感触が違った。巨獣の体温は一様ではない。皮膚の高低や風の通り道によって、同じ生活圏の中でも暖かさに差がある。

 前世の都市でも、建物一つへあらゆる用途を詰め込めば、結局どこかへ無理が出た。朝に人が集まる場所と、夜に落ち着ける場所は違う。季節や時間で使う空間を変える方が、建物を過剰に作り込むより合理的なこともある。

「セラフィナ。近くに、今より暖かくて使える場所はあるか」

 セラフィナはすぐには答えなかった。巨獣の皮膚へ手を当て、呼吸の上下と風向きを確かめる。暗がりの先へ歩き、いくつかの場所で足を止めた。

「こちらです」

 彼女が示したのは、現在地から遠くない緩やかな高まりの陰だった。

「体温はここより高い。風も直接抜けません。ただし、さらに内側は避けてください。皮膚の動きが大きく、長く置けば負担を確認する必要があります」

「今夜の短時間なら?」

「支持位置を分散させ、朝に状態を確認するなら使えます。巨獣が望んでいるとは言えません。ただ、今の観察では利用を止める理由もありません」

「十分だ」

 レントが住居へ戻ると、ミレイは腕を組んで待っていた。

「家を動かす気だね」

「この軽さは、揺れに耐えるためだけじゃない。寒いなら、暖かい場所へ移す」

「壁を完成させずに?」

「全環境へ固定したまま対応する家にはしない」

「構造で負けたみたいで嫌」

「配置で勝てばいい」

「それはレントの得意分野でしょ」

「だから今は俺に勝たせろ」

 ミレイはしばらく睨んでいたが、やがて寝具をまとめ始めた。

「支持部が歪んだら、勝ちとは認めない」

「歪ませないために手を貸せ」

「言われなくても」

 三人は水と寝具だけを先に移し、予備幕はまとめたまま持った。接続部を確認し、三方向の幕を上げる。骨組みの持ちやすい位置へ手を入れ、巨獣の呼吸が沈みきったところで持ち上げた。

「今です」

 セラフィナの合図で歩き出す。

 軽量とはいえ、住居一棟を運ぶのは楽ではない。床が傾けば、三人の腕へかかる重さも変わる。

「右へ寄せる」

 レントは進行方向を変えた。正面の高まりを越えるより、傾斜に沿った方が骨組みを水平に保てる。

「そっちは皮膚の動きが大きいです。もう少し外へ」

「左の支持が下がる!」

 ミレイが枠を押し上げる。レントが歩幅を縮め、セラフィナが次の呼吸を見て止まる位置を示した。

 先ほどまで骨組みの陰にいたモフルは、いつの間にか別の風陰へ移っていた。三人の前には出ず、少し離れた場所から振り返っている。

「案内してるつもりか?」

 レントが声をかけると、モフルは「ふる」と短く鳴き、さらに奥ではなく横へそれた。

「自分の場所を選んだだけでしょう」

「分かってる。少しくらい仲間らしい意味を持たせたかった」

「都合よく解釈しないでください」

 温暖区画へ住居を下ろす。支持部を置き直し、幕壁を元の位置へ戻した。

 追加の布は使わなかった。

 寝床へ横になると、違いはすぐに分かった。幕の隙間から空気は入る。それでも冷たさが弱く、床付近へ溜まる寒気も先ほどほどではない。

「構造は同じなのに」

 ミレイが不満そうにつぶやく。

「場所が違えば、性能も変わる」

「分かってる。でも悔しい」

「持ち手は直せそうか」

「そこは直す。次に動かすなら、三人が同じ高さを持てるようにしたい。支持部も置き直しやすくする」

「移動も性能だと認めたな」

「可動建築なんだから、最初から私の領分」

「今、配置で勝った俺の話を奪っただろ」

「寝なさい、二人とも」

 セラフィナの声に、レントは毛布を引き上げた。

 住居は巨獣の呼吸に合わせ、夜の間も緩やかに上下した。幕壁が揺れるたび目を覚ますことはなかった。誰かが出口を塞ぐこともなく、旧拠点へ戻る必要もなかった。

 翌朝、レントは幕越しの明るさで目を覚ました。

 体を起こし、正面の接続を持ち上げる。幕は昨日と同じ軽さで落ちた。外の空気は冷えていたが、寝床には夜のぬくもりがわずかに残っている。

 セラフィナは支持位置と皮膚の状態を確認し、ミレイは骨組みの接続部を一つずつ見て回った。

「大きな損傷なし。歪みも許容範囲」

「三方向とも開きます」

 セラフィナが別の幕を上げた。

 少し離れた風陰では、モフルが自分の毛へ鼻先を埋めて丸くなっている。三人が起きたことに気づくと耳だけを向けたが、こちらへ来る様子はなかった。

「モフルも朝まで自分の場所を守ったな」

「宿泊試験には参加していません」

「同じ夜を越した。それでいい」

 レントは住居の外へ出て、朝の光の中で低い骨組みを見た。

 壁は厚くない。棚もない。どこへ置いても同じ快適さを得られる家でもない。

 だが、三人が眠り、通常の呼吸を越え、朝まで使えた。寒ければ壁を重くするのではなく、暖かい場所へ家ごと移せる。

「家は、場所に縛りつける物じゃなくてもいい」

 レントが言う。

「暮らしに合わせて動かせばいいんだ」

 ミレイは骨組みの持ち手になりそうな位置を眺めながら、悔しそうに笑った。

「次は、もっと動かしやすくする」

「工房も連絡路もまだですよ」

 セラフィナが釘を刺す。

「分かってる。町が完成したとは言わない」

 それでもレントは、新しい住居から昇る朝をしばらく眺めた。

 仮設幕ではない家で迎えた、最初の朝だった。