幼き日々の記憶は(おぼろ)げなり。されど、やんごとなき身であること、明白なり。

 「おぼっちゃま、おかえりなさいませ!」

 「夕食はいかがなさいましょう、おぼっちゃま。」

 みな我のことを「おぼっちゃま」と申す。我に父なし。記憶もなし。母とともにこの園田家の離れに身を寄せて育つ。

 「三酒(みさか)、どうなさいます?」

 母は来る日も来る日も、見合い写真ばかりよこす。さを丁重に辞退いたすが、我の日課となりつつありける。

 「我はまだ、祝言(しゅうげん)など…。」

 「では、いつです? いつになれば、夫婦(めおと)となり、私を安心させてくれるのですか?」

 時は如月。氷の如く冷たき風が我が頬を刺す。

 「夢を叶えし時…。」

 「夢が叶えば結婚してくれるのですね。では、夢とは、何ですか?」

 ドサッ。

 母屋の屋根より雪が落ち、目を離しし時、母も雪を見、この話、打ち切りとあいなり。

 時は昭和。世に酒が溢れ、酒のみならず、洋酒も回りたり。我が最愛の酒、その御名ウヰスキーと聞こゆる洋酒なり。

 「我は、ウヰスキーを売ってみとうございます。」

 「そうか。でもなぁ。」

 我が身を寄す園田家は豪族なり。しかれど、商いの心なし。かばかりの事情にて、旦那さま険しき顔にて返事すなり。

 「それが三酒の『夢』なのですか?」

 「はい。」

 我が母、さを聞き、わずかに微笑む。

 「ならばまず、どこに売るかを考えなさいませ。洋酒を多く買ってくれそうなところを。」

 さはありて、我が身はカフェーにあり。その名チカと言う。

 「おぼっちゃま、そっちじゃなくてこっちです。」

 「はい!」

 我はボウイの職を務めるなり。我が教育係はおマツと聞こゆ。

 「おマツさまはなぜ我に敬語なのですか?」

 「それは…。」

 おマツが言うに、我はいにしえの主人の子ゆえ寵愛を受けているらし。

 「その主人とは、何をしていたのですか?」

 「酒屋だよ。今ははずれにあるけど、米倉酒造(よねくらしゅぞう)って。でもうまくいかなくてね、若女将に世話してもらってここに来たのさ。若旦那にもよくしてもらったよ。」

 さを聞かば、我急ぎ母を訪ねる。我が母にその実を聞かん。

 「そうね、そろそろお話ししなくては。」

 「我が父は今も酒屋を営んでおるのですか?」

 「へぇ。」

 我は母の話を遮りて、はずれの米倉酒造へ走らん。さを母、走りて追いかける。

 「いらっしゃいませ。…あ。」

 その父、顔は丸く、眉細し。身は細く背高くなし。我は顔四角く、眉太く、身は厚く背高し。我が身とは似てもにつかぬいでたちなり。

 「まことに我が父にございますか?」

 父、静かにうなずくのみ。母の着きし息切れのみ、米倉酒造に響きけり。雪残る土間にて、膝をつき頭を下げん。

 「我に、ここでウヰスキーを売らせてください!」

 商いは盛況となり、ありし日の米倉酒造のにぎわいをともす。かつて勤めた者日に日に店に寄す。園田家のおカツ帰らんとせば、父、泣いて喜ぶ。母大いに泣いて喜ぶ。

 「あぁ。これでまたお酒が作れるわ。三酒もここで働けて。こんな日が来るとは。」

 母の涙の所以(ゆえん)、我知らず。けだし、心大いに揺さぶられしこと、えやすく、我が心も揺さぶる。

 「では、営業に行って参ります。」

 我、久方ぶりにカフェー・チカへ向かう。戸には「定休日」の文字あり。

 「お客さん、すいませんね。今日はあいにく定休日で、女の子たちみんな休みなんですよー。」

 眉太く身の丸き男、湯呑みを拭きつつそう言いけり。我の太き眉にシワを寄す。

 「いや、女の子ではなく。我、米倉酒造の者でございますが、酒を置かせてはいただけませぬか? 酒も洋酒のウヰスキーも扱うております。」

 「いいね。ウヰスキー、流行りそうだもんね。面白いもん教えてくれて、ありがとうお兄ちゃん。」

 彼は店主なり。かつて勤めし我といえど、(まみ)えしことはなし。その店主、未だ我を見ず。湯呑み拭くばかり。

 「で、ウヰスキーって舶来品かい? それとも噂の国産品?」

 そう言いつつ初めて顔を上げる。その顔凍りつきしこと、氷の如し。